十六 『みんなのことが大好きだから』
「百妖君、お湯とタオルを持ってきました。セイリュウさんとスザクちゃんが鈴歌さんを見てくれるそうです」
「ありがとう」
右手を差し出すと、千里は不思議そうな表情でそれを見つめた。
「えっ、もしかしてこれですか? 心春ちゃんは男性恐怖症なんじゃ……」
「寝てるから大丈夫。それに、これくらいしか俺は役に立てないから」
「……そんなことはないと思うんですけど、わかりました」
千里から手渡された桶を傍に置き、中に入っていたタオルを絞る。近くに座った千里は何もせず、ただただ式神のように結希を見守っていた。
「神城さん、体育祭には戻らないの?」
タオルを開いて折り畳み、心春の頬にそれを当てる。血と涙で汚れたそれを拭ったのは愛果が初めてだったが、愛果よりもできる限り力を抜いた。
「戻りません」
千里は一瞬だけアリアに視線を移して──
「だって、私はもう間宮家の式神のことが大好きだから」
──結希に向かって微笑んだ。
「…………」
「出逢ってまだ二ヶ月ですけど、それでもずっとお母さんの代わりに見守ってくれたみんなのことが、大好きなんです」
心春の血を綺麗に拭うと、ずっと壁に寄りかかって突っ立っている涙の言う通り傷口が跡形もなく消えていた。
「好きになったから私はここにいるんです。体育祭よりも、みんなのことが心配だから」
「……そっか。あいつらのこと、好きになってくれてありがとな」
視線を逸らさないまま、傷口があったはずの額に素手で触れる。
千里の想いは、今だからこそ痛いくらいに理解できた。
「俺も……」
わかる。
『お前こそ、あいつらのこと姉だと思ってねぇだろ』
それでも。
「……俺も、百妖家の家族が大好きだ」
その答えに辿り着く為に、だいぶ遠回りをした。
「正直、最初の頃は性別違うし会話続かないし気ぃ遣うしで、〝かぞく〟って言われてもよくわかんなかったんだ。でも、最近はそうでもなくてさ」
額から手を離して、華奢な指に触れる。
「楽しいんだ。心春ちゃんに殴られても、今日は強くなかったなぁとか、最近は殴らなくなったなぁとか、そういう進歩がわかると嬉しいし」
心春が男性恐怖症になった経緯を聞いた今だからこそ、傲慢かもしれないが同時に誇らしくもあった。
「突然家族になって、家を出るつもりだったのに守りたいと思ったから傍にいて、家族として好きになったのはつい最近のことなんだ。心春ちゃんが怪我をして、この二ヶ月間どれだけ自分がみんなを心配させていたのかもようやくわかった」
人生経験も人一倍足りていないから。
改めて見つけた未熟な自分を小さく笑って、結希は心春の掌に指を進ませた。
「二人と違って順番が逆だから、気づくまでだいぶ時間がかかったけど」
すると、心春の指が動いた。
気づかれないように引き抜こうとするが、握ったのは心春の方だった。
「…………ぼくたちも、お兄ちゃんのことが大好きだよ」
ぼんやりとした若草色の瞳が結希を捉える。
「ずっとここで、ぼくたちを守る為に頑張ってたから、体育祭で無理をしてないか心配だったの。なのに、後をつけてたら、結局足、引っ張っちゃった」
いつも以上にか細い声で、心春は瞳を潤ませた。
「本当にごめんなさい」
「心春ちゃんは謝るなよ。……こっちこそ、ごめん」
瞳を閉じて首を短く横に振れば、一筋の涙が頬を伝う。心春を泣かせたのは間違いなく結希だった。
「そんな顔してたら誰も救えないよ。ね? ヌイ」
「……気づいてたのかよ」
「私はそこまでバカじゃないよ」
「……それって、またアイツの受け売りか?」
乾は気怠るそうに体を起こしてアリアをまっすぐに見つめる。
「うん。『ニコニコは世界を救う』、最高の言葉じゃない。だから、ゆうくんも心春もにこにこって笑っててよ」
顔を上げると、アリアがにこにこと笑っていた。
「優しい人なんですね、その人」
記憶がなくても、世の中そんなに甘くないことくらい結希にはわかる。妖怪が蔓延るこの町では特にそうだ。
「うん。現実はそう簡単じゃないけど、そうやって救えたら素敵だよね」
光が強い町の裏側には、深い闇の悲劇がある。
心春のような血統書つきの半妖の裏側には、アリアや乾のような人工的に生まれた半妖、千里のような存在自体が罪の半妖、亜紅里のような裏切り者の半妖がいる。
「……現実は、もっと複雑ですよ」
結希は背筋を正した。
心春は結希の雰囲気の変化を敏感に感じ取り、体に鞭を打って起き上がる。
「心春ちゃん。目を覚ましてから急で悪いんだけど」
心春がまだぼんやりとしているからなのか、それとも結希だからなのか、握った手はいつまで経っても離れなかった。
「今度こそ守るから、今すぐ俺と一緒に来てくれ」
酷なことを言っていると思った。
「うん。こんなぼくだけど、絶対に力になるから」
それでも心春は、顔を赤らめながら何度も何度も首を縦に振った。
「だから、てめぇら二人になると互いのことしか見えねぇのかよ」
「ヌイって空気読めるのにわざと壊すよね。それ悪趣味って言うんだよ?」
「アリア、乾。台無しです」
今まで黙っていた涙は、アリアと乾を呆れたように眺めて窘める。誰よりも可愛がっている義妹が相手だからこそ、生まれて初めて涙が兄という存在に見えた。
そんな涙の背中を見ることなく結希は立ち上がり、ゆっくりと続く心春を支える。
「ちょっと待って」
アリアは座り込んだまま手を伸ばした。
黄金色の光が二人を包み込み、ずっと痛んでいた筋肉痛が嘘みたいに消え去る。
「アリア、アレ貸してやれ」
「あれ? あー、はいはい」
アリアは背中に手を伸ばし、軍服の襟ぐりから日本刀を取り出した。
「はい、ゆうくん。これは私の愛刀、《如月》。《如月》を私だと思って戦って」
「いいんですか?」
「さっさと持っていけ。亜紅里は右腕に盗聴器が埋め込まれている。あいつを本気で仲間にしたいなら、まず右腕を切り落としてからにしろ」
「ッ……!」
《如月》から視線を真下に移すと、桜色の髪に隠れた心春の顔が強ばっていた。赤かった顔色は真っ青に逆戻りし、その怯え具合が尋常ではないことに気づく。
『……ぼくに、〝助けて〟って言う……資格はない、の』
心春の言葉が再び聞こえた。
「ぐずぐずするな、さっさと決めろ。私とアリアと涙には他にやるべきことがある。そして、今この瞬間にも末森と本庄が時間を稼いでるんだぞ」
「ヌイ、言い過ぎだよ」
「いいや言うさ。こいつはたった六年しか生きた記憶がないクソガキだ。これから先、こいつが生きていく上でそれが途方もない障害になる。お前の中身が空っぽなのは〝人生経験〟が圧倒的に足りねぇからだ。だから、私だけはお前を甘やかさねぇぞ。結希」
「……借ります、貸してください」
ずっと差し出されていた打刀の《如月》を両手で受け取り、結希はアリアと乾に一礼した。
「行こう、心春ちゃん。ヒナギクたちが待ってる」
怯えながらも何か言いたげな心春は乾を見下ろしたが、乾に睨まれて萎縮する。そして身を縮めながら縁側に置きっぱなしにしてた靴を履いた。
「あ、森を抜けるまで送ります」
「頼む」
「結希、これを」
振り返ると、千里の後ろから涙がぬっと姿を現した。涙は結希の背後からベルトを勝手につけ、取り上げた《如月》を差す。
「応急処置です。これで勘弁です」
「ありがとうございます、涙さん」
「…………俺は結希の兄でもあります。昔のように〝涙〟で結構です」
涙はふい、と結希に背中を見せてアリアと乾の元に戻る。初めて見た涙の兄としての背中は、誰よりも広かった。
「……結希、悪かったな。結局私の透視と予知能力も幻術の前では無意味だった」
さっきまでの威勢は消え、本当に申し訳なさそうに乾は言う。
「亜紅里には結果を壊す力がある、それがわかっただけでも俺にとっては充分意味があります。乾さん、色々とお世話になりました。ありがとうございました」
乾は結希を見なかった。
今度は三人に向かって軽く頭を下げ、「急ごう」と千里と心春をそれぞれ見つめる。
「はい」
「うん」
真っ先に駆け出す緋色の体操着は、この瞬間が体育祭の続きなんじゃないかと結希に思わせた。群青色の体操着に日本刀を差すという不審な格好をした結希だったが、これが今日一番の戦闘服だという自負があった。
来た時と同じように森を数秒で抜け出した結希は、立ち止まって結希と心春を見送る千里に向かって叫んだ。
「鈴歌さんを任せた!」
「任せてくださーい!」
すぐさま陰陽師の力を使い、亜紅里の居場所を再び探す。同時に肩に心春の重みがかかり、すぐに消えた。
「ッ!?」
それでも恐怖もすぐに消えた。
視界の端、右側に桜色の髪が靡いている。久しぶりに見た心春の小人姿はあまりにも心臓に悪かった。
「『風になれ』!」
心春の言霊の力で、さらに体が軽くなるのを感じる。
「心春ちゃん、約束してほしいんだ」
「……約束?」
数日前、心春がこの姿になった時、心春は吐いた。その時もまた心春は〝助けて〟とは言わず、みんなを〝助けて〟ほしいと言った。
「できる限り心春ちゃんを守るけれど、もし何かあったらちゃんと『助けて』って言ってほしい。約束できる?」
「…………ごめんなさい」
だというのに、返ってきたのは拒絶だった。
「どうしても?」
「ぜ、絶対に……し、したくないです」
最初の頃のような吃音になるくらいだから、余程なのだろう。それでも結希は諦めなかった。
「ならせめて、俺を呼んで」
「…………え?」
「『助けて』じゃなくて、俺のことを呼んで。約束できる?」
視界の端の心春は、本当に小さな声で答えた。
それでも肩に乗っていたからこそ、よく聞こえる。
「はい」
言霊に乗せて、心春は誓った。




