十五 『心を春に』
──ぼくに、〝助けて〟って言う資格はないの。
そう言って、心春は閉じたままの瞳から涙を流した。
そんな資格なんてどこにもない。あっていいわけがないのに、結希は言葉を失った。例え叫んだとしても、意識を失った心春には絶対に届かなかった。
「……そんな言葉、家族が聞いたら救われないよ」
冬乃は声を震わせ、悔しそうに歯を食いしばる。家族に聞かせたくなかった心春の本音は、誰のことも救わなかった。
「……小白鳥先生、やっぱりここで手術してください!」
「したいよ、させてあげたい! ずっとずっと傍にいてあげたい! 正面から愛してあげたい!」
代わりに何倍も叫んだ冬乃は足を縺れさせる。
「けど、あの半妖が去らない限りここは危ないの! お願いだから心春ちゃんを抱えたまま逃げて!」
冬乃は勢い良く妖目総合病院の裏口を開けた。その先には住宅街が広がっており、冬乃は無慈悲に結希の背中を押す。
「俺が結界を張ります! だから、医者なら助けてくださいよ!」
「医者として失格なのはわかってる! でも、医者だからこそ病院じゃないの! 心春ちゃんを救えるのはここじゃない!」
冬乃は、ついに涙で顔をぐしょぐしょに濡らした。
「ごめんね、私は……心春ちゃんを救えない。みんながみんな、結希くんみたいにかっこよく誰かを救えないの」
「でも俺も救えなかった!」
「違う! あの日結希くんが本当に救ったのは、〝心〟なの! 走って泣き疲れていたみんなに、『生きてていいんだよ』って、『明けない夜はないんだよ』って……! 大人になって、絶望して、厳冬の中にいたみんなの心を春にしたのは結希くんなの!」
記憶を失った結希に、冬乃は何度でも何度でも訴えた。
「だから、あの日に取り残された心春ちゃんも、〝命〟じゃなくて〝心〟を救ってあげないと意味がないの! 死ぬことよりも、生きてる方がよっぽど辛いから……!」
精神科医の冬乃は、その痛みを自らも感じていた。だと言うのに、他人の痛みも間近で診続けていた強い人だった。
「だから走って! 走ってたらきっと、誰かが助けてくれるから! 結希くんに恩を感じている人は、この町にたくさんいるんだから!」
冬乃は迷いもなく扉を閉めた。結希は呆然と突っ立っていたが──
『この町を走って!』
──それに気づいた冬乃の最後の一言が、何故か結希の足を動かした。
人気のない住宅街をたった一人で走りながら、どこに行けばいいのかもわからずに結希は歯を食いしばる。
腕の中の心春の重みも、筋肉痛になっている足の感覚も、何もかもが消えていくようだった。一人ぼっちで町を彷徨っているかのようでもあり、膝を折りかけた刹那──
「百妖君!」
──風に乗ったラベンダーの匂いが、結希を現実へと引き戻した。
「神城さん!?」
体操着を着たままの千里は、荒い息を整えながらまっすぐに結希を見据える。
「どうしてここに……」
「私は式神の半妖だから。主に危機が迫っていたら、わかるんです」
そのラベンダー色の瞳は不安で曇っていた。
「俺は神城さんの主なんかじゃない」
言葉にしながら、セイリュウと交わした約束が脳裏を過ぎった。
この犠牲と宿命の戦争に千里を巻き込まない。戦わせない、と。
「確かに正式には違います。けど、ここにはいつでも百妖君がいた」
愛おしそうに、自分の心臓の位置に手を当てて。それでも千里の足は小刻みに震えていた。
「結希!」
真っ昼間に影が差し込んだかと思えば、結希の傍に涙が飛び下りる。
乾を抱き抱えたままの涙は、同じく一反木綿の鈴歌から飛び下りた女性に視線を向けた。
「どこか人気のない……静かで休める場所を探して!」
二十代前半くらいの女性は濁りのない金髪を振り乱しながら、蒼い目で辺りを見回した。
《カラス隊》専用の漆黒の軍服を着用しているのも相俟って、決して背が高いわけではないのにモデルのようにスタイルがいい。そして西洋人形のように整った顔だちを焦りに歪めて、不格好なほど慌ただしく歩いては止まり、歩いては止まりを繰り返していた。
「あります!」
足を止めた女性は、すぐさま「どこ?!」と食いついてくる。
声を上げたのは、覚悟を表情に刻みつけた千里だった。
千里は結希だけを見据え、瞳で尋ねる。千里の真意に気づいた結希は、腕の中の重さを消さないように抱き寄せて──
「連れてってくれ」
──助けを求めた。
「はいっ!」
走った末に辿り着いた、千里の心の底からの嬉しそうな笑顔が。冬乃が繋いでくれた救いの手だった。
「鈴歌さん! 俺たちを一番近い森の手前までお願いします!」
すぐさま伸びてきた黒い布はその場にいた全員を一瞬にして背中に乗せ、幻術がかけられたままの鈴歌は空を駆ける。
「…………下りて」
「え」
「わっ」
刹那、ぶんっと体をうねらせて、鈴歌は全員を紫陽花の上に落とした。潰した紫陽花の真上で見たのは、鈴歌の体をいとも容易く貫いた一つの狐火だった。
「鈴歌さん!」
盾になった鈴歌は、せめて落ちないようにと力を振り絞る。黒々とした体が赤黒く染まったが、黄金色の光が鈴歌の体を包んだ。
「鈴歌さんは私が連れてくから、ゆうくんとるいるいは二人を運んで!」
「こっちです!」
千里の声はすぐ傍の森の中に潜っていった。慌てて追いかけると、数歩後に見えたのは木々ではなくて青空だった。
奥には間宮家の式神の家があり、千里は我が家のように遠慮なく駆け込んでいく。スザクよりも早く辿り着いたこの場所は、完全に千里の帰る場所になっていた。
「誰か! 誰かいませ……きゃあ!」
「千里! この緊急時にいなくならないでください! 心配したでしょう!」
「ごっ、ごめんなさい! でも私、ずっとモヤモヤしたまま知らんぷりなんてできなかったんです!」
千里の首根っこを掴んで奥の部屋から出てきたセイリュウは、結希と涙を視界に入れて顔色を変えた。
「スザク、来なさい!」
「な、何事でございますか?! ひゃああああ! 心春様! 乾様!」
「千里と共に布団を居間に! 結希様、涙様、縁側まで土足のままで構いません!」
様々な指示を一度に出して、セイリュウは上がってきた結希と涙から心春と乾を片側ずつ受け取る。セイリュウに心春を託した結希は、家を飛び出て人間の姿に戻った鈴歌をおぶる女性の下へと駆け寄った。
「代わります!」
「わっ、ありがとうゆうくん!」
女性は初対面だというのに馴れ馴れしく、状況を理解していないのかにこっと結希に笑顔を見せた。色っぽさの中にある親しみやすい笑顔は、どこかちぐはぐして見える。
「アリア、早急です!」
「了解!」
鈴歌を結希に預けたアリアという名の女性は、涙に呼ばれて駆けつけた。心春と違っておぶり慣れている鈴歌を抱えたまま家に戻ると、心春と乾が居間に敷かれた布団の上に横たわっていた。
「……スザク、鈴歌さんの分も用意してくれ」
見ていられないほど悲惨な光景だった。
それでも、ここにいるほとんどの人間がこれよりも酷いものを見ていることも、頭ではわかっていた。
「鈴歌様まで……?! りょ、了解でございます!」
「もう治したからここに持ってこなくて大丈夫だよ。別の部屋に寝かせてあげて」
そう言って二人を見下ろすように立ったアリアは、再び黄金色の光を手に灯す。
「何を……」
戸惑う結希を他所に、操った光を二人の体に滲ませた。数秒後、アリアはふぅと息を吐いて額の汗を拭った。
「ヌイはともかく、鈴歌さんとさっきの人は血を拭ってあげた方がいいかも。誰かお湯とタオルを持ってきてくれる?」
「それは私と千里が。鈴歌様はスザクの部屋へ」
「は、はい! 結希様、お預かり致します!」
「……頼む」
残された結希は、謎に包まれたアリアに訝しむような視線を送った。《カラス隊》への最低限の信頼があるからこそ口出しはしなかったが、気を許しているわけでもなかった。
「彼女の名は綿之瀬有愛です。乾の家族で、座敷童子の人工半妖です。能力は回復、修理です。もう心配無用です」
膝を折って心春の顔色を覗くと、普段から病的なほど青白いそれは血色が良くなっていた。
「……そっか、覚えてないんだよね。じゃあ初めましてだ」
「……前に俺と会ったことがあるんですか?」
思わず顔を上げると、同じく座り込んでいたアリアは乾の頭を愛おしそうに撫でた。
「もう十年前の話だよ。結城家で、ゆうくんと千羽と紅葉に出逢った。るいるいとみんなは仲良しで、羨ましくて、私もそんな家族が欲しいって思った」
それは、今は亡き絆だった。
涙とは今まで疎遠で、千羽との記憶はなく、紅葉の独特な距離感は苦手だ。
「だから義兄弟になったんですか?」
乾の言っていた〝その子〟とは、名字と言動から考えても間違いなくアリアだった。
すぐ傍に涙がいるのに、今さら溝を埋めるほどの素直さが自分には足りなくて。結希は世界でたった四人しかいない義妹の頭をできる限り丁寧に撫でた。
「うん。死ぬほど大好きだったから」
素直な涙声が聞こえてきた。
それでも結希は顔を上げず、好きになる前に家族となった心春の、妖精のような寝顔を見下ろしていた。




