五 『風呂場の邂逅』
「……いや、似てると思ったんだ」
「似てる?」
一体なんのことだと眉を潜める。
「笑い方だよ。……なんでだろうな、愛果と椿にどこか似ている」
そして麻露は、まじまじと観察するように結希を見つめた。思わず背を仰け反らせても一切身を引こうとはせず、数秒間そのままの体勢を保ってくる。
深い青目が逸らされた刹那、無意識に上がっていた肩が下りた。麻露は間違いなく雪の魔物だ。どれほど緊張していたのかがよくわかる。
「年が近いからじゃないですか?」
確か、愛果が一個上で椿が一個下だったはずだ。明日は高校の入学式で、それからは一緒に登校することになるだろう。
「……そうか?」
麻露は納得していないようだった。だが、考えても意味はないと判断したのか一切追及して来ない。胸を撫で下ろしたのも束の間、麻露は綺麗に並べられた缶に手を伸ばした。
「麻露さん?!」
慌てて持っていた缶を手渡す。半分以上残っているそれを受け取った麻露は、すぐに眉を潜め、「ぬるい」と息を吐いた。
「え?」
結希の体温で温められた缶は、ピキピキと音をたて──中身の酒と共に冷えていく。と同時に、濡れた麻露の手が分厚い氷に覆われた。
「だっ、大丈夫ですか?!」
思わず麻露の手を握ると、突き刺さるような痛みを感じる。それほどに冷たい。手と手がくっつき合って、離れなくて、恐怖を感じる。
「バカかキミは」
そんな結希に呆れ果てた声を浴びせた。徐々にだが、手に纏わりついていた氷が溶けていく。残されたのは、赤くなった結希の手と雪のように白い麻露の手だった。
「まるで月夜と幸茶羽じゃないか」
冷たく濡れた手を服の裾で拭っていると、麻露がため息と共にそんな言葉を吐き出した。末っ子で双子、そんな二人の瓜二つの顔が脳裏を過ぎる。
「似てますか?」
その名がまったく似合わない、太陽のように笑う姉の月夜。そして、幸せを寄せつけない瞳を持つ妹の幸茶羽。
麻露は今、その二人と結希が似ていると言ったのだ。
「考えるよりも先に行動するところがそっくりじゃないか」
「…………」
「何も言えないか」
にやっと、特段いやらしくもなく麻露は笑った。
この人は本当にこういう笑い方しかしないな、口には出さないがそう思う。だが、麻露の言う通り結希は何も言い返せなかった。
恥ずかしくて何気なく移した視線の先には掛け時計があり、時刻はあと少しで午前十二時になろうとしている。
そこでようやく、結希はここに下りてきた理由を思い出した。
「麻露さん」
「なんだ?」
気づけばまた、麻露は酒を飲んでいた。
今日一日でこの人はどれだけの酒を飲んだのだろう。呆れている結希を見、麻露は辛うじて残っていた羞恥心をわずかに見せる。といっても、視線を逸らしただけで缶からは手を離さなかったが。
「……あの、俺の風呂の件ってどうなるんです?」
女性に対してこの話題はどうかと一瞬思ったが、不潔扱いされる方が嫌に決まっている。麻露は「あぁ」と空になった缶を置き、真下を指差した。
「下の風呂は使っていいことになったんだ。私たちはいつも夕飯後すぐに入るから、それ以外だったらいつでも使っていいぞ。……まぁ、たまに依檻や熾夏辺りが遅くに帰ってくることもあるから、その辺はキミが気をつけていればなんとかなるだろう」
酔っているからか随分と雑な説明だった。いちいち突っ込むのも面倒になって結希は何も言わなかったが。
その代わりに、並べてある酒缶を持って冷蔵庫に向かう。さすがと言うべきか、冷蔵庫は一般家庭のそれよりも大きかった。
「何をする!」
抗議の声を上げる麻露に、「日付もう変わってますよ。麻露さんも早く寝てください」と一喝する。平静を装って一缶ずつ冷蔵庫にしまっていたが、内心では自分が吐いた台詞に驚いていた。
もしかしたら、自分は世話好きなのかもしれない。意外な発見は照れ臭いもので、思わず口元に手を当てる。十歳も年上の人に一体何を言っているんだろう──振り返ると、麻露は空き缶を持って自分の元に向かっていた。
冷蔵庫の真後ろにある細長いシンクで中身を軽く水洗いし、その近くに二缶を置く。真後ろに人がいるにも関わらず、狭いと思わないほどの広さが百妖家のキッチンにはあった。
「じゃ、おやすみなさい」
取っ手に手をかけ振り返ると、麻露は水を飲んでいた。返って来ないだろうと思って背中を向けると、「おやすみ」と言葉が耳を撫でる。刹那、結希は知らずのうちに息を止めた。
誰かに「おやすみ」と言ったのは何年ぶりだろう。誰かに、「おやすみ」と言われたのは何年ぶりだろう。
たった一人しかいない肉親の朝日は、陰陽師であるが故に毎晩家を空けていた。学生の結希は、いつも早めに帰されて誰もいないボロアパートで一日の終わりを待っていた。
ようやく、自分の涙腺が緩んでいることに気づく。
涙は決して見せたくないから、慌ててリビングを飛び出した。何度も何度も目元を擦り、着替えを取りに行く為に自室へと急ぐ。
すっかり寝てしまったであろう姉妹たちを起こさないように、なるべく音をたてない配慮をして。
*
往復は、思っていた以上に面倒くさい。
二階まで下りてきて、リビングの光が消えていないことに結希は気づいた。麻露は何をしているのだろう、後ろ髪を引かれる思いをしながら一階に下りると、左側に位置する玄関が視界に入った。
これも冷蔵庫と同じく一回り大きく、何度見ても自分の靴だけが目立っている。見なかったことにして正面にある扉を右にスライドさせると、自室と同じくらいの大きさをした脱衣場が広がっていた。
「…………は?」
おかしい。何故脱衣場の電気が当たり前のようについているのだろう。
風呂場へと続く扉の奥も明らかに電気がついていて、シャワーの音が嫌でも聞こえる。本能が警鐘を鳴らしているのに、逃がさないとでも言うかのようにシャワーの音がぴたりと止まった。
体は固まったままだったが、頭は通常の何倍も早く回転していた。一体誰がここに入っているのだろう。他の姉妹たちは随分前に眠ったはずだ。確認はしていないが、麻露が入っていることもあり得ない。
瞬間、重大なことに気がついた。
明らかに足りていないのだ。十三という姉妹の数と、実際に会った姉妹の数が。
ぴちゃぴちゃと、風呂場特有の足音が近づいてくる。体を真後ろに向ける途中、籠の中に置かれた紫色の下着が視界に入る。
断頭台の上から落ちてきた刃のような音がした。
まったくと言っていいほど、それ以外の音は何も聞こえなかった。とにかく誰だか知らないが、何か言わなければいけない気がした。
「あ、あの……」
「いっ、いやぁぁああっ!?」
さよなら、人生。巡った思考は最期にそこに辿り着く。
半分妖怪で、この家に住んでいるということは、身体的にも精神的にも救いようがないほどの致命傷だ。だが、小さく叫び声を上げただけで、女性は行動に移さなかった。
氷柱か爪で刺されるか、布で首を絞め殺されるか。そんな惨たらしい刑を思い浮かべていたが、少なくともまだ生きている。
陰陽師が半妖に殺される──しかも原因が覗きという、不名誉な結末にならなくて済んだようだ。これは誤解を解く絶好の機会かもしれない。
「……俺、今日からこの家でお世話になる間宮結希です。間違って……」
「それ以上言葉を発したら溺死させます」
撤回する。溺死した。
自分からは何も言えず、相手の言葉を待つしか生き残る術がもうないなんて。だというのに女性は無言を貫き続け、水が蠢くような音だけが脱衣場に流れていた。
「歌七星、落ち着け」
足音。階段からだ。目の前にある開けっぱなしの扉から、脱衣場の光を浴びた麻露がゆらりと現れる。
「麻露さん!」
「しっ、シロ姉!」
結希を押し退けて中に入ってきた麻露は、歌七星に下着と服を押しつけた。彼女が何も言わなくても、歌七星は麻露が「着ろ」と言っているのだと理解する。
布と肌が擦れる音が間近で聞こえた。歌七星は案外素早く着替え終わり、状況を説明しようと二人の間に入る麻露を見据える。
「彼は父さんの再婚相手の連れ子だよ。陰陽師で、なかなかできた弟だ」
「連れ子? 陰陽師? なんですかそれは、わたくしは何も聞いてませんよ。そこの説明をこと細かく……」
「男の同居人が来るとは言ったな。それと、私たちが半妖だということはとっくのとうに知られているから、変に気を遣わなくてもいい。で、結希はいい加減こっちを向け」
恐る恐る振り返り、結希は頬の赤みが消えた麻露とアメジストのような瞳で自分を観察する歌七星の姿を視認した。
歌七星の胸まであるウェーブがかった髪が下着と同じ色をしていて、結希は慌てて視線を逸らす。
「結希、彼女が歌七星だ」
歌七星は一瞬だけ麻露を見、観念したようにようやく自らの口を開いた。
「四女の百妖歌七星です。先ほどは話を遮ってすみませんでした」
深々と丁寧にお辞儀をする歌七星に対して、結希も反射的に頭を下げる。
「こ、こちらこそタイミングが悪くてすみません」
顔を上げると、歌七星は顎に手を当てていた。考え込むようなその仕種に、何が起こるのかとつい身構える。
「シロ姉の言うとおり、できた弟ですね」
歌七星は、完璧に調律されたかのような声色でそう言った。そして、海底に住む乙姫のように優雅で堂々とした動きで脱衣場を後にした。
麻露も歌七星の後に続き、結希の真横で立ち止まる。
「今日はもう誰も帰ってこないから、好きなだけ使え。ただし、変な妄想はするなよ──高校生」
呆然とする結希の頭をぽんぽんと撫で、麻露は暗闇の中の階段を上る。
「しませんよ」
辛うじて反論すると、「どうだか」と面白がるような声が降ってきた。扉を閉めようと手を伸ばすと、リズムよく聞こえていた足音が不自然に途絶えた。
「……さっきは、その、酔っていたみたいで悪かったな。あの後ベランダに行ったら酔いが冷めたよ」
ベランダは確か、リビングから直接行けたはずだ。この家は横側から見るとL字型の構造になっていて、風呂場の真横にある駐車場の上がベランダになる。
「なら良かったです。もうあんなに飲んだらダメですよ?」
麻露の返事はなかったが、リズムのいい足音が遠ざかったのを結希は一人で聞いていた。だが、不思議と寂しいとは思わなかった。