十四 『涙』
「ですから、それはヒナギクが……」
「関係ねぇだろ。私だって賭けに負けたし生徒会役員でもねぇよ。役に立つ、信じろって約束したが、気持ちで言えばあいつらの方が圧倒的に上だった。違うか?」
ガァンッ、何かと何かが真上でぶつかった。慌てて顔を上げるも、乾に筋肉痛になっているふくらはぎを蹴られて意識を戻される。
「お前こそ、あいつらのこと姉だと思ってねぇだろ」
ふくらはぎよりも痛かったのは、舐められた心だった。
「別に責めてねぇよ。血が繋がってねぇヤツを家族だって思えねぇのは私だって同じだ。なのに義兄弟の契りを交わしたがってる子がいて、私の家は百妖家に負けないくらいの大所帯になっちまった。……まぁ、その子と涙以外は全員死んだんだけどな」
俯いていた顔を上げると、乾は唇を固く結んでいた。
「私はその子を守りきれなかった。けど涙は、自分は兄貴で陰陽師だからってやたらと人工半妖の私たちを守りたがる。んで、バカみたいに愛してた家族を守れなかったって後悔してる。その家族の中には、千羽も、紅葉も、お前もちゃんといる」
思い出すのは涙のあの無表情だった。式神を失い、従弟を失い、従妹に嫌われ、自分はすべての記憶を失った。
義兄弟だけではなく本当の家族からも断絶された涙の無表情の下の涙を、結希は何一つ知らなかった。
「だから、お前を見てると自分と涙を見てる気になってムカつくんだよ。私らが通った道をなぞったって幸せになんてなれねぇのに」
独白に近い忠告を、結希は黙って聞いていた。
「お前は、そうならねぇって誓えるか?」
真上を指差して乾は妖しく笑う。
「私が救えなかったモノをお前は救えるか?」
その下の悲しみを、結希は何故か感じていた。
誰よりも怪我をして心配ばかりかけているにも関わらず、何故か全員が最後に頼るのは自分のような気がする。六年前の悲しみを忘れた結希は、まだ悲しみの中に埋もれているすべてに向かって──
「救います」
──力強く、そう応えた。
「十、九、八……」
そして不意に思う。
「乾さんと涙さんが義兄弟なら、俺と乾さんは親族ですね」
乾は呆れたような表情を見せた。
「七、六……」
が、諦めたように頷いた。
「五、四……」
指差した方の手の指も折った。
「三」
無機質な廊下の再奥にある階段を駆け上がり
「二」
施錠されている扉をぶち破り
「一」
緋色と天色が交差する空に向かって結希は声を張り上げる。
「ヒナギク、来い!」
転がりながら結希の正面に瞬間移動したヒナギクは、銀髪をぼさぼさに振り乱して緋色の瞳で結希を見上げた。
「っな……?!」
驚愕の声を漏らして、着地した亜紅里は辺りを見回す。亜紅里の異変に気づいたヒナギクは目を見開き、呼び戻された理由を悟った。
「結界だと!? いつの間に、誰がどこから張ったんだ!」
視線を巡らせ、隅の方で仰向けに横たわっている心春を見つけた途端に走り出す。
途中で亜紅里に目をやれば、三方向から簡易結界を張られた亜紅里が呆然とした表情で座り込んでいた。
「ふん。タイミングは完璧だったな、末森、本庄……涙」
乾がゆっくりと屋上に姿を現した刹那、結希は心春の体を飛びつくようにして抱き締めた。心春のいつもの甘いローズの香りが、幻ではなくちゃんとここにいると告げている。
「心春ちゃん!」
腕で体を起こして顔を覗くと、長い睫毛が僅かに揺れた。〝助けて〟と言わなかった桜色の唇が、小さな声を漏らして笑みを作っていた。
「……良かった」
安堵の息を吐く。それでもヒナギクは緊張の糸を切らさなかった。
「どういうことだ、説明しろ」
「ここに来る途中、あいつらが追ってくるのが視えたからな。鈴歌に頼んで妖目総合病院を三人で囲むように配置させた。百妖の連中を〝守りたいから連れて来なかった〟結希の判断は、ある意味正しかったな」
「…………私は」
振り返ると、ふらりと亜紅里が立ち上がった。
「雑魚に用はないの」
──パァンッ
簡易結界が破られ、破片が儚く散っていく。その中心で結希を見据える亜紅里は、宝石のように輝く破片を浴びながら、口元を覆う黒い布をとって妖艶に口角を上げた。
「嘘だろ……?!」
結界の内側から妖力を放つことはできない。
これで亜紅里を捕らえたはずだったが、亜紅里の手には陰陽師が使う札が握り締められていた。
「私にも仲間がいる。忘れたわけじゃないよな? 結希」
亜紅里は札を構え、妖力を込めて結希に投げた。
まっすぐに放たれたそれを結界で受け止めるが、亜紅里は投げるのを止めない。
「副会長、貴様は一旦ここから離れろ!」
「ヒナギク?!」
「貴様の最優先事項は心春の救出だろ! 守りながらじゃ亜紅里をぶん殴れない!」
「ぶん殴……?! ヒナギクの方こそ亜紅里から距離を取れ! 札じゃ余計に相性が悪くなる!」
ヒナギクは足を止めた。
結希は陰陽師の力を込め、結界をそのまま亜紅里に飛ばす。狐火で結界を打ち消した亜紅里は、狐火を人魂のように燃やして青い狐火の壁を作った。
亜紅里の全身を包み隠す壁から、火傷するほど熱くはない熱風が放たれて結希の全身を包み込む。だというのに、触れるのを躊躇うような炎だった。
「お前ら下がれ!」
乾の命令は空に響き渡った。
結希は心春の華奢な肢体を持ち上げ、顔を顰めながら右手の指を自由にする。
「……『鎮火せよ』」
刹那、狐火が弱まって──言葉通り鎮火された。
「心春ちゃん!」
視線を下ろすと、心春の若草の瞳と目が合った。
「うううううううううぅ~!」
青くなって、赤くなって、青くなる。
心春の顔色の変化に怯えながらも、結希はほっと息を吐いた。
「余所見するなって何度も言わせるなよ! てめぇら二人になると互いのことしか見えねぇのか!?」
再び振り返ると、亜紅里が幻術をかけている最中だった。妖目総合病院の屋上は一瞬にして陽陰学園のグラウンドに変化し、ヒナギクと乾の姿が消える。
心春が起き上がろうとして結希の腕から離れたが、結希は心春の頭部に手を置いて下に押し返した。
「まだ離れないで」
腕に心春の感触が戻った。
「……うん」
体操服を握り締められる感触がした。
「ダメ。一番離れてほしいのは結希と心春だから」
突き刺さるような亜紅里の声がどこからか聞こえ、視界に靄がかかる。
「きゃあああああああ!!?」
心臓が握り潰されるような叫び声が真下から聞こえた。慌てて視線を戻すと、心春が苦しそうに悶えていた。
「ッ、臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
悩む暇もなく心春に九字を切った。直後に心春までもが靄となり、空気に溶ける。
(幻術?!)
今度は空間自体に九字を切った。
グラウンドは消え、妖目総合病院が姿を取り戻す。
「副会長! 無事か!」
ヒナギクは離れる前と何もかも変わらなかったが、乾は鉄柵の方へと吹き飛ばされ、戸口付近では心春がうつ伏せになって倒れていた。
「なんで……」
声が震えた。
「これで元通りだな、結希、ヒナギク」
幻術を解いた亜紅里が二人の間に姿を現す。残されたのは生徒会役員の三人のみだった。
「ヒナギクは私を仲間に入れたい、私は結希を仲間に入れたい。なら結希は何を望む?」
「……俺は何も望んでない!」
震えながらも叫んだ結希は戸口へと駆け出した。
足の筋が引っ張られて、激痛が走る。それでも信じて走った。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
九字を切ったのは、鈴歌が連れてきた涙だった。
「乾!」
「乾さん!」
飛び下りた末森と本庄が乾を片側ずつ抱き上げて、鈴歌の体へと無造作に投げる。鈴歌に乗せられた乾に力はなく、青ざめた顔の涙が乾を強く抱きとめた。
「結希、その子を連れて逃げてください! 代わりに俺と本庄が残ります!」
「すみません、任せます! ヒナギク、後で必ず戻るからな!」
「あぁ!」
結希は心春を抱き上げた。
目を閉じた心春の血塗れの顔は何も物語らず、胸の奥が、頭の奥が、熱くなる。
「結希くん、こっち!」
結希を呼び戻したのは、鈴の音だった。咄嗟に心春を抱き上げて階段を駆け下りると、冬乃が今にも泣きそうな顔で立っていた。
「小白鳥先生! 心春ちゃんが!」
「わかってる! でも、早く病院から逃げて!」
「血が出てるんです! 跡が残るかも……!」
「わかってる! 大丈夫だから、今は逃げることだけを考えて!」
冬乃に腕を掴まれ、関係者専用の通路を走らされる。
「お、に……ちゃ……」
「心春ちゃん! 待ってて、今絶対に助けるから……」
心春はふるふると首を横に振った。
「……ぼくに、〝助けて〟って言う……資格はない、の」
そうして閉じたままの瞳から涙が零れ、自らの血を洗い流した。




