十 『潜む悪意は何よりも近く』
依檻と合流して中に入った生徒会室では、百妖姉妹が九人揃って二つの円卓を囲んでいた。空き教室から持ってきたのか、いつもの二倍近くの椅子が生徒会室に入っている。
四人の姿を視界に入れた麻露は軽く微笑み、水色の前髪を掻き上げた。
「愛果、椿、そして結希。ご苦労だったな」
「おめでとー三人とも。愛ちゃんや弟クンはともかく、つばちゃんには三連覇が期待できるねぇ」
その隣では熾夏がにやにやと笑い、さらに隣では五日前に十二歳の誕生日を迎えた月夜と幸茶羽が好奇心故なのか辺りをきょろきょろと見回していた。それは眠そうな鈴歌と和夏の頭を撫でている朱亜も同じで、そわそわと辺りを気にしている。
生徒会室で安心したのか、心春と先月の放送事故でさらに売れっ子アイドルとなった歌七星も普段通りにそこにいた。
いないのは、六年間眠り続けている真璃絵だった。
「当たり前だ! みんな、期待しててくれよなっ!」
椿は弾けるように笑い、空いている席に座る。
彼女に続いて全員が円卓を囲むと、歌七星がその上に置いてある風呂敷を開いた。
「では、お昼を食べながら報告し合いましょう。品がありませんが、時間は有効に使わなければ……」
「かなちゃんは夕方から仕事だったわよね? だったら無理矢理来なくても良かったのに。……そんなに大事なの?」
「なっ……! 大事ではありません! 溺死したいのですか?!」
「え? かなちゃんは何が大事なの?」
「……ッ?! 依檻姉さん、わたくしを揶揄うのはやめてください!」
依檻はぺろっと舌を出した。歌七星を揶揄うことが楽しいのか──思えば依檻の一番の被害者は歌七星かもしれない。二番目の被害者の愛果はバレないように顔を背けて、とばっちりを受けないように祈っていた。
「そういえば愛ちゃん」
「ひぃっ!」
「例年通りならサボってたのに、あんなにあっさりと一位になれちゃうのならもっと前から頑張ってほしかったわー。どういう風の吹き回しかしら?」
歌七星以上に頬を赤らめ、愛果はロボットのように首を回して依檻を見る。依檻は頬杖をつきながら楽しそうに笑い、無言で愛果に催促した。
普段なら止めるはずの歌七星は機能せず、麻露は関心がないのか昼食の準備を進めている。
「依檻さん、暇だからって愛果と歌七星さんを揶揄うのは止めてください。青葉先生を呼んで連れ戻させますよ」
隣に座る愛果にきつく腕を握られた結希は、助け舟を出して自分の身を守った。
「あら? 私は別に揶揄って言ったつもりはないわよ? それに、青葉さんなんてちっとも怖くはないわ。早とちりは良くないわね〜」
「早とちりしてません。それ以上余計なことを言ったら札で動きを封じて廊下にぽいしてヒナギクに握り潰させますからね」
「ぷっ……あははははっ! 結希、今の最高に面白いわよ! 逆に体験してみたくなっちゃう……あはははは!」
ひぃひぃと腹を抱えて笑うと、依檻は大抵そこで満足する。それはそれで好都合だが、何故笑われたのか理解できなかった結希はジト目を依檻に向け続けた。
「ふふっ、今のはいお姉じゃなくても面白いかも。弟クンのいお姉に対する言葉選びって、会う度に辛辣になってくるよねぇ」
熾夏に視線を移すと、同時に視界に入った心春が口元を覆いながら肩を震わせていた。具合が悪いのかと思えば、指の隙間から笑みが零れている。
心春が笑ったのならそれでいいか、そう思い、結希はそれ以上依檻にジト目を向けるのを止めた。
回ってきた割り箸を愛果に回し、全員に行き届いたところで誰からともなく合掌する。
「いただきますっ」
そして、いつものように声を揃えた。
ただ、その度に一人足りないのだと結希は思う。結城家から預かっている紅葉と火影は後から合流することになっているが、二人は照れくさいのか、あまり「いただきます」とは言わなかった。
それが今結希が暮らしている百妖家と、六年間たまに預けられていた結城家との些細でありながらも確かとなった違いだった。
「開会式前から学園にいたが、こちら側から報告することは特にない。たまに乱闘があったらしいが、それは生徒と生徒のいざこざらしいからな。無関係で処理して構わないだろう」
「不審な人物も見かけませんでしたね。皆、自分の子供の活躍に夢中になっていましたよ」
「グラウンドの中から見てたけど、例年通りって感じだったわ。かなちゃんの言う通りビデオ撮影してる親御さんで埋め尽くされていたもの」
「こっちは千里眼で視てたけど、違和感のある感情の人はいなかった。まぁ、人数が人数だから数秒一回きりしか視てないんだけどね」
「わらわと鈴歌は屋上から見ておったが、不審な動きをする輩はいなかったのじゃ」
「…………人の流れ、正常」
「ワタシは何も見てなかったけど、匂いは変わらなかったよ〜」
「どうせわか姉は寝てたんでしょ。んで、ウチと椿もみんなと同じ。もうこれ何も起こらない展開なんじゃないの?」
「えぇ〜。愛姉、決めつけんのはまだ早いって。まだ午前なんだからな、もっと気を引き締めるんだっ!」
「おぉ〜! つきも引きしめる〜!」
「ふんっ。ささと姉さんには何も期待してないだろうけど、ささたちも全員と同じ。まぁ、ささたち以上に期待されてない春がどうかは知らないけど」
そう言って、末っ子の幸茶羽はウインナーを齧った。
幸茶羽に名指しされた心春はびくっと肩を上げて、申し訳なさそうに縮こまる。麻露は眉を潜め、結希に訳ありな視線を送った。
それが男性恐怖症が改善されていない非難の目なのか、最後の一人の報告を待つ目なのかはわからない。結希は掛け時計に視線を送り、しばらく逡巡した。
「俺も何も見てません」
「そうか。なら、後は紅葉と火影の報告を待つのみだな。……この時間になっても来ないということは、どこかで寄り道をしているのか?」
「あの二人は用があって遅れてるんです。俺も用があるので、もう出ますね」
一番扉に近かった結希は椅子を引き、生徒会室の扉を開ける。
「用って、生徒会の?」
愛果が振り向きながらそう尋ねた。
「……まぁ、似たようなものだな。風丸とかは仕事ないし」
「あ、もしかしてあれか? 毎年恒例の《十八名家》綱引き対決! 生徒会が独断で参加する《十八名家》の人間を選んで戦わせるやつ! あれはアツいよなぁー、アタシあれ大好きだっ!」
「あぁ……それは応援合戦の次にやるから、今から準備を進めないと」
「そっか。いってらっしゃーい!」
「……いってきます」
姉妹に見送られながら扉を閉め、結希は足早に廊下を歩いた。
「あっ! にぃっ!」
階段を下りようとすると、その先に紅葉と火影がいた。緋色の体操着を着た二人は階段を数段飛ばしで駆け上がる。
紅葉は大きく飛び跳ねて、結希を抱き締めた。
「にぃ〜! くぅ、にぃの言う通りにできたよっ! だからほめてほめてっ!」
「ありがとな、紅葉。火影も」
「いとこの人の礼はいりません。火影は姫様が……いえ、こう願うことさえ烏滸がましいことですね」
火影はそう言いながらも妬ましそうに結希を見上げる。結希は慌てて紅葉を引き剥がし、「じゃ、また後で」と階段を数段飛ばして駆け下りた。
あと十分ほどで応援合戦が始まる。
普段は走らない校内を全速力で走り、結希はグラウンドではなく校舎裏に出た。
日の光が当たらず影を落とすこの場所は、校舎と体育館に挟まれるような形になっていて見通しが悪い。人気も当然なく、ゴミが散乱している日もあるくらいだ。
だからこそ、行事になる度にこの場所が物の仮置き場となる。ただ、グラウンドから遠いせいで体育祭の場合は応援団の道具のみが置かれていた。
結希は、ほとんどの道具が持ち出された後の校舎裏を観察する。
「あれ? ゆうゆう?」
顔を上げると、そこには驚いた表情の亜紅里が立っていた。
結希と同じクラスの亜紅里は赤組の応援団の一員で、転校初日にしか着ていない緋色の制服を身に纏っている。きっとあれが応援団の衣装なのだろう。普段は群青色の制服を着ているからか新鮮だった。
「びっくりしたぁー。どうしてここにいるの? ゆうゆう応援団じゃなくない?」
「そうだな」
「じゃあ迷子?」
「俺は転校生の亜紅里じゃないんだけど?」
「えぇー。じゃあ何?」
「亜紅里が迷って赤組の道具を取りに来ないからだろ。ほら、俺だけじゃ持てない」
赤組の道具だけが、校舎裏の片隅に積み上げられていた。結希はしゃがんでその中のいくつかを持ち、亜紅里の到着を待つ。
「あたしが迷ったのはヒーちゃんが間違ったこと教えるか……」
──ら。
亜紅里の最後の声は掠れた。
亜紅里は天色の瞳を大きく見開き、視線を下に移し、そこに等間隔に貼られている札を視認する。
「……何、これ……」
「……なんだと思う?」
息を吐いた。持っていた道具を下ろし、立ち上がる。
「さぁ? あたしバカだからわかんないんだけど」
あははははと亜紅里は笑った。
「とぼけるのもいい加減にしろよ」
こんな台詞を吐く相手は、一緒にじゃれ合う風丸だけだと思っていた。
「それは、従妹の紅葉が今日の為に一生懸命作って貼った札だ。……対魔と人避け、両方の力がその札には込められている」
それで百妖の姉妹が苦しんだのを、未だに覚えている。
「へぇー。よくわかんないけどすごいじゃん!」
亜紅里は近づいて来なかった。
「こっち来いよ」
「ごめんゆうゆう。あたし用事思い出した」
亜紅里は笑顔だった。どうしてそこまで笑えるんだろうと思うくらい、笑顔だった。
「だからさらばである! そこの道具は全部ゆうゆうに任せた!」
理解ができないくらい清々しい笑顔で、そして結希はさらに確信していく。
「来いよ、亜紅里」
結希は亜紅里にはなれなかった。
「ゆうゆうは、意地悪だねぇ」
くしゃくしゃに歪めた顔をしている人間に、亜紅里は笑顔で何を言っているのだろう。
「あーあ、そうだよ。あたしがゆうゆうの背中に火傷の痕をつけた裏切り者。お狐様の半妖──阿狐亜紅里だ」
背中が疼いた。亜紅里は狐の半妖の少女と同じ天色の瞳を細め、そして真顔に戻った。
「──なぁ少年、私の味方にならないか?」
初めて会ったあの日と同じように、亜紅里はそう提案する。それは亜紅里の面影を残さない、素の亜紅里のすべてだった。
「──俺は、何があっても百妖の人たちを裏切らない」
仲間だと信じ、守りたいと思っていた人の一人が裏切り者だった。
それでも、家族だけは裏切らない。




