八 『心の距離』
校舎の時計を見上げると、ここに来てから早くも一時間が経過していた。亜紅里を探せば、結希がいる位置から一番離れた場所で用具を取り出している。遠目から見てもオーバーリアクションなのがよくわかった。
「ゆう吉、何見てるの」
「いや、別に何も。日が暮れるまでってのは難しそうだな」
「……ん。でも、ヒナギクは担当場所を終わらせて、別の場所の指示を出している。風丸と八千代がいれば、どこももっと早く終われたはず」
はぁ、と明日菜はため息をついた。
風丸の日程制作ミスで、例年よりも準備が大幅に遅れたことを憂いているらしい。それでもどこか嬉しそうに見えるのは幼馴染みの気のせいだろうか。
「向こうはどうなっ……」
「どーん! っていってぇ! バカ明日菜! 関節はそっちに曲がらなああああ?!」
言い終わる前に気配を感じて避けると、風丸の絶叫がすぐ傍から聞こえてきた。
「目障り」
「目障りぃ?!」
明日菜は無表情のまま風丸の関節を逆方向に曲げる。
ひぃひぃと喘ぎながら涙目になる風丸を救出し、結希は駆けつけた八千代に視線を向けた。
「あの量をもう終わらせたのか?」
「結希君が抜けたらあっという間に終わったよ。風丸君は真面目に取り組むようになったし、僕は作業を邪魔されずに済んだし」
「えっ」
頭の中が真っ白になった。
「八千代、ヒナギクには会った?」
「うん。僕たちはこっちを手伝って、明日菜ちゃんはもう帰っても大丈夫だって」
「……いいの?」
「今日はバイトがあるんでしょ? ヒナちゃんはそっちを優先させてほしいみたい」
「う、うちのバイトよりもこっちの方が大事、だろ……」
「風丸がミスをしなかったら、準備はもう終わってる」
「傷口に塩!」
結希が視線を落とすと、風丸が地面の上でじたばたと悶えていた。
「ラインが消えるから暴れるなよ。ていうか……」
わざわざしゃがんで風丸のシャツを掴み、結希は明日菜を見上げた。
「……バイトしてたのか?」
知らなかった。明日菜が結希に何も教えなかったのは初めてだった。
「お母様の指示で、風丸のところの神社を手伝ってる」
先ほどのあからさまな不満とはほんの少しだけ違い、明日菜は眉間に皺を寄せた。
明日菜の母親といえば、妖目総合病院の院長であり妖目家の現頭首だ。医者になることが宿命の明日菜は、そんな母親に憧れて幼少期から医学を勉強していた。
それ以外のことは何もやってこなかったというのに、母親の指示で医者に関係のないバイトを始めるのは変な話だった。
「明日菜ちゃんのお母様とヒナちゃんのお母様は旧友だし、ヒナちゃんはお母様に言われて明日菜ちゃんを先に帰そうとしてるんじゃない?」
「多分、そう。……雷雲さんと麻露さんが待ってると思うから、もう行く。またね、ゆう吉」
「……あぁ。またな、明日菜」
明日菜に手を振り返す。そして、先月から麻露がバイトが辞めて忙しいと言っていたことを思い出した。
「風丸、もう少しバイト増やせよ」
更衣室へと駆けていく明日菜の後ろ姿が見えなくなって、結希は視線を別の場所へと移す。そこではヒナギクと亜紅里が何かを話し合っていた。
「家のことなんて知らねぇよー……。まぁ、明日菜や麻露ちゃんがバイトしてるとこは採用基準が厳しいって噂の親父が宮司してるところだからなー」
「跡取り息子の自覚なしだな。雷雲さんがあれだけお前に期待してるのに」
「親父に期待されてもキモいだけだから髪染めてんだろー? よいっしょ、そろそろラストスパートやっちゃいますかー」
わざとらしく話題を変えた風丸は、飛び跳ねるように体育委員の間に入っていった。
風丸のせいで準備が遅れているのはここに残って作業をしている全員が知っている。それでも誰も風丸を責めないのは、風丸のフラットな性格と人望だった。
「副会長」
「ヒナギク。どうした?」
「亜紅里が校門前で貴様の妹を見つけたらしい。健気に貴様を待っているようだぞ」
「妹?」
そう言って最初に浮かび上がったのは、心春の顔だった。
「中に入れようとしたんだが、断られた。やはり恐ろしいという理由で他校に通う特例だからな。当然と言えば当然か」
「ヒナギク、ちょっと抜けていいか?」
「いや、少し待て。終わったようだぞ」
ヒナギクの視線を追うと、何故か胴上げをされている風丸が視界に入った。
「まだ前日だろ……。みんな気が早すぎだし元凶を胴上げするのはおかしいって」
「貴様もなかなかにおかしいけどな。風丸の周囲にいる人間は、風丸が何をやっても肯定的だ。貴様だけなんだぞ? 《十八名家》になる前から風丸のダメなところを遠慮なくダメと言うのは」
「…………。ずっと、明日菜と風丸を見ていたからかもな」
陽陰学園の中等部に入学した頃、記憶を失い人を避けていた結希にしつこくつきまとっていたのが明日菜と風丸だった。
二人は何度結希に無視されようと、構わずに話しかけて傍にいた。
当時の明日菜と風丸は《十八名家》とはいえ知り合いではなかったらしい。それでも明日菜は今まで関わりがなかった赤の他人と、風丸は結希の幼馴染みと協力して、結希を笑わせようとしていた。
結希は、そんな二人をずっと黙ったまま眺めていた。
「あの二人か。貴様らは本当に仲がいいな」
「そうなったのは全部あの二人の努力の成果だよ。今の俺がいるのもあの二人のおかげだ」
懐かしさに目を細めると、解散していく体育委員の流れに乗りながら風丸と八千代が戻ってきた。
「結希、帰ろーぜー。あ、そうだうち寄ってく? 明日菜の巫女姿見たいだろ?」
「…………いや、待ってる人がいるから遠慮しとく」
「あ。今の間、本当は見たいんだ」
悪気なく笑う八千代に手を上げそうになるのを堪えつつ、四人は生徒会室に移動してそれぞれの荷物を持つ。その瞬間、少しだけ感じた違和感を八千代が代弁した。
「あれ? 亜紅里ちゃんもう帰ったんだ」
八千代の言う通り、たまに視界に入っていた派手な鞄はどこにもなかった。
生徒会室を施錠して校門へと向かうと、俯いていた心春が顔を上げる。そこでようやく結希の待ち人を知った風丸と八千代は、意外そうな表情をしながらも帰っていった。
「お、お兄ちゃん」
「心春ちゃん、待たせてごめん」
「そ、そんな、ぼくが勝手に来ただけだから……」
再び俯いた心春の、桜色の髪が茜色に混じった。
結界が張ってあるとはいえ、いつ破られてもおかしくないこの黄昏時に一人で待たせていたのは心苦しい。
「副会長、明日は町内町外問わずに一般人が大勢訪れる日だ。白院家も警戒を怠らないが、何が起こるかはわからない。《カラス隊》はなかなか自由に動けない奴らだからな、非番の奴が来る手はずになっているが、一応貴様ら百妖家と陰陽師にも警備を頼む」
「了解、伝えとく」
「あぁ。気をつけて帰れよ」
体操着姿のまま帰っていくヒナギクを見送り、結希は距離を取る心春に向き合った。
明日になれば麻露に命令されてからちょうど一週間になる。真面目な性格の心春は健気にそれを実行しようとし、結希はそれに応えるような形でつき合っていた。
「帰ろうか」
こくこくと頷く心春は、結希が動き出すのを待って歩き出した。
「もう少しだけ距離、詰める?」
このままじゃなんの意味もないような気がして提案してみる。
「……殴りそう、かも」
が、返ってきた言葉は絶望的だった。
「……せめてなんで殴るのか聞いていい?」
「あっ、ちがっ……! 殴りたくて殴ってるんじゃなくて、その……愛姉とつば姉が護身用にって……四年前から……」
「…………は?」
学園一の不良少女──愛果と、学園一とも言われ始めているスポーツの天才少女──椿。
あまり認めたくはなかったが、心春はすぐ上の姉の能力をしっかりと受け継いでいる本当に健気な妹だった。




