四 『長女の願い』
リビングから出て階段を上り、最上階にある自室の取っ手に手をかける。手をかけてから、自分が風呂に入っていないことを思い出した。
墓地まで走った体は汗ばんでおり、結希は思わず顔を顰める。ズボンに入れておいた財布と紙切れを取り出して、ダンボールが山積みになっている自室へと放り、踵を返した。
場所だけでなく女だらけの家の風呂に自分が入っていいのかと尋ねようとして、まだ麻露が残っていることを願いながら二階に戻る。
他の部屋とは異なる大きなリビングの扉を開けると、麻露はたった一人でソファに腰をかけていた。
「やはりキミか」
酒が入っていると思われる缶を持った麻露は、ゆっくりと視線を上げた。
「気づいていたんですか?」
「足音でわかるさ。キミの足音は静かだが、重たい音がする」
ピンとくるかこないのか曖昧な例えを述べ、麻露は一口酒を飲む。どちらかと言うとワインが似合いそうな容姿だが、半妖ということもあってか飲んでいるのは日本酒だった。
「何か変か?」
結希の視線に気がついて、少しだけ戸惑いながら麻露が尋ねる。変なところで戸惑う人だなと思いながら、聞かれた問いに素直に答えた。
「お酒を飲むような人には見えなかったので、つい」
その返答に、麻露は「そうだな」と視線を逸らす。
「確かにこれは依檻の酒だ。普段はあまり飲まないが、今日はなんだかそんな気分になってな」
水色の長髪を掻き分けて、麻露は目の前の長テーブルに缶を置いた。
「そんな場所に立ってないで、ここに座れ」
ぽんぽんと右側を軽く叩き、足を組む。酔っているのからしくない行動に一瞬だけ躊躇したが、結希は素直に従うことにした。
ここに来た理由は当分言えそうにないなと思いながら、指示された場所におずおずと座る。今までまったく気がつかなかったが、麻露からは香水のような匂い──それと酒の匂いがした。
「この家にはもう馴れたか?」
「まだです。ていうか、今日来たばかりですよ?」
やっぱりこの人は酔っている。酔いやすい体質なのかもしれないと今後の為に脳内にメモをして──不意に、この家での今後を考えている自分がいることに驚いた。
来る前は一人で暮らせると断言したくせに。そう思うと、自分の変わり身の早さが滑稽に思えた。そして、そう思えるようになった一因の姉妹に少しだけ感謝した。
「……先に言っておく。あの子たちのこと、どうか誤解しないでほしい」
「誤解?」
一体あの姉妹のどこに誤解をする要素があるのだろう。結希の疑問に麻露は小さく頷いた。
「まずは依檻だ。先祖が人魂だから、元々の体温が異常に高いんだ。だから露出度の高い服やアルコールを好む。……去年依檻から化学を教わっていたんだろう? 思い当たる節があるはずだ」
不意に、去年行われた入学式を思い出した。春なのに夏物の服を着て、堂々と中庭で酒を飲んでは同僚に怒られていた依檻を今でも鮮明に覚えている。
「ものすごく思い当たる節がありますね」
あの瞬間、居合わせた新入生はすぐさま依檻のことをダメ教師だと認識していた。それは瞬く間に広がり、百妖依檻の生徒の中での評価は一気に下がっていく。
「自分で言っておいてなんだが、本当にあったんだな」
歴史に名を残す彫刻家が作り上げたかのような美顔を歪めた麻露は、缶に手を伸ばして一気に飲み干した。そして大きな音をたてて長テーブルに置き、口元を荒っぽく拭って唇を傷つけた。
「どうしようもないな依檻は。……まぁ、鈴歌と比べたら幾分かはマシだが」
鈴歌と聞いて、ショッキングピンク色をした光を映さない瞳を思い出す。他の姉妹と比べて違う意味で印象的なそれは、どこまでも深い闇だった。
「鈴歌さんはどうしてあんな風に?」
「さぁな。何を考えているのか、今となっては私でも理解できた試しがない」
ベランダのガラスに視線を移す。そんな麻露の視線を追うと、ガラスに映った麻露の姿がよく見えた。その瞳、その表情、すべてが寂しそうに映っていた。
「そういえば、どうして鈴歌さんはあの場にいなかったのに何があったのかを知っていたんですか?」
「それは、鈴歌が一反木綿の半妖だからだ。あの時私が宙に浮いていたのは、下に一反木綿と化した鈴歌がいたからできたこと。……あの後すぐに、鈴歌は家に帰ったがな」
その説明でようやく物事の辻褄が合う。と同時に、また新たな疑問が生まれる。
「けど、黒い布でしたよね?」
「よく覚えているな。確かに純血の一反木綿は白色だよ。多分、髪色のせいだろうな」
鈴歌の髪色は漆黒の闇だ。心も闇に染ったかのようなあの目は、きっと老いても忘れない。
「確かに、それだと合点がいきますね」
相槌を打つと、いつの間にか耳まで真っ赤に染めた麻露が力強く拳をテーブルに振り落とした。突然のことにびくっと一瞬肩が上がり、思わず眉間にしわを寄せる。
もしかしたら、相当酔っているのかもしれない。酒はあまり飲まないと言っていたし、酔いやすい体質だと知らない可能性も高い。
「私が何度も何度も言っているのに、なかなか就職しないんだ鈴歌は」
それでも、結希が思っている以上に麻露の声は普段通りのしっかりとしたものだった。はっきりと耳に届いたその言葉は、どこからどう聞いても愚痴にしか聞こえない。
「けど、悪い人ではないんですよね」
嫌々だったが、熟睡した二人の妹を部屋に運んだ姿も忘れない。フォローしたつもりだったが、麻露の鈴歌に対する想いはそれだけではなかった。
「当然だ。……私の、妹なんだからな」
最初は堂々と、次に弱々しく──。不審に思ったが、追及する暇もなく再び麻露の口が開いた。
「熾夏もそうだ」
眉を潜めた麻露は缶に手を伸ばした。そして、途中でそれが空だということに気づく。
麻露は次の缶を持って来ようと立ち上がり、冷蔵庫の戸を開けた。どれほど飲むつもりでいるのか、戻ってきた時の彼女の腕の中には酒缶が山のように積まれていた。
「驚いただろう、熾夏が医者で」
それに比べたらそうでもない。つっこみを飲み込んで、結希は作り笑いを浮かべた。
「熾夏さんは本当に医者なんですか?」
「まだ疑っているのか。まぁ、無理もないな」
麻露はくくっとおかしそうに笑い、結希の左側に座り直す。
大きな音をたてて長テーブルに雪崩れた缶を並べながら、自分は何をしているんだろうと肩を落とした。
「熾夏はな、あれでも真面目に勉強して、いろんな無茶を通してまで海外に行って資格をとってきたんだ。エリートだとかほざいていたが、最速で医者になっただけでなんの実績もない。百目の能力でやっていけると思うが、心を覗かれても気を悪くするなよ」
何度もプルタブ開けに失敗しながら、麻露は誇らしげにそう語っていた。普段の麻露は人を褒める言葉を使わないような気がするが、表情ですぐに彼女の本意がわかってしまう。
黄昏時に見た雪の魔物は、意外にも子供らしい要素を含んでいた。ほんの少しだけ安心感を抱きながら、結希は彼女から缶を取り上げる。
刹那、酔った麻露の凍てつくような鋭い視線が結希を刺した。が、そんなことはお構いなしに缶のプルタブを開けてさっさと返した。
「……あ。悪いな」
「いえ、別に」
麻露は、「ありがとう」とは言わなかった。
ぐびぐびと飲み始める麻露を横目で眺めながら、飲酒量をきちんと把握しなければという使命感に駆られていく。なかなか口を離さないのを見かねて、缶を口から引き剥がしてしまったほどに。
「一気に飲みすぎです」
「む」
缶を置くと、饒舌に朱亜の話をし始めた。
結希は風呂のことを忘れ、麻露の話に耳を傾ける。それは、姉妹のことをあらかじめ知っておいた方が地雷を踏まなくて済むという、自分なりの賢明な判断だった。
「仕事をしているだけまだマシだが、朱亜は鈴歌の次に引きこもりだからな。仕事も仕事だし、暇があったら話し相手になってくれると助かるよ。あと、心春とも積極的に会話をしてあげてほしい。あの子は中学生だし、朱亜と比べてよく会うだ……」
「あの、何言ってるんですか? 麻露さん、あの時心春ちゃんは男性恐怖症だって……」
「だからだよ、結希」
互いが互いの言葉を被せ合いながら、会話は続く。
麻露は膝に置いていた缶から結希に視線を移した。目が合った。男性恐怖症だから積極的に話しかけろ、そう言った麻露の目は本気だった。
「いや、ちょっとよくわからないんですけど」
心春と距離をとって過ごそうと思っていた結希にとって、その願いはあまりにも不可解だった。
未熟者と言えど、結希は職業柄、妖怪と戦って確実に殺さなくてはならなかった。その代わり、人は絶対に傷つけたくない。そう思いながらこの六年を過ごしてきた。その相手が、かけがえのない家族であっても。
「心春には救われてほしいんだ。恐怖症を持つ子ではない、普通の女の子としてこれからを生きていてほしい。……なぁ結希、これはチャンスなんだよ」
それは、麻露も同じだった。
「その過程で心春ちゃんが傷ついても?」
「それが心春の為になるのなら」
やはり、どうしても理解できなかった。
ただ、心春を想う麻露の気持ちは結希のそれに比べて長く重い。だから返す言葉がない。
「……あと少し、あと少しだけ頼みごとができるなら、和夏を一人にさせないでくれるか?」
間を空けて、麻露が呟く。
これまでの会話でわかったことだが、麻露の頼みごとは全部妹に関する物だった。それほどまでに大切な人がいるという幸せも、結希にはまったく理解できない。
結希にとって家族と呼べるまともな人間は、朝日と従妹だけだった。
だからか、十を越える妹を平等に愛する麻露の人としての素晴らしさだけは痛いくらいに理解できた。
「当たり前じゃないですか」
麻露を見ずに、俯いていた結希は告げた。
自分は、あまりにも多すぎる姉妹たちとこれからを共に暮らしていく。そのことに対する不安が、一気に込み上がってきた気がする。それは、嘘と言えど、家族となってしまった自分たちの将来に対する漠然とした不安だった。
そんな結希の心境を視たのか、麻露は「大丈夫だ」と根拠なく結希を励ました。
「なんとかなると思っていないと、なんとかなるものもどうにもならなくなる時がある。大事なのは、心だ」
麻露に目を向ける。
今度も目が合った。
「違うか?」
麻露がそう言い切れるのは、きっと、人生経験の差なのだろう。「違くないです」と、結希は眉を下げて笑った。
刹那、どんな言動の奥底にも余裕があった麻露が瞳を丸くさせる。グロスが塗られた艶のある唇も、丸く形を作っている。チークというよりも酒のせいで頬が赤く染まっているように見える麻露の姿は、どことなく色気を帯びていた。
「ま、麻露さん?」
ぎこちなく名前を呼んでみるが、麻露は答えない。
「麻露さん」
これで二度目だ。けれど、それでも麻露が気づく気配はない。
最後の手段として、麻露の両手に握られていたキンキンに冷えた缶を取り上げた。
「ッ!」
瞬間に麻露の目の色が変わる。結希の手中に収まっている缶を取り返そうと腕を伸ばすも、麻露は途中で諦めた。
「どうしたんですか、急に」
何かやらかしたのかもしれない。
訳のわからない不安が結希の心に襲い掛かった。