四 『悪魔の宣告』
静かに体温を奪う氷の手錠をかけられ、リビングの床に膝をつけさせられた結希は恐る恐る麻露を見上げた。
「それで?」
たったそれだけしか問わない麻露は、深い青目で結希を貫く。
「熾夏さんに、適当人間だからあまり期待しない方がいいとは言いました。……一応」
保険のつもりはなかったが、言ったのは事実だ。このまま麻露の宣言通り凍死するのならば、これを使わない手はない。それに熾夏ならば上手く逃げ切れるはずで、罪悪感はまったくなかった。
「ほぅ……? 熾夏の連絡ミスと言いたいのか」
麻露は朝日のように結希の頬に手を添えた。酷く冷たいその手に、結希は「冷たっ」と反射的に身を引く。
「にぃっ! ちょっとあんたっ、くぅのにぃに何するのよぉ! 一生かけて呪ってやるぅ……!」
「姫様にこのような仕打ち、死んで詫びても許さない許さない許さないぃ……!」
麻露の背後では、足を氷漬けにされた紅葉と火影が顔を歪めさせていた。リビングの隅では、椿と心春が顔を青ざめさせていてことの成り行きを見守っている。
「客人は黙ってもらおうか。これは、私たち〝家族〟の問題だ」
「家族ぅ〜? ふざけないでよっ、くぅはあんたらが家族になる前からにぃの家族なんだからぁっ! あんたらと違って、本物の! 数少ない! 家族なの! くぅのにぃを返してよっ!」
固まった足を動かすことができない無力な紅葉は、悔しさを、悲しみを、大粒の涙に変えて棒立ちし続けた。
そんな紅葉に声をかけようとした結希は、しゃがんでいた麻露の──白い肌に映えた紅唇を強く噛むその表情を見て言葉を失う。
「姫様……」
部外者であっても、火影はどこまでも紅葉の味方だった。
六年前に最愛の兄──千羽を亡くした直後の紅葉は、その時たまたま居合せた従兄の結希に命を託した。
朝日の話だと、間宮家の祖父母も結城家の祖父母も百鬼夜行で命を落としているらしい。
紅葉にとっての結希は、言葉通り数少ない最愛の家族だった。それは結希にとっての紅葉もまた同じだった。ただ結希は、麻露の気持ちもなんとなくわかっていた。
「紅葉。返すも何も俺はずっと紅葉の家族だから」
五月。幼馴染みの明日菜に告げた言葉が脳裏で再生される。
『そうだな。確かに明日菜には話せないことが増えたけど、これからも俺たちは幼馴染みだろ? 他の誰よりも長いつき合いなんだし、今さら疎遠になんてならないから』
そして──
『そんなに難しそうな顔をしないの。今傍にいてくれる人を無理に増やす必要はないんだから。今傍にいる人、一人一人を大事にしてあげて』
──今日、主治医の冬乃に告げられた言葉が瞬時に過ぎった。
「俺は絶対にどこにも行かない。だから、母さんに会いたかった麻露さんの気持ちもちょっとだけでいいからわかってあげてくれよ」
なんとなくなのは、実母と言われてもいまいちピンと来ない朝日の結希に対する態度だった。
麻露は朝日とどんな思い出を共有し、家族にどんな思いで〝嘘〟をついて、切れかけていた養母との糸を繋ぎ止めたのだろう。
「……わかんない。にぃの言うことでも、そんな身勝手な気持ちでにぃに危害を加えた奴のことなんて絶対にわかりたくないっ。それに、百妖と結城は昔からこう。絶対にわかり合えない正反対の政治家同士だもんっ」
ぷいっとそっぽを向いて、紅葉は思い切り手の甲で目元を拭った。紅葉の後頭部を見ていた火影は、すぐさま顔色を変えて叫ぶ。
「ひ、姫様?! そのままこちらの方を向いていてください!」
「はぁ〜? なんでよ火影、うっざ…………って、いやぁぁぁぁ?!」
紅葉が顔を覆う直前に見えたのは、涙で化粧崩れした紅葉の汚れた顔だった。火影は手を伸ばすが、どうしていいのかわからずにおろおろと空中を無意味に泳ぐ。
麻露は冷めきった表情で後ろの二人を見、「依檻」と次女の名前を呼んだ。
「はいはいはいはい。シロ姉はほんと人使い荒いわよねー? 私を使うなら最初からやらないでって感じ」
タイミングよくリビングの扉を開けたのは、依檻だった。ずっと廊下で様子を伺っていたのか、リビングの惨状を見てもまったく驚かない。が、笑いのツボが浅い依檻は、すぐ傍で足を固められた二人を見て大笑いした。
「あははははっ! 泣いて化粧崩れなんて、まだまだ若いわねぇ!」
「なっ……! ご、ゴミは黙っててよぉ!」
「いやー、こんなに笑ったのは久しぶりだわぁ!」
笑い泣きをする依檻だったが、化粧崩れはしなかった。ひぃひぃと体をくの字に曲げて腹を抱える依檻は、ついでにしゃがんで氷に手を乗せる。
「毎回毎回、温度調整するのは簡単じゃないのよねぇ?」
そう文句を言いながら掌に熱を灯した。
徐々に溶けていく氷は水になり、空気が温まれば自然と結希の手錠も溶けていく。
「あっつ! 結兄、ベランダの扉開けて!」
結希は真後ろにある鍵を解除して開いた。すると、六月特有のじめじめとした空気がリビングに流れる。
「……うへぇ。だから乱用しないでって言ってるのに、ほんとシロ姉は人の話聞かないわよね」
「……どの口がそれを言うんだ。凍らすぞ」
雪女の半妖の麻露と人魂の半妖の依檻は、体温調整が上手くできずに弱々しい声を出した。それに見向きもせず、荷物から化粧ポーチを引っ張りだして紅葉はリビングから飛び出す。
嵐の元凶が落ち着き、はぁ、と誰かのため息がリビングに伝った。
「し、シロ姉……」
「ん? どうした、心春」
「……えと、ごめんなさい。ぼく、お、お兄ちゃんからお母さんのこと聞いてたのに、上手く伝えられなくて」
リビングの隅で丸くなり、心春は項垂れた。
依檻と同じくずっとタイミングを伺っていたのだろう。体質なのか、男性相手でなくても未だにほんの少し顔色が悪かった。
「心春が謝ることじゃない。心春が結希の話を熱心に聞くとも思えないしな」
「うぅ。ごもっともかも」
「ていうか、心春ちゃんが謝るなら一番謝らなくちゃいけないのは俺になるんだけど」
しゅんとした心春のフォローをするつもりではないが、結希も言葉を足した。
「うぅ?! おおおおお兄ちゃんは悪くなっぐで」
「ストップ春ちゃん。いったん落ち着いた方がいいわよ?」
「うんうん。誰も悪くないって!」
依檻はオレンジ色の髪を弄りながら微笑み、椿は心春の肩を叩いて励ます。徐々に顔色が良くなる心春だったが、それを許さなかったのが麻露だった。
「が、そこまで二人が言うのなら私も罰を与えないと気が済まない」
「えっ」
立ち上がった結希は、ほんの少し背が低い麻露に見下ろされた気分になった。
「へ……?」
遅れて心春が若草色の目を見開く。
「結希。キミがここに来た日に私が言った台詞を覚えているか?」
「えーっと、結構あったと思うんですけど……どれの話ですか?」
麻露はにぃっと口角を上げた。それは、普段は片鱗しか見せない悪魔の微笑みだ。
「今日から心春の男性恐怖症がある程度治るまで、極力一緒に行動しろ」
そして、久しぶりの命令も悪魔の宣告そのものだった。
『心春とも積極的に会話をしてあげてほしい』
あの日、麻露は結希に頼みごとをした。
『心春には救われてほしいんだ。男性恐怖症ではない、普通の女の子としてこれからを生きてほしい。……なぁ結希、これはチャンスなんだよ』
その過程で心春が傷ついても、それが心春の為ならば構わない。それが麻露の頼みごとだった。
「えぇっ?!」
「む、むりだよシロ姉っ!」
まったく会話がなかったわけではないが、言われてみれば、積極的に心春と会話をした記憶がほとんどなかった。
二ヶ月かけた伏線なのかと思わせるほどの麻露の楽しげな表情は、曇ることなく続く。
「あーあ。春ちゃん、もう逃げられないわね」
「心春、結兄! アタシは応援してるからな!」
「応援されても困るものは困るんだよ、つば姉ー!」
頭を抱える弟と妹を満足そうに眺め、麻露は紅葉がいなくなってからずっと黙っていた火影に視線を移した。
「騒がしいか? 我が家は」
「…………別に、騒がしくない、です」
「家族だというのに、他人行儀だな」
火影は麻露の目から逃れた。麻露と火影は多くを語らずに、沈黙の時を過ごす。紅葉が戻ってくると、曇っていた火影の表情に花が咲いた。
火影にとっての家族は、現状紅葉だけだった。




