二十 『愛する家族を守る為に』
十日後の二十九日に退院した結希は、明日菜との会話を思い出していた。
家に帰って、すぐにリビングに置かれている家具の中で一際目立つソファに腰を下ろす。茜色に染まる空を見ていると無性に虚しくなり、窓から入り込むそれに同色に染められていくリビングは自分しかいないせいか余計に広く感じられた。
これ以上誰もいない黄昏時のリビングにいられなくなり、結希はリハビリも兼ねて風呂場に向かった。
注意して開けた脱衣場には誰もおらず、衣服もない。ただ浴場の電気だけがついていて、不審に思った結希は扉を開けた。
「…………結希くん」
「…………は?」
湯気もなく、ちゃぽんと跳ねる水の音に反応して咄嗟に目を瞑ろうとする。が、その前にしっかりと視界に入った歌七星の〝尾びれ〟に視線を奪われた。
そのおかげで平然とした様子の歌七星は、煌々と輝く紫色の鱗に包まれた尾びれを動かす。銭湯並に広いおかげで、離れていても水が大きく跳ねているのが見てとれた。
「まさか、最初に見られてしまうのが結希くんだとは思いもしませんでしたよ。これも必然なのでしょうか?」
「歌七星さん、その姿は……」
見知った歌七星の半妖姿とは少し違う。
結希が恐る恐る尋ねると、歌七星は少しだけ不満そうな表情になった。
「これが、熾夏で言うところのわたくしの覚醒なのでしょうね。〝覚醒〟と言うのは安っぽくてあまり好きではありませんが、この姿は結構気に入っています」
「……やはりそうなんですね」
紫の巻き貝に変化した耳にはエメラルドのイヤリングが埋め込まれていて、右耳の上の髪に変化はない。大きな変化があったのは上半身で、腕や腰に巻きつけていた半透明の布は桃色のハイビスカスを大量に咲かせた紫色の着物に変わっていた。
「というか、どうして急に覚醒したんですか? そもそも覚醒ってなんなんですか?」
「心当たりは……まぁ、なくはないですね。ですがこれは口が裂けても教えません」
浴槽の縁に両腕を乗せた歌七星は、ちゃぽんと再び尾びれを動かし水を跳ねさせた。表情はよく見せる真顔だったが、どこか作られた表情のような気がした。
「半妖の覚醒については、我々も愛果が初めての例でしたので不明な点が多いんです。そこは残された文献に頼るか…………できれば避けたいんですが、覚醒者が増えることによって解かれるか、ですね」
「避けたい?」
半妖ではない結希は、覚醒をいい方向に捉えていた。だから、実際に覚醒した半妖の歌七星がそう言う理由がわからなかった。
「…………覚醒の心当たりです。察してください」
「…………すみません」
歌七星はやれやれと言うように息を吐いた。息を吐いた歌七星の唇が何故か心に引っかかって、その理由を思い出そうと結希は眉間に皺を寄せる。その瞬間、脱衣場の扉が大きく開いた。
「うわっ、結希?!」
場所が場所だからか、金髪を大きく振り乱して愛果は思い切り仰け反った。
「あ、悪い。愛果」
「び、びっくりした……」
歌七星よりも一足先に覚醒していた愛果は、昔ならばこのような状況になると豆狸に変化していた。が、覚醒してからは愛果の意志に反して変化することはなくなり、愛果も随分と肩の荷が下りたように見える。
「……てかアンタさぁ、なんで服を着たまま風呂場見てんの? や、って言っても服着てた方が良かったんだけどさ、この場合」
愛果はてくてくと歩を進めて、突っ立っている結希の隣から風呂場を覗く。
「わたくしと話をしていたんですよ」
と言う歌七星と目が合い、歌七星の半妖姿の変化に気づいた愛果は口よりも先に足を出した。
「っだ!?」
壁際まで蹴り飛ばされた結希は、顔中真っ赤にさせて肩を震わさる愛果に見下ろされる。
「このバカ! 変態! 今度こ、こんなことやったらタコ殴りの刑なんだからなぁ!」
だんっだんっと地団駄を踏む愛果を止められないと判断した結希は、愛果の傍をすり抜けてリビングに避難した。切られた傷の痛みがするが、あの場合はあれで済んで良かったのかもしれない。
『逃げるなアホぉ!』
どうやらあれでは済まなかったらしい。
『落ち着きなさい、愛果。何故貴方がそこまで怒るのですか』
風呂から上がってすぐに元の姿に戻ったらしい歌七星の呆れ声が続いて聞こえる。
『うぇ、えと、それは……』
同時にリビングに戻ってきた愛果と歌七星のおかげで、先ほどまで虚しく感じていたリビングが一気に明るくなったような気がした。さりげなくソファで横になっている結希は、静かに服の上から古傷に触れる。
「てか、結希。今日退院だったなら先に言えっつーの」
「熾夏さんが連絡するって言ってたから、文句なら熾夏さんに言ってくれ」
「あんのバカ狐!」
「熾夏に文句を言ってもムダですよ。言う前に話題変更をさせられますから」
歌七星は普段食事を取る長テーブルの上に置いてあったビデオカメラを持ち、「ところで」と先ほど本人が言ったように話題変更した。
「今度仕事でアイドルの私生活を紹介するのですが、わたくしの場合紹介する物がないので家族の紹介をしたいんです」
「あー、かな姉キャラ作ってるもんね。そりゃあっても紹介できないわ」
「黙りなさい愛果。貴方を紹介する気はありません」
そしてビデオカメラを弄り終わった歌七星は、それを結希の方に向けた。
「紹介するのは結希くんだけです」
「はぁ?!」
「歌七星さん、本気で言ってるんですか? なんで俺……」
焦って結希が飛び起きると
「結希くん。貴方は〝アレ〟を地上波に流す気ですか?」
歌七星はビデオカメラをずらして結希を直接見つめ、同意を求めた。
「すみませんでした」
「はぁっ?!」
ただ一人納得していない愛果は、「アレって何さぁ!」と腕を振る。
「アレはアレだ」
「アレはアレです」
「ちょお……?!」
二人に曖昧に躱された愛果は、その場で悔しそうに膝をついた。
そんな愛果を、次に扉を開けた月夜がわざとではなく踏みつける。次の幸茶羽は愛果の存在に気づいていながら思い切り踏みつけた。
「痛いってば!」
「ふきゃ?! 愛姉ごめん!」
「姉さん、こんなところで寝ている方が悪いんだから謝る必要はない。むしろ貴様が謝れ狸」
「はぁ? 幸茶羽、ウチに喧嘩売ってんの?」
睨み合う二人を「黙りなさい。シロ姉に言いつけますよ」と脅した歌七星は、改めてビデオカメラを結希の方に向けた。
「かな姉何それ! おもしろそー!」
「面白くありませんよ。ただの商売道具です」
「つきにも見せてー!」
「お断りします」
それから、月夜に捕まった歌七星は幸茶羽にまで口を出されてビデオ撮影どころではなくなっていた。
密かに部屋に戻ろうとした結希は、長テーブルの上にもう一つ置いてあったビデオカメラに興味を持ち手に取ってみる。家族を紹介したいと言って歌七星が自分を選んだことに関しては、上から下までを考慮した上での消去法とはいえ少しだけ嬉しかった。
「愛果」
「何さ」
「これの使い方教えてほしいんだけど」
不意に思いついたことを実行しようとして、結希はイタズラっぽく笑った。そんな珍しい表情を見せた結希に愛果は目を見開き、「……別にいいけど」とそっぽを向く。
愛果から一通り使い方を教わった結希は、本来の目的を忘れた歌七星にそれを向けて長テーブルの上に置いた。
歌七星の言う自然体は知らないが、せめて妹に見せている歌七星の姿は自然体であってほしかった。結希は椅子に座って、次々とリビングに集まる姉妹と歌七星を画面越しに見つめる。
その瞬間、ポケットに入れていた自分のスマホが鳴った。結希は手に取って相手を確認した後、ベランダに出る。
「もしもし」
『久しぶり、結希君』
「母さん。そっちはどうだった?」
『撃退成功。みんなは無事よ』
そう言って、朝日は結希を安堵させた。
『むしろそっちは大丈夫だった?』
「まぁ、なんとか」
『嘘。また無茶して入院してたんでしょ?』
「……知ってたなら聞くなよ」
普段なら笑いそうだったが、今日の朝日は笑わなかった。不審に思う結希の耳元で朝日はため息をつく。
『結希君、貴方は本当に優しいね』
「そうでもないと思うけど」
『そういうところ。本当に貴方のお父さんにそっくりよ』
「…………」
その瞬間、初めて朝日の口から父親の話が出てきた。
昔──と言ってもまだ六年前だが、結希が何度頼んでも朝日は父親の話をしたがらなかったはずなのに。
「父さんは優しい人だったんだ」
『優し過ぎたの』
「なのに離婚したんだ」
『優しさは時には残酷なのよ。覚えておきなさい、結希君』
何故それを自分に言うのか。結希には朝日の心意がさっぱりわからなかった。
『遺伝なのかしらね。結希君もそう。優し過ぎる。優し過ぎるから六年前に記憶を失って、一ヶ月前に背中に火傷を負って、今は全身に刀傷を作った』
「それのどこが優し過ぎるんだよ」
『もっと自分の家族を頼りなさい。家族がみんな女だからって、なめてちゃダメ。女だって、愛する家族を守る為ならどこまでも強くなれるんだから』
なめていたつもりはなかった。だが、傷つけたくないという結希の思いが、あの日自分の首を限界まで絞めていたという自覚は確かにあった。
『貴方のお父さんもね、優しいから、なめてるのよ』
朝日の心の声だろうか。秘密主義者なはずの朝日が、ここまで本音を晒した日はこの六年で初めてだった。
『それじゃ、そろそろ次の町の調査に出かけるから切るわよ?』
「あ、ちょっと待って」
『なぁに?』
「マギクっていう名前の陰陽師、母さんは知ってる?」
『さぁ? 知らないわ』
「……わかった。ありがと」
あのマギクという少女陰陽師のことを、結希はまだ誰にも話していなかった。それは朝日の言う、優し過ぎる性格が枷となっているのかもしれない。
『あ、そうそう。そういえば私たち、二週間後にはそっちに一回戻るから』
「戻る? 何かあるのか?」
『ほら。結希君が毎年参加していない、一年に一回の陰陽師の集会があるじゃない。今年は既にいろんなことが起きているでしょう? 今年は異例だから、通常は一日だけだけど何日もかけて行われることになったの』
そういえば、毎年六月にそんな集会があった気がする。すべての陰陽師が集う陰陽師の集会に、結希はもう五年も行っていない。
『結希君。わかっていると思いたいけれど、今年は貴方も強制参加だからね』
「行くよ、強制されなくても」
もう逃げてはいられなかった。通話を切った結希は、ベランダから漏れる温かな光をぼんやりと眺める。
集会まで、あと二週間はある。それまでに結希はマギクという名の陰陽師の情報を他の陰陽師と共有し、狐の半妖の正体を向こうに気づかれないまま探る必要性を感じていた。
結希は今、たった一人で決意を固めていた。




