十五 『どんなに上っ面な建前よりも』
町役場へと歩き出した結希の後を、スザクがさも当然のように追いかける。結希に続く足音は、それだけだった。
「あー……、ねぇ。結希?」
依檻に名前を呼ばれて振り返ると、一緒に来ていた百妖家の姉妹全員が微妙な表情をしたままその場に突っ立っていた。
「どうしたんですか?」
「『どうしたんですか?』じゃなくて、これ」
とんとんと、依檻はつま先に貼ってある札を足で差した。全員が紅葉の貼った札の先に入って来ず、結希はそれだけですべてを察する。
「……この札の効果が抜群なのは、この身をもって充分すぎるほどわかったわ」
人避けの札は彼女たちにはなんの影響もなかったが、あったのは退魔の方だった。
陰陽師の結希は勿論、特別に入れる式神のスザクに退魔の影響はない。だが、妖怪の血を半分引いたこの姉妹たちには確実に効いていた。
「中にいる半妖は、この札が貼られる前に侵入したみたいですね」
歌七星は静かに手を出して、空中で止めた。止めたのではなく止められたかのようで、普段の真顔は悔しそうに歪む。
「結希。ウチらのことはいいから、さっさと行って」
視線を落とした愛果は、目に見えてわかる虚勢を張った。今にも泣き出しそうな声で、小さく小さく肩を震わせている。
「けど……」
「行って!」
強がって、愛果は叫んだ。札に影響されずに中に入った結希は、時間がないこの状況でも動けずにいた。
──自分たちは人ではない。
それを改めて思い知らされた四人の表情が、どうしても頭から離れない。
「…………行けるわけないだろ」
呟いて、大きく足を地面に叩きつけた結希は札の外に出た。すれ違いざまに見えた四人の驚いた表情は、結希の背後ですぐに消える。
「結希くん、何をしているんですかっ! 早く……」
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
結希は歌七星の怒りや戸惑いが滲んだ言葉に九字を被せた。刹那、約五メートル先から忍び寄っていた妖怪が次々と消滅する。
「人避けの効果はありますが、逃げ場もないこの場所での皆さんの戦闘は不利です」
後ろには退魔の壁、前には妖怪と人目のある住宅街。
それらに挟まれた町役場周辺の現状を確かめると、歌七星は言葉を詰まらせた。今の言葉にも嘘偽りはないが、結希は少しの間考えた後で本音を漏らした。
「それに、前回俺は背中に火傷を負いました。あの時皆さんが傍にいてくださらなかったら……死んでいたと思います。ですから、今回も傍にいてほしいんです」
「……結希様」
いつの間にか取り出した日本刀を握り締め、スザクはまろ眉を下げつつも表情を引き締めた。
よく考えたら愛果以外はあの場にいなかったが、そうでなくてもこの情けない本音はどんな上っ面な建前よりも四人の心に響いて欲しかった。
「……結希、君は本当に可愛い弟ね」
不意に頭を撫でられて、慌てて顔を上げると自分よりもほんの少し背が高い依檻がいた。
「確かにね。アンタとスザクだけじゃ不安でまともに戦えないっての」
愛果は片手を腰に当てて、右手に乗っている心春に目配せをする。心春は一瞬だけ結希に視線を移して、こくりと頷いた。
「ですが、どうやって中に入るんですか?」
人魚の半妖姿の歌七星は町役場に視線を向けた。唯一人間の姿のままでいる依檻が手を翳して侵入を試みるが、やはりできない。
「一度俺が一部を剥がします。そうすればその部分から中に入れるので」
全体を覆う結界とは違い、効果範囲が狭くて脆い札は今のように等間隔に貼るのが基本的な使い方だ。
半妖には触れられない札を結希が剥がすが、そうしている間にも妖怪が待ってくれるわけではない。全員の異質な妖力を感じ取って、次々と集まってきている。
「ここは私が相手をするわ。みんなは下がって、先に行きなさい」
「依檻さん?!」
「私は百妖家の次女。逃げ場がどこにもなくっても、これくらいならやれるわよ」
名前を呼んだと同時に振り向いた依檻は、両手にオレンジ色の炎を灯してウィンクを見せた。
「ここは最年長者の私に任せて。結希は絶対に半妖を止めて、結界を張りなさい。どうせこの札だって長くは持たないんでしょう? だったら少しでも多くを先に倒してたら後で楽じゃない」
依檻に痛いところを突かれ、結希は一瞬だけ言葉を失った。手に触れた札の妖力を感じ取り、残りの時間を計算する。
「持ってあと二十分です」
「それだけ?!」
愛果は町役場へと向けていた足を止め、結希の方に体を向けた。
「それだけで充分ですよ。違いますか? 結希くん」
しゃがみ込んだ体勢から見上げると、早くも札の中に入っていった歌七星が微笑んでいた。愛果は片手で金髪を掻き毟りながら、唸る。
「も〜っ! 結希っ! 今回ウチは傍にはいられないけど、一緒に戦ってるってことだけは絶対に忘れないでよね!」
愛果は心春を歌七星の肩に乗せ、炎を全身に纏わせる依檻の隣に立った。
「いいの? 愛ちゃん。私なんかの傍にいて」
「いいも何も、幻術使いが傍にいなきゃ町役場が火事になってるようにしか見えないでしょーが! ウチがここに幻術をかける。それでここを守ってみせる!」
両手を広げた豆狸の半妖愛果は、町役場全体──そしてその周辺を幻術で覆った。それは、一ヶ月前の彼女にはない頼もしすぎる背中だった。
「結希くん、ここは二人に任せて先を急ぎましょう」
「そうですよ結希様! 裏切り者かもしれない半妖が中にいるんですよ?! 町役場は陽陰学園とは違い、重要な資料がたっくさんあるんですから!」
依檻と愛果の後ろ姿は、業火によってかき消された。業火は決して札の中に入ってくることはなく、むしろ守るようにして燃え盛っている。
「二人なら大丈夫です。それに、家族を信じろとわたくしに言ったのは結希くんではありませんか?」
歌七星は紫色の髪を掻き上げた。そして、札を貼り直して立ち上がった結希の手を、あの日のように引っ張った。その手の先の肩に乗っていた心春は、珍しくまっすぐに結希の瞳を見つめていた。
「依檻さん、愛果! 後はよろしくお願いします!」
歌七星に握られた手を握り直して、叫んだ結希は走り出した。空中に浮かぶ大きな水玉の中に入って移動する人魚の歌七星も、約十五センチしかない小人の心春も、結希のように早く走れるわけではない。
「スザク、俺たちの先を走ってくれ!」
「はい!」
すぐさま抜刀したスザクは、町役場へと突入した。
照明は消え、エスカレーターも止まっている。静寂に包まれたロビーを一瞬で見回したスザクは、エスカレーターを駆け上がった。
立ち止まってスザクの様子を一瞥した結希は、片手を歌七星の腰に回した。
「ひゃっ……! ゆ、結希くん?! なななな何をするんですか!」
「すみません。少しだけ我慢してください」
歌七星の足となる尾びれを腕で持ち上げて、彼女を抱き上げたままスザクと同じようにエスカレーターを駆け上がる。
歌七星は移動手段として使っていた水の玉を消すが、時既に遅く結希の全身は濡れていた。しっかりと歌七星の肩に掴まっていた心春は、結希を避けるように歌七星の体の上であわあわと駆け回っていた。
「くっ、擽ったいですよ心春! やめ……っ、こらっ、やめなさいっ!」
「だって、だって、だってぇ〜!」
結希は腕の中で身を捩る歌七星を落とさないように抱き寄せた。小さな体を真っ赤に染めた心春は、走り回った末に歌七星の腹部に落ち着く。
その腹部は当然肌色で、人魚の半妖ということもあり半裸になっている歌七星を再認識。視線をなるべく先を行くスザクに向けつつ、結希はもう一度口を開いた。
「嫌だとは思いますけど、歌七星さんも心春ちゃんも我慢してください」
「うぅ〜……っ!」
「気を悪くされたらすみません。い、嫌ではありませんし、そもそも足を引っ張っているわたくしたちが悪いんですから」
歌七星は目を伏せ、腹部に乗った心春の頭を撫でた。細い指が心春の桜色の髪に絡まり、さらさらと流れる。
「歌七星さ……」
「ですから必ず、これから先はわたくしたちが結希くんを助けます。結希くんの力になります」
視線を逸らしていたが、その言葉に驚いて思わず視線を落とした。
結希を見上げた歌七星はどこまでも凛とした表情をしていて、紫の瞳が自分を映す。すると、視界の隅で何かが光った。
それは、今まで紫の髪で隠れていたエメラルドのイヤリングだった。
「……ありがとうございます」
自然と口をついて出てきた台詞は、純粋な感謝のそれだった。今は、どう頑張っても感謝の言葉しか出てこない。
「結希様!」
スザクの声が結希を現実へと呼び戻した。
いつの間にか最上階となる三階に来ていて、結希は歌七星をゆっくりと下ろす。スザクはエスカレーターから下りた場所から見て左後ろの──例の、立ち入り禁止とされている通路の手前にいた。
その通路で今朝、亜紅里と不審な少女が話していたことを思い出す。無理矢理忘れようとした今朝の出来事は、未だに結希の中にあった。
「セイリュウの情報通り、人避けの術は解除されていません。ですが、半妖と陰陽師様では解除する必要がございませんので──やはり侵入されたと思われます」
「みたいだな。行こう」
結希は札を取り出して、スザクよりも先に駆け出した。
「『渇け』!」
背中を押すように、結希の前だと吃る心春の音色のような声がした。瞬間、濡れていた制服が言葉通り渇く。
「ありがとう、心春ちゃん!」
それに対する心春の返事はなかったが、結希はあえて振り返らなかった。
長い通路の奥にある厚い扉を片手で開け、札を構える。横に広がる新たな通路は広く、視界に入る限りの木製の古びた扉はすべて全開になっていた。
「……ッ!」
「これは……。結希くん、向こうの居場所はわかりますか?」
歌七星に尋ねられる前に瞑目していた結希は、陰陽師の力で妖力を探る。スザクや歌七星や心春の妖力は当然のことながらすぐに感じ取れた。
立ち入り禁止区域全体に集中力を張り巡らせて、自分たちではない二人の妖力を探り出す。
「こっちです。俺の傍から離れないでついてきてください」
「えぇ。もとより離れる気はありません」
振り返ると、歌七星は星屑を瞳に溜めて微笑した。




