十三 『担任の姉とアイドルの姉』
沈みかける太陽の光を背に受けながら、百妖家へと伸びる長い坂道を登っていく。暑い。光を遮るものが何もない地獄の道だ。
それでも帰りたいと願う。こんな辺鄙な場所にあるのに。
直接部屋に帰ってもいいが、なんとなくリビングに足が向いて扉を開ける。そして、一人ソファに座る依檻の姿を視界に入れた。
電気もついていない薄暗い部屋でパソコンを弄っている依檻は、結希の気配を感じて視線を上げる。そして髪を耳にかけ、柔和に微笑んだ。
「おかえりー、結希」
「依檻さん……。ただいま帰りました」
職業柄、結希が百妖家に帰ってくる時間帯に家にいた試しがないのに、依檻は何故今ここにいるのだろう。いない方が都合が良かったのに。
同じ家に暮らす担任の依檻だけ距離感がわからず、結希は戸惑い気味に言葉を返した。
「いけない子ね、結希は」
ため息混じりに呟いた依檻は、オレンジ色の長髪を梳く。ブラウン色の双眸が、炎のように熱く結希の全身を捉えていた。
「私は学園では先生だけど、家では姉よ。さぁ、もっと弟らしくお姉さんに『ただいま』って言って?」
キーボードに触れていた指が止まったリビングは異様に静かで、依檻の艶やかな声が耳を擽った。妖艶に微笑む依檻は、黙る結希に向かって「言って?」ともう一度唇を動かす。
「……ただいま」
依檻の粘着質な性格を知っている結希は、しつこくされる前に要求された台詞を言った。ただただいまと言うだけなのに感じる気恥ずかしさは一体どこから来るのだろう。
「ふふっ、まぁそれでいいわ。反抗期な弟っぽくて逆に唆るしね」
依檻は膝に置いていたパソコンをテーブルに移し、くいくいと指で結希を招いた。
「なんですか」
一応、依檻の一メートル手前で立ち止まる。依檻はくすくすとおかしそうに笑って、自分の右隣をぽんぽんと叩いた。
「まぁまぁ。警戒しないで座りなさいな」
「ここでいいです」
「なーんでそんなに警戒するのよ。普通逆じゃない?」
唇を尖らせた依檻は、不満そうに双眸を細めた。依檻の言いたいことはわかるが、結希にだって思うことはある。
「依檻さんの普段の行いが悪いんです」
「そういう反応、うちに来たときからちっとも変わらないわね……。私ってそんなに淫乱?」
「……ち、違いますけど」
さらりと恥じることなく喋る依檻に、結希の方が吃ってしまった。依檻は思い通りにいったという風に笑っており、わざとらしく首を傾げる。
「あら、否定してくれるの? じゃあ何?」
多分、依檻にはわからないことだろう。だから結希はこう言った。
「──依檻さんだから」
生徒会役員を依檻の口から聞かされた時、依檻は結希にそう言った。後にヒナギクからちゃんとした説明を聞かされて、あの時の依檻の台詞が間違いではなかったと知ることができたが腑には落ちなかった。
「ただ、それだけ?」
すべてを見透かしたかのようなブラウンの双眸に、結希は「はい」とだけ答えた。
「そんな風に思ってくれているなんて嬉しいわ」
たいした説明はしていないのに、依檻は理解したかのような態度だった。
千里眼を持つ熾夏ほどではないが、態度通り何かを悟ったかのような依檻も結希は苦手だった。
「別にいいわよ? 私にだけはいつまでも反抗的な態度をしていなさい。他の姉妹にそんな態度はできないものね」
依檻は足を組み替えてパソコンの画面に視線を落とす。そして再び結希を見つめた。
「結希にとって家族の中での特別が私なら──私にとっての生徒の中での特別は、結希だってことを覚えておきなさい」
ウィンクをし、依檻はパソコンに何かを打ち込む。結希は何も答えず、生まれて初めて生で見たパソコンをじっと眺めた。
「そういえば依檻さん、さっきから何をしているんですか?」
「……ん。ざっくり言えば生徒の監視かしら?」
依檻はパソコンの画面を結希の方に向けた。そこにはクラスの名簿表があり、いくつか丸が書かれている。
素早く確認した結希の班には全員丸がついていたが、何故か自分のところだけは二重丸になっていた。
「これは……」
「班が解散したら班長が私に電話をするのよ。結希の班はヒナちゃんがしっかりしているから、全員丸。ちなみに結希は目の前にいるから、ちゃんと家に帰ったこともわかって二重丸よ」
依檻はソファから腰を浮かせて、結希の頭をよしよしと撫でる。
「ちょっ」
「これくらいいいじゃない。ホント反抗期ね」
やれやれと言うようにソファに座りなおす依檻は、この家の中で誰よりも結希を弟扱いしていた。
実際、今自分が依檻に抱いている感情は、反抗期の弟が姉に抱く物に近いのかもしれない。
「…………」
そう思えば思うほど気恥ずかしくなり、結希は半ばやけくそ気味に依檻の右隣に腰を下ろした。
「あら、もう反抗期は終わりなの? ちょっと残念」
前に麻露が言った通り、近くにきて改めてわかったが依檻の服は上下共に薄着だった。人魂の半妖なのだと意識すると、心なしか十センチの距離があっても依檻の体温を感じられる。
珍しくアルコールの匂いはしなかったが、その代わりに風呂に入ったのかシャボンの匂いがした。
「うふふ。もしかして緊張して固まってる?」
「なんでそうなるんですか」
つんつんと脇腹をつつく依檻の指を手で防御する。すると、リビングの扉がゆっくりと開いた。
「あ」
中に入ろうとした歌七星が、結希を見てすぐに依檻に視線を移す。
「おかえり、かなちゃん。今日は早かったわね」
「……この後入っていた仕事が急遽キャンセルになったんです。それよりも珍しいですね、二人が一緒にいるのは」
歌七星の止まった視線の先には、結希と依檻の攻防の最中であった手があった。歌七星はそれを一瞥した後、鞄を下ろしてキッチンへ向かう。
「そうでもないわよ? 私、結希の担任だもの。学園では大体一緒なんだから」
「担任? なんですかそれは。初耳ですよ」
「そんなこと言われても、かなちゃん以外は全員知ってるわよ?」
「わたくしは結希くんに聞いているんですけど?」
冷蔵庫を開けた歌七星はウーロン茶を取り出した。ほんの少し棘がある口調なのは、歌七星と依檻の相性があまり合わないせいだろう。
「残念ながら本当ですよ」
「余計な一言が多いわよー、結希。それと、かなちゃんは今日も私にだけ冷たいわね? というか、私的にはかなちゃんと結希がいつ仲良くなったのか知りたいんだけど」
「貴方には関係のないことです。結希くん、ウーロン茶飲みますか?」
自分のコップを探す歌七星は、結希を一瞥してそう尋ねた。依檻に尋ねない辺りが歌七星と依檻の不仲を強調しているが、険悪な雰囲気は特になかった。
「……あ。じゃあ、お願いします」
依檻とのやり取りで喉が渇いていた結希は、珍しく遠慮せずに歌七星に頼む。こんなことが当然のように行われることも、家族になるということなのだろうか。歌七星は嫌な顔一つせず──それどころか鼻歌混じりにコップを二つ取り出した。
そんな二人の会話を黙って聞いていた依檻は、呆れ顔でため息を漏らす。
「前言撤回。私に比べたら全然仲良くないわ。ね? 結希」
「えっ、そうですか?」
当たり前のようにとぼけた。依檻にだけはそんな態度を取れていた。
「あら。急に反抗期に逆戻りしたわね」
啄く依檻を無視し、寄りかかってくる彼女を押す。
コップにウーロン茶を注いだ歌七星は、それをリビングに運びながら辺りをぐるりと見回した。
「というか、今日は誰もいないんですね。他はどうしたんですか?」
「妖怪退治に行っちゃったわ。メンバーはシロ姉、朱亜ちゃん、わかちゃんと椿ちゃんとつきささちゃんよ」
「え、もう行ったんですか? まだ夕飯前ですよね?」
左隣に座る依檻の方に体を向けると、依檻はオレンジ色の髪を弄りながら片方の指を折って数えていた。
「たまーに、妖怪が多い日は夕飯前にやるのよ。まぁ、あの六人は軽く食べて行ったけれど」
その真偽を確かめる為に、瞑目して集中力を高めていく。
陰陽師の力で妖力を探ると、確かに普段よりも妖怪の数が多いような気がした。それを食い止めるように戦う独特の妖力の持ち主は、半妖の姉妹たちだろう。
「六人で大丈夫なんですか?」
急に香ったマリン系の匂いに集中を乱された刹那、歌七星が二人分のコップをテーブルに置いて結希の右隣に腰を下ろした。
「ダメだったら朱亜の首が飛んでくるわよ」
「その言い方はやめてください」
「なんでよ。言葉通りでしょう?」
「そうですが不愉快です」
自分を挟んで繰り広げられる姉妹喧嘩から早くも逃れようとするが、すぐさま依檻に腕を引かれる。
「それはかなちゃんの考えじゃない。蒸発させるわよ?」
「いいでしょう。鎮火させてみせます」
人魂の半妖と人魚の半妖の二人だからこそ出てきた台詞は、冗談なんかではなかった。腕を引っ張る手は熱く、右側からは水が泡立つ音が聞こえる。
「依檻さん、喧嘩はやめてください」
「あら、私?」
きょとんとした調子で返す依檻は、素なのかそうではないのかがわからなかった。
「普通に考えて悪いのはいつも依檻さんでしょう」
「結希くんの言う通りですよ、依檻姉さん」
「ここに来ても反抗期なのね、愛しの結希は。それはちょっと面白くないわ」
「大丈夫です。最初から面白いことなんて何一つありませんから」
再び唇を尖らせた依檻に毒を混ぜて言葉を返すと、歌七星が少しだけ声を漏らした。
「珍しいわね。かなちゃんがそんな風に笑うのは」
それを見逃さなかった依檻は揶揄うわけでもなく微笑む。歌七星の方に視線を移すと、歌七星は結希の頬を押して依檻の方に顔を戻した。
「笑ってませんから。いいですね? 結希くん」
「は、はい……」
結希を圧で納得させ、歌七星は結希の頬から手を離す。そのまま、空いていた手でぎゅっと強く握り締めた。
「うふふっ。変な顔よ、結希」
「あまり見ないでください」
手を伸ばして、歌七星が持ってきたウーロン茶を一口飲む。馴染みのある味が渇いた喉を潤していった。
普段家にいない依檻と歌七星が揃う機会は滅多になく、担任とアイドルに挟まれていると考えると家族とは言え緊張する。
──ドクンッ
だが、体中に走った感覚はそれとはまったく関係がなかった。
「ッ!」
身構えると、目の前のテーブルの上に二人の男が出現した。




