十二 『ラベンダー』
「なんだと?」
ヒナギクも辺りを見回すが、ロビーに亜紅里の姿はどこにもない。
「どうしましょう……」
千里は蒼白な顔色となり、口元を手で覆った。
「ヒナギク、早速だけど手分けして探すしかないな」
「そうだな。スタンプよりも亜紅里を優先的に探す。来い、風丸」
「わ、わかった。結希、見つけたら俺にメールな!」
「あぁ」
ヒナギクと風丸は奥の通路へと早歩きで行ってしまった。風丸はヒナギクに合わせているようにも見えるが、二人とも《十八名家》だからか妙に行儀がいいと思う。
「俺たちは上に行こう」
結希は数メートル先にあるエレスカレーターを千里に見えるように指差した。ロビーの真上は吹き抜けとなっており、二階と三階にはガラス張りの落下防止柵もあることから周りがよく見える。
「はい」
不安そうな表情を貼りつけながらも強く頷き、千里は結希についていった。結希がエレスカレーターに乗り込むと、すぐ下の段に千里が乗っかる。
不意に、今までまったく気がつかなかった匂いが鼻腔を擽った。仄かに香るラベンダーの匂いは、結希がよく知る式神──スザクの匂いだ。
すぐ近くにスザクがいるような気がして、結希は何度か体を捻る。どこにもいない。当たり前だが、いないならいないで不安になる。
視線を落とすと千里がいた。光の加減でパステルピンク色にも見える髪の下から、千里の瞳がじっと結希を捉えていた。
「ッ!」
目が合って、びくっと肩を上げる千里のラベンダー色の瞳はスザクの緋色の瞳と似ても似つかない。
「あの、な、何か……?」
おずおずと尋ねた千里は元気なスザクとは正反対で。
「いや、なんでもない」
そんなわけないと思うのに、それでも千里から匂うラベンダーの匂いは間違いなくスザクのものだった。
訝しげな千里はそれだけでは納得しないようで、結希は必死に言葉を探す。千里のような年頃の少女には何が起爆剤になるのかわからない。当たり障りのない言い方はどれだろう。
「その、匂いが知り合いに似ていたんだ」
「匂い……」
「あ! 別に変な意味じゃ……」
汚い声を上げ慌てて訂正しようとすると、千里は眉を下げて笑った。
「大丈夫です。よく言われるので」
「よく言われる?」
「そんなことよりも、後ろ。危ないですよ」
風丸の腕を掴んだ時とは違い、危なげにエレスカレーターを下りる。そんな結希を、千里はおかしそうに声に出してもう一度笑った。
「百妖君のそういうところ、やっぱり似てるなぁ」
慈しむような声だった。明らかに小声で呟かれた言葉だったが、結希は読唇術で読み取ってしまう。
──誰に?
聞いてみたかったが口を閉ざした。千里の〝素〟に読唇術で触れた結希は、自分の質問を余計な言葉だと判断した。
「二階のどこから探そうか」
「ごめんなさい。私、町役場に来たの初めてだからよくわからなくて」
「そっか。じゃあ俺についてきて」
陰陽師として。親戚として。昔から結城家が運営する町役場によく来ていた結希は、亜紅里の行きそうな場所を考える。
本能で行動しているかのような亜紅里は、役場本来の役割がある二階には来ないだろう。飲食店が並ぶ一階はヒナギクと風丸が向かっているから、省く。残るは主にステージがある三階だった。
結希はエレスカレーターに乗りかけて、思い立って足を止める。
「神城さん、先に乗って」
千里はなんの疑問も持たずに、言われた通りエレスカレーターに先に乗った。結希はその二段下に足を乗せ、ラベンダーの匂いが辛うじて届かない距離を作る。
「あっ!」
顔を上げると、千里の視線の先に亜紅里がいた。
三階にある、関係者以外立ち入り禁止とされている通路で誰かと話している。見たところ同い年に見える少女は他校の制服を着用していて、千里とは違い、茶髪を無造作に纏めていた。
陰陽師ということもあり視力を鍛えている結希は、少女の翡翠色の瞳が自分に向けられたことに気づく。少女は表情を変えることなく亜紅里を引っ張り、奥へと連れ去っていった。
「え?」
二人をよく見ようとしていた千里は、亜紅里が奥に消えたのを見てバランスを崩す。
「神城さん!」
運が良かったのか、自分の方に落ちてくる千里を抱き止めた。一緒にいると安心するラベンダーの匂いを思いっ切り嗅ぎながら、結希は千里ごとエレスカレーターから下りる。
「風丸に電話してここで待っててくれ!」
スマホを押しつけて走り出した。そんな自分の背中に向かって、遅れて千里が返事をした。
《十八名家》として育てられていないからか、結希は緊急時に走り出すことになんの躊躇いも持たなかった。
──ほら見ろ。
ここにはいないヒナギクに言う。俺は《十八名家》じゃなくて、陰陽師だから副会長になったんだと。
陰陽師の結希は、止まれの看板をハードルの要領で躱して通路を駆け抜けた。ここはしおりにも立ち入っていいとは書かれておらず、通常時も結城家はここの立ち入りを許可していない。
「亜紅里!」
厚い扉を開けた。亜紅里は横に広がる新たな通路に、背中を向けて一人で立っていた。
「あっ、ゆうゆう!」
振り向き様に、妙に楽観した声が返ってくる。
「……何、してんだよ、お前」
たいした距離ではなかったが、場所が場所だからか息切れをしてしまった。
「んん? あ、もしかしてもしかしてぇ、一人で行動したこと怒ってる?」
あははと、純粋すぎる笑い声が逆に耳障りだった。
結希は亜紅里の左腕を掴み、天色の瞳を見つめる。
「もう一人の子は」
「へ?」
「二人いただろ」
「いないよ?」
「嘘をつくな」
「嘘じゃないよ」
亜紅里はむっと頬を膨らませた。怒っているようにも見えるが、怒りたいのはこっちだって同じだった。
「お願い。あたしを信じて」
途端に言葉が出なくなる。逡巡し、亜紅里の腕を引っ張った。
「ゆうゆう?」
「とりあえずここから出る」
亜紅里に背中を向けて、結希は来た道を戻った。その間、亜紅里は絶え間なく結希に話しかけてきたが、反応がないのを見るとやがて口を閉ざした。
通路を抜けると、エレスカレーターから邪魔にならないような位置に千里と風丸、ヒナギクがおり、二人のことを待っていた。
「あっちゃん!」
「亜紅里! 貴様、班行動もできないのか!」
風丸が声を上げ、ヒナギクが亜紅里を責める。
「ごめん」
それは、いつもよりも低めな亜紅里の声だった。
先ほどまで見せていたふざけた態度はそこにはなく、亜紅里は心底申し訳なさそうにして身を縮めている。
結希は亜紅里の腕を離した。思っていた以上に強く握っていたらしく、シャツに変な皺がついていた。
「悪い、亜紅里。痛かったよな」
理性を辛うじて保てて良かったと、結希は密かに安堵した。
亜紅里がいた場所は、陰陽師に関する重要な資料が保管された多くの資料室に通じる通路だった。だからこそ、手前の通路にはあんな簡素な看板だけではなく、人避けの術もかかっていたはずだったのに。
──効果がなくなっていたんだろうか。
結希は、亜紅里と一緒にいたと思われる翡翠色の瞳を持つ少女を無理矢理忘れた。
「……本当に、見つかって良かった」
「甘いぞ、神城千里」
「もういいじゃん、ヒナ。終わったことなんだしさ。それよりも結希、俺ら一階でスタンプ見つけたんだ。だからさっさと次行こーぜ」
「ほんとっ? わー、じゃあ次はどこに行こっかなぁ!」
「貴様の意見はもう聞かん!」
「えぇー! ヒーちゃんのケチ!」
いつの間にか結希の後ろから出、三人の中に混ざった亜紅里は、いつものように笑っていた。
結希は次の場所を話し合う四人を少し離れた場所で見守り、一面ガラス張りになっている窓へと視線を移す。
その先に目を凝らすと、今日もまた強固な結界が町役場の周囲に張り巡らされていた。




