終幕 『〝ただいま〟』
物心がついた時から妖目の周りにいたのは、医者である家族だった。
外科医のお母様と放射線科医のお父様、内科医の叔母様を筆頭に多くの家族が妖目総合病院の最上階にある妖目家で暮らしている。これほど多くの一族の人間が同じ家に住んでいるのは妖目家くらいだろう。そう断言できるくらい、妖目は多くの家族に囲まれて育った。
妖目にとって医者になることは当たり前。それ以外の道は考えたことがない。……いや、嘘だ。一度だけ考えたことがある。
小学校に入学したばかりの頃、二年生の勉強を先にやろうとした休み時間に教室でくしゃみをしたのが彼だった。小学校で会う前から、お母様の友人の息子さんとしてその姿を何度か見たことがある。
『どうして一人なの?』
妖目は彼が知らない人ではないから声をかけた。当時芦屋結希と名乗っていた彼は妖目の二つ前の席に座っていて、唯一の顔見知りである子と同じクラスになれたこと、同じ列に席があること、どちらも妖目たちが出逢うべき二人だと言っているようで話しかけずにはいられなかったのだ。
『えっと……勉強してるの』
『どうして?』
この教室で勉強をしているのは彼と妖目だけ。他の子はみんな外で遊んでいるから彼が気になって気になって仕方がない。
『大切なものを守りたいから勉強しているの』
『友達と遊ばないの?』
『トモダチと遊ぶ時間はないから、一人になっちゃうのはしょうがないよね』
『…………』
夢は、誰かの夢じゃなくて自分の夢だ。それを叶える為に走る時はいつだって独りだから時々誰かに触れたくなる。
『将来の夢は?』
『えぇっと……ヒーローかな』
妖目の夢は妖目の夢。彼の夢は彼の夢。けれど、医者の家族に囲まれて育って医者になるのだと思っている妖目の夢とヒーローになりたいと苦しそうな表情を見せた彼の夢は全然違うような気がした。
彼の夢を子供っぽいと思ったのではない。妖目の夢が子供っぽいと思ったのだ。
妖目の夢は本当に妖目の夢なのだろうか。ヒーローに憧れて──いや、ヒーローにならなければと決意している彼の方が自分で選んだ道を突き進もうとしているようで眩しいと思う。
当時はそう思えなかったけれど、彼と接するようになってからそう思ったから。妖目は彼の夢が叶うように土地神様に祈っていた。他の道を選べない自分の夢よりも──彼の夢の方が好きだった。
『緊急避難命令! 緊急避難命令!』
その祈りと、気持ちを、後悔したくなかったのに。
『町民は皆、陽陰学園生徒会と《十八名家》の指示に従って地下に避難せよっ! これは……コード・ゼロ! コード・ゼロ!』
コード・ゼロがなんのことを指しているのかはわからない。ただ、物凄く良くないことが起きていることだけはわかるから──隣のクラスになってしまった彼のことをずっとずっと考えていた。
地下都市に避難して、先生たちがもう一度点呼を取ろうとした時、彼だけがどこにもいなくて。妖目は頭の中が真っ白になった。
『将来の夢は?』
『えぇっと……ヒーローかな』
『ヒーロー?』
『うん。町を守るヒーローになりたいんだ』
苦しそうな彼の表情を、四年経っても忘れることができなかったから。まさかという恐怖が妖目の体を突き刺し続けていた。
地上に戻ることが許された時にすぐに向かったのは妖目総合病院で。妖目は妖目家の人間だからあっさりと中に入ることができて。病室の扉を片っ端から開けて手当をされたように見える《十八名家》の人たちの寝顔を視界に入れる。
お願い。お願い。生きていて。小学一年生のヒーローになりたいっていう夢を叶える為に、小学五年生で死ぬのはおかしい。そんなの間違ってる。
最後の病室へと急ぐ。もしそこにいなかったら、妖目は、彼の生死をどう受け止めればいいのだろう。
『ぁっ、ぁあ……っ、ああ!』
泣き崩れた理由を上手く言葉にすることができなかった。最後の病室で眠っていた彼を見て、ここにいたのかと安心したのか──何故地下に避難しなかったのかと悲しくなったのか。
彼は町を守るヒーローになりたいという夢を抱かなければ、妖目と一緒に避難してくれたのだろうか。……いや、彼に夢がなければ妖目は彼を見なかったから。これは必然の結末だったのだろう。
『明日菜、ご飯持ってきたよ』
『……明彦。ありがとう』
『……友達、早く目が覚めるといいね』
『…………うん』
彼の傍にいたい。そう願えば家族みんなが叶えてくれた。朝も昼も晩も──片時も離れずに傍にいるけれど、彼の両親は彼に会いに来ない。入院していた人たち全員が退院したと耳にしたけれど、彼だけが目覚めない。
土地神様お願いします。彼の魂を返してください。彼との日々を返してください。……彼の願いを、叶えないで。
溢れてきた涙は彼の手を握っているせいで拭えなかった。彼の手は温かい。捨てられない希望があるから抱き締める。
『────』
指先が、ぴくりと動いて。彼の瞳の中に、妖目が映って。
『結希くんッ!』
願いが叶った喜びで思わず立ち上がってしまった妖目は、彼の瞳に妖目が知る彼がいないことに気がついた。
まだ眠いのだろう。そうに違いない。
『…………だ、れ』
そんな言葉が聞きたくてここにいたわけではない。
『…………私、は』
彼だけが記憶を失っている。どうして? 返してほしかったのは──夢を叶える為に頑張った彼なのに。
『妖目っ……! 明日菜……!』
自己紹介なんて、今更したくなかったのに。妖目の泣き声で駆けつけてきた叔父様たちに彼を任せて一人になる。妖目が一人で泣いている間、彼の病室には色んな人が出入りしていて。もう一度彼の前に立った時、彼は動くことも喋ることもない人形になってしまっていた。
『……私は、妖目、明日菜』
面会時間が終わって、診察も終わって、もう誰も来ない病室で妖目はずっと彼に声をかけ続ける。何度も何度も名前を告げても、彼が反応することはなかった。
『お母様ッ! 私ッ、私医者になりたい! 結希くんを助けたい! お別れなんて嫌だよぉ!』
彼が夢を叶えて人形になってしまったならば、妖目は妖目の夢を彼で叶える。
もう二度と妖目のことを思い出してくれなくても構わない。何度だって、やり直すから。
彼が人形から人間になるまで一年。彼の瞳にまた妖目が映って、彼の妖目の顔を覚えているような反応に安堵して、彼が妖目の名前を覚えていなかったことに──少しだけ傷ついたけれど気を取り直して。
『私の……〝妖目〟の名前は妖目明日菜』
何度でも。何度でも。彼が本気で妖目を拒絶するその日まで──
『〝はじめまして〟──妖目の幼馴染みになってください』
──手を伸ばすから。妖目は必ず、医者になるから。
『……ごめんなさい』
迷うようにそう言った彼は妖目が知っている彼ではないけれど、あの頃も、今も、彼は全然笑わない。笑っていてほしいから。幸せになってほしいから。一人ぼっちになることを選んだ彼を〝名前で縛る〟。
『〝ゆう吉〟、妖目は絶対に諦めないから』
お母様が言っていた。名前は人を縛るものだって。だから明日菜はこの世界の〝明日〟になるんだって。
妖目だけでも彼のことをそう呼んだら、彼は幸せになってくれるだろうか。ゆう吉が妖目を本気で拒絶することは、一度もなかった。
*
「百妖……愛果!」
ゆう吉が百妖家に住む話を聞いてすぐ、ゆう吉が下に運ばれてきたという話が妖目家に入ってきた。慌てて下に向かった妖目を呼び止めたのは愛果先輩で、愛果先輩がここにいるなら愛果先輩がゆう吉を巻き込んだとしか考えられなくて。妖目は愛果先輩の胸倉を掴んで思いっ切り噛みついた。
「ゆう吉が大怪我を負ったのは貴方のせい?!」
もう二度とここに来てほしくなかったのに。
「やっぱり貴方のせいだったの。朝日さんが貴方の親と再婚したらしいけど、こんな目に合わせるのならもう二度と近づかないで!」
誰よりも幸せになって……ほしかったのに。
「悪人の貴方がゆう吉に近づかないで! せっかく六年前……っ、あの状態から回復できたのに! 妖目はもう二度と、ゆう吉に辛い思いをさせたくないのに……!」
また涙が溢れてくる。土地神様、どうしてゆう吉ばかりこんな目に遭うの。土地神様ではゆう吉を幸せにすることができないの?
「邪魔なの。ウチらの……百妖家と結希の絆の邪魔なのさ!」
気がつけば人生で初めて人のことを叩いていた。医者になりたいのに。傷つけてばかりで最低だ。
「〝絆〟って何……。一体なんなの」
ゆう吉は妖目には何も話してくれない。ゆう吉はいつも一人で色んなことを背負っている。六年前もそうだった。
「ゆう吉は、ずっと何かに囚われていた。妖目にはそれが何かわからなかったけれど、貴方にはわかるの? その絆は、ゆう吉を助けてくれるの……?」
「──助ける。ううん、絶対に守る」
そんなに真っ直ぐな瞳で言われたら何も言えなくなってしまう。ゆう吉を幸せにすることができるのは、百妖家の人たちだけだと思ってしまう。
「バカ」
それが悔しい。妖目の方が先にゆう吉と──仲が良かったのに。
「どうしてゆう吉は、いつもそうなの? どうしてゆう吉は、ゆう吉を心配してくれている人のことを考えないでそんなことを言うの?」
妖目だって、風丸だって、ゆう吉のことを心配している。百妖家の人たちだってそうだ。全員がゆう吉の見舞いに来たから、全員ゆう吉のことが大好きなんだ──この人たちにならゆう吉を任せられると思ったのに。
「ゆう吉は、いつも、なんだかんだで一人じゃない。少なくとも、妖目がゆう吉を一人にはさせない。なのにゆう吉は、いつも一人だって思ってる。妖目はゆう吉のそんなところ、とても嫌い」
そんな人たちのことを無視するゆう吉が大嫌いだ。六年前のゆう吉もそんな人たちのことを無視していたからますます許せなくなってしまう。
「許してほしかったら、一日でも早く退院すること。わかった?」
彼は、妖目が知っているゆう吉と違う人なのか、同じ人なのか。そういう部分は違う人でいてほしかった、そう思うのは酷いだろうか。
「ゆう吉が記憶を失っても、妖目は記憶を失った程度でゆう吉との縁を切るほど安い関係を築いたつもりはない。ゆう吉は妖目にとって、生まれて初めての──」
妖目の気持ちを知ってほしくて色々と話したけれど、そこから先の言葉がどうしても出てこなかった。
妖目にとって、ゆう吉という存在はなんなのだろう。
家族ではない。友達以上だと思っているけれど、親友は風丸だから親友でもない。風丸は幼馴染みで親友だから、ただの幼馴染みではいたくなくて。
「──ごめん、ゆう吉。いい言葉が見つからなかった」
何も言えなかった。妖目の気持ちは言葉にすることができなかった。
『緊急避難命令! 緊急避難命令!』
その言葉を聞いて平静を保つことができる妖目ではない。
「ゆう吉!」
どこにも行ってほしくなかったから、あの日と違ってすぐに駆けつける。
「結希、亜紅里。お主らは逃げるのじゃ」
なのに、ゆう吉は今回もどこかに行ってしまう。
「っあ、明日菜!」
どうしても六年前を思い出してしまうから、また、涙が溢れてしまう。
「話はまた後で! それと、今度は上手く説明しろよ?!」
ゆう吉がいなければ妖目の言葉は誰の耳にも届かないのに。やるしかないと思うのは、妖目だって宿命を背負う《十八名家》の人間だから──
「明日菜! 悪いけど今度の木曜学校休んで風丸神社に来てほしい! 理由は後で説明するから!」
──ゆう吉が妖目を頼ってくれるならば、学校を休むことくらいどうってことない。
「ゆ、結希?! おいこれどうなってるんだよ! 熾夏さんに取り憑いてる狐って気性が荒すぎないか?!」
「狐?! あっおうん、狐がブチ切れてるからとりあえず下がれ! 後は俺がなんとかするから!」
見えない壁に阻まれているかのように、目の前の爆発は妖目たちのことを傷つけなかった。
ねぇゆう吉、ゆう吉はこれをなんとかすることができるの? 直衣が伝統衣装の家系って何? 小学校に入る前から朝日さんのことも知っているのに──何も知らない。そんなの聞いていない。
『もしもし? 明日菜?』
「あ……ゆう吉。今いい?」
『いいけどどうした?』
「……明日か明後日、空いてるかなって。ほら、毎年妖目の家でやってたでしょ? 今年はなんだかんだで忙しくて有耶無耶になってたし、ゆう吉に家族ができたからないのかなって思ってたんだけど……熾夏さんうちにいるし……」
妖目は一人っ子じゃなくて、熾夏お姉ちゃんの妹だった。それは心と体が追いつかない発言だったけれど、妖目以外の家族みんなが知っていたことだったから、妖目は妖目家さえ知らなかったのだと傷ついて。
『あ、明日クリスマスイブか』
「ゆう吉……忘れてたの? 毎年あんなに楽しみにしてたのに」
『そうなんだけどさ……さっき明日菜も言ってただろ? 忙しいっていうか、日付感覚を忘れるっていうか……』
「別にいい。だって、今までのゆう吉って、あまりにも暇そうで逆に心配だったし」
この一年でゆう吉が知らない人になってしまったならば、傷ついたどころの話ではないと視線を落とした。
『悪い、多分どっちも空いてない』
ゆう吉を幸せにすることができるのは、本当に百妖家の人たちだけなのだろうか。
「……そっか。ゆう吉はもう家に一人っきりってわけじゃないもんね」
紫苑たちがゆう吉の傍にいる。
「貴方に大切な話があるの」
妖目には熾夏お姉ちゃんやアキちゃんがいる。
ゆう吉は陰陽師の家系で、妖目は九尾の妖狐と百目の半妖の家系。そして妖目は《伝説の巫女》で、風丸は土地神様。
どうして妖目たち三人なのだろう。妖目たちは、妖目は、ただ普通に──幸せに生きたかっただけなのに。そういう風に生きていてほしかっただけなのに。
『……わたしの幸福は、貴方様なしでは得られないもので……わたしの人生は、貴方様なしでは語れないものであることを…………どうか、どうか…………』
妖目が望む幸福は、三人一緒でなければ意味がなかった。
『……忘れないで、ください……っ』
曙が宗隆さんとでなければ意味がなかったように。
「……ゆう吉、いいの?」
「俺がそうしたいんだよ。涙だって同じことをやってただろ」
「そうだけど……ゆう吉と涙さんは違うから」
「どこが違うんだよ」
「ゆう吉は妖目の──大切な人だから」
妖目もゆう吉とでなければ意味がない。だからといって風丸がどうでもいいわけでもないから、三人一緒を望んでいる。三人で乗り越えて掴みたい未来がある。妖目たちはゆう吉が百妖家の人たちに出逢う前から出逢っていたから、共闘できる力があるなら、この居場所は誰にも奪われたくなかった。これが妖目たちの絆だった。
「俺も……俺も明日菜が大切だから。俺のすべてを明日菜に捧げるよ」
その言葉を受け取る為に必要だったのはほんの少しの勇気だけ。ゆう吉のすべてが欲しいわけではなかったけれど、すべてを守る為に一人で町に飛び出してしまったゆう吉が一人ではなくなるならば──妖目はそれを受け止めたい。
「好き」
夢は、誰かの夢じゃなくて自分の夢だ。ただ、それを叶える為に一人で走る必要はなかったのだと──一緒に走ることはできるのだと、十年ほど経った今他でもないゆう吉に気づかされる。
妖目は、共に夢に向かって走ってくれるゆう吉のことが好きだった。
記憶を失って、夢を失ってしまったとしても、同じ夢を見たゆう吉の魂が好きだった。
「〝これ〟、持ってくから。お前ら絶対幸せになれよ」
風丸の夢はなんだったのだろう。曙と宗隆さんの魂を妖目とゆう吉の体から引き剥がした風丸は、大地に立派な桜を植える。
「大丈夫! 信じていれば、土地神様は死なねぇから」
風丸。ゆう吉の夢を叶える手伝いをしてくれてありがとう。ゆう吉を彼岸に連れ去らないでいてくれてありがとう。ゆう吉との日々を返してくれてありがとう。本当に、本当に、本当に、ありがとう。
*
「……熾夏お姉ちゃん」
ゆう吉の夢が神主になることに変わって、妖目も妖目の夢に向き合ったから、妖目家のリビングで寛いでいる熾夏お姉ちゃんに声をかける。熾夏お姉ちゃんは妖目が何を言おうとしているのかを視てしまったのか、すぐに眉間に皺を寄せた。
「……えっと、アメリカの医大ってどんな感じ?」
「どうしてそんなこと聞くの」
「……気になって」
「明日菜ちゃんって産婦人科医志望だよね? 行かなくていいでしょ」
隠し事をしようと思っていたわけではない。熾夏お姉ちゃんは妖目が気づいていない妖目の気持ちを視てしまったらしく、妖目が何かを言う前に釘を刺したのだ。
「そうかもしれないけど、妖目は産まれてくる命を少しでも多く救いたくて」
「産婦人科医になれば中絶手術は避けられないよ」
頭の中が真っ白になる。冷たい声色でそう告げる熾夏お姉ちゃんは、遠回しに妖目には産婦人科医は向いていないと言っているようだった。
《十八名家》の女性で中絶を選択する人は一人もいない。男性も相手に中絶を選ばせない。妖目は誰も殺したくないけれど、世の中にはそれを必要としている人たちがいる。その人たちの存在を否定することもできない。したいと言われたら──せざるを得ない。
祈里が産まれたと雷雲さんが報告した時、あの場にいた全員が小倉家と町の未来を祝福した。けれど、雅臣さんと朝日さんとゆう吉を見ていると、親子は綺麗なものであるとは言えない。亜紅里を見ていると、家は素敵なものであるとも言えない。
世界は、例え風丸が努力しても無垢で穢れのない世界にはならないから。
「それでも妖目は、産婦人科医になりたい」
妖目はこの現実を生きていくから、熾夏お姉ちゃんに濁りのない心で答えた。
「……私たちはどうしようもないくらい似た者姉妹だねぇ。弟クンを置いて遠くに行く理由はなんなの?」
熾夏お姉ちゃんは説得を諦めたようだけれど、ゆう吉のことを気にしてくれるらしい。妖目も風丸と雅臣さんと朝日さんが地上から姿を消した今、ゆう吉の傍から離れる決断をするのは苦しい。けれど。
「妖目が……夢を追いかけているから」
ゆう吉ならば許してくれるって……思って、信じて、甘えていいならば全力で甘えて頼りたい。
「少しでも多くの人と関わって、触れ合って、知らない世界を知りたい。……多分だけど、近い将来、この町に〝風穴が開きそう〟だし」
「そうだね。結界が消えて、戦う理由や縛りつける理由がなくなって、町内と町外を自由に行き来することができたら私たちの常識や掟は簡単に壊れる。知らない世界を知らないままにしておくことはもうできない」
熾夏お姉ちゃんは否定しなかった。〝風穴を開ける〟ことができるのは現頭首である熾夏お姉ちゃんたちだから、人一倍そんな未来を考えていたのだろう。
「けどねぇ。まずは受かってからだよ」
「わ、わかってる」
「幸せになってね。絶対に」
「熾夏お姉ちゃんも」
熾夏お姉ちゃんは、黙ったまま綺麗な笑みを浮かべていた。
*
合格して、卒業して、渡米して、八年経った。陽陰町の光景に大きな変化があるようには見えないけれど、道行く人々の表情は明るいような気がして思わず微笑む。
「熾夏お姉ちゃん? 今駅に着いた。……うん、ちょっと寄ってから帰る。ゆう吉がどこにいるか知ってる?」
『勿論。今明日菜ちゃんが予想した場所だよ』
「千里眼ってそんなとこも視えるの?」
『視えてるのは弟クンと明日菜ちゃんの居場所だけ。そんなに難しく考えないで行ってみたら? 私は忙しいからもう切りま〜す』
返事をする暇もなく切られてしまう。〝私〟は溜息を吐いてバスに乗り、熾夏お姉ちゃんが言った通り心のままに自分が行きたい場所へと向かった。
バスから下りると秋の風が私を歓迎する。辺りには紅葉の絨毯ができていて、私はそこに立ちながら石畳の階段をじっと見つめた。
「いってきま〜す!」
元気な女の子の声が石畳の上から降ってくる。すぐに姿を現したその子は赤いランドセルを背負っていて、彼女は風に背中を押されているかのように一気に階段を駆け下りてきた。
(あ)
引き寄せられるように見てしまったランドセルには複数のお守りがつけられていて、その中から見覚えのある〝安産祈願〟のお守りを見つける。小学生の女の子が持つものではないと思うけれど、そのお守りは彼女を永遠に守ってくれるだろう。
「祈里! 危ないから走るな!」
次に聞こえてきた声は、私の期待を裏切らなくて。狩衣を着ているのに身軽に動いて顔を覗かせた彼は、狩衣に慣れている人だから──その漆黒の双眸に、胸が高鳴るくらいには見覚えがあるから。
「明日菜……」
ゆう吉だって、わかってしまうんだ。
「……おかえり」
私がいつ帰ってくるのか予想していたのか、ゆう吉は想像よりも驚いていなかった。
「ただいま」
キャリーケースをその場に置いて長い階段を駆け上がる。風は追い風で、風丸が私の背中も押してくれていることがわかるから──私は風丸にもまた会えたのだと胸が熱くなる。
広げた腕でゆう吉のことを抱き締めた。ゆう吉は私が抱き締めるのを待って、支えるように、全身を覆うように、抱き締め返す。
「俺、明日菜が帰ってきたら言いたいって思っていたことがあって」
「ん、何?」
「俺を、妖目結希にしてほしいんだ」
その言葉の意味がわからない私ではなかった。
「……いいの?」
高校三年生の時も、大学生だった時も、互いが互いの夢に向かって走っていた。一人じゃないってわかっていたからどこまでも遠くに走ることができた。けれど、私たちが重ねた時間はそれほど長くはなくて。ゆう吉の苗字をまた変えていいのかと九年経った今でも不安に思っている。
「明日菜しか考えられないから今言ってる」
「うん、私も、ゆう吉しか考えられない」
これを幸せと呼ばずになんと呼ぶのだろう。私は今幸せだ。
「あのさ」
「ん?」
「小倉家の蔵に置いたタイムカプセル、開けないか?」
そういえば、中学一年生の時に風丸の発案で一緒に作ったような。
「うん」
当時の私たちは手紙に何を書いたんだろう。今の私たちが過去の私たちに手紙を書くならば、互いの夢が叶ったことと幸せであることを伝えたかった。
*
二人きりの時間が欲しくて、妖目総合病院の産婦人科医になっても私は妖目家から出ることを選んだ。
二人で借りたアパートはゆう吉が昔暮らしていたアパートと比べると凄く綺麗で、妖目家やアメリカで借りていた家と比べると狭いけれど、狭いからこそゆう吉を近くに感じることができる。実家が勤務地だから妖目家で仮眠を取ることもあるけれど、私が帰るべき家は他にあるから──ここへ辿り着く為の帰り道を歩いている時は不思議な幸福感に包まれていた。
陽陰町に戻ってきて初めて迎えた春の季節──あの百鬼夜行から十年が経って、真っ暗なのに妖怪はどこにもいないからゆう吉や〝あの人たち〟が相当頑張ったことが窺える。ゆう吉は今日久しぶりに〝あの人たち〟に会っているけれど、みんな元気だろうか。
聞こえてきた足音はゆう吉のもので、彼は最初から嬉しそうな表情をしていたけれど私を視界に入れた瞬間に破顔する。
「おかえり」
みんな元気で、幸せで、今を生きているらしい。
「ただいま」
雅臣さんと朝日さんに会っていた日はそんな表情をしなかったから、ゆう吉の〝家族〟という括りの中に〝あの人たち〟がいてくれて本当に良かったと思う。
「今度は明日菜もどう?」
その〝家族〟の括りに、私もいていいのだろうか。
「〝姉さん〟たちに『なんで明日菜を連れてこなかったんだ』って怒られたんだよ」
いや、私もゆう吉の〝家族〟だ。そんな未来を風丸から貰ったから──
「行きたい」
──風丸も連れた大切な〝家族〟たちと共に、これからの未来を生きていく。
そういう生き方をする為に、私はこの町に産まれてきたんだ。
《十八名家》 家系図(2023年4月1日時点)
①百妖→半妖側の政治家
旧頭首 仁(42)
妻 ?
現頭首 仁壱(21)
②雪之原→検察官を輩出
旧頭首 雪路(55)(享年48)
旧頭首 白雪(33)
現頭首 麻露(28)
次女 ?
長女 吹雪(38)
長男 伊吹(13)
③炎竜神→暴力団:紅炎組
旧頭首 燐火(53)
旧頭首 密(31)
現頭首 依檻(27)
三女 恵(26)
次女 煌火(52)
長男 炬(28)(享年25)
④骸路成→弁護士を輩出
旧頭首 栄子(45)(享年38)
長女 真璃絵(26)
現頭首 麗夜(20)
次女 翔子(34)(享年24)
夫 アラン(34)(享年25)
妹 グロリア(26)
└ステラ(16)
長女 愛来(14)
⑤泡魚飛→歌手を輩出
旧頭首 七緒(51)(享年44)
現頭首 歌七星(24)
旧頭首 和穂(21)
旧頭首 渓(50)
長男 奏雨(30)
⑥綿之瀬→研究所の管理・研究者の輩出
旧頭首 トメ(83)
旧頭首 乙梅(56)
旧頭首 風(25)
現頭首 鈴歌(23)
長男 五道(54)(享年47)
長女 小町(31)(享年24)
養女 乾(旧姓:相豆院)(22)
養女 有愛(旧姓:ダンカン)(22)
夫 朔那(旧姓:南雲)(22)
長男 シキ(82)(享年81)
次男 イト(81)(享年69)
妻 セシル(80)(享年72)
長男 オリバー(53)(享年43)
妻 ベラ(57)(享年46)
長女 クレア(31)
└コーデリア(有愛)(22)
⑦妖目→病院の管理・医者を輩出
旧頭首 双(49)
現頭首 熾夏(23)
次女 明日菜(17)
次女 一玻(45)
旧頭首 明彦(25)
⑧首御千→教師を輩出
旧頭首 ?
旧頭首 瑠璃(53)
旧頭首 青葉(31)
現頭首 朱亜(23)
次女 ?
長女 貴美(36)
次女 ?(享年?)
長女 ?(享年?)
長男 千貴(12)
⑨猫鷺→特別救助隊の輩出
旧頭首 茉莉花(47)
旧頭首 叶渚(27)
現頭首 和夏(20)
長男 ?(享年?)
長男 真(13)
⑩相豆院→暴力団:風神組
旧頭首 咲把(51)(享年43)
夫 大志(48)
旧頭首 鬼一郎(23)
現頭首 愛果(18)
次男 翔太(18)
長男 陣悟(50)(享年39)
妻 緑(48)(享年37)
長女 乾(現姓:綿之瀬)(22)
⑪鬼寺桜→警察官を輩出
旧頭首 槐樹(52)(享年45)
旧頭首 京馬(54)
旧頭首 虎丸(28)
現頭首 椿(16)
長男 玄石(50)(享年39)
妻 天梛(50)(享年40)
長男 恭哉(現姓:芥川)(29)
⑫小白鳥→裁判所の管理・裁判官を輩出
旧頭首 涼凪(47)
旧頭首 冬乃(29)
現頭首 心春(14)
次女 ?(享年?)
長女 星乃(13)
⑬芽童神→資産家
旧頭首 与音(43)(享年37)
旧頭首 ?
現頭首 八千代(17)
長女 月夜(12)
次女 幸茶羽(12)
長男 ?(享年?)
長女 亜子(31)(享年24)
⑭白院→全私立学校の創始者・学園長
旧頭首 万緑(49)
現頭首 ヒナギク(17)
次女 スズシロ(11)
次女 千桜(48)
長男 桐也(24)(享年17)
⑮阿狐→役者を輩出
旧頭首 頼(42)(享年9)
現頭首 亜紅里(17)
長男 理樹(41)(享年18)
長男 衣良(22)
⑯結城→陰陽師側の政治家・町長
旧頭首 千秋(42)
妻 朝羽(43)
妹 朝日(42)
長男 千羽(21)(享年14)
長女 紅葉(15)
次男 ?
現頭首 涙(24)
⑰鴉貴→警察官を輩出
旧頭首 ?
旧頭首 エリス(51)(享年44)
旧頭首 蒼生(28)
現頭首 火影(15)
旧頭首 エリカ(49)
長男 輝司(28)
長男 ?(享年?)
長女 ?(享年?)
長女 翡翠(12)
⑱小倉→神社の管理・神主の輩出
現頭首 雷雲(42)
長男 風丸(17)
長女 陽縁(33)
夫 輝久(38)
長女 祈里(0)
《その他》 家系図
○芦屋
長男 雅臣(41)
妻 朝日(現姓:間宮)(42)
長男 結希(17)
長女 真菊(旧姓:?)(17)
次男 春(旧姓:末森)(16)
三男 紫苑(旧姓:末森)(16)
次女 美歩(14)
四男 多翼(旧姓:?)(11)
三女 モモ(旧姓:土御門)(9)
長女 玉依(39)(享年30)
長女 美歩(14)
○三善
長男 ?(享年?)
妻 ?(享年?)
長女 京子(36)
長男 猿秋(32)(享年25)
└花(15)
○神城
長男 珠李(45)
妻 先代スザク(享年?)
長女 千里(17)




