十 『歌うと七つの星が見える』
茜色の夕日と、ヒナギクの紅蓮の瞳が重なった。
少し前まで間近にあった半妖姿のヒナギクの瞳を思い出し、今更顔が熱くなる。周りに誰もいないことを確認して、結希は頬に手を当てた。そのまま頭に手を動かすと、微風が漆黒の髪を撫でる。
陰陽師と妖怪の存在を知らされていない生徒会役員を帰した後、ヒナギクから聞かされた話のせいで頭痛がした。
《十八名家》が陽陰町の重要機関を牛耳る代わりに、百鬼夜行が起きたその時はその身を犠牲にしてでも阻止し、町と人々を妖怪から守る。
ヒナギクの言う通りほとんどの《十八名家》がなんの力も持たない人間ならば、それは陰陽師よりも──半妖よりも酷な運命だ。思い返せば、結希の周りにいる人間は全員《十八名家》だった。
その瞬間、背筋に冷たいものが走る。
六年前に記憶をすべて失った結希は、忘れてしまった友達を全員切り捨てた。元々多くもなかったが、少なかったからこそ縁を切ったと言っても過言ではない。
また記憶を失うリスクを考えた結希は、中学に入学をしても友達を作る気はなかった。それでも、幼馴染みの明日菜や誰にでも好かれるくせに自分を気に入って話しかけてくる風丸には徐々に心を開いていった。
その二人を含んだ生徒会役員や、後輩の翔太、親戚の結城家と、家族である百妖家。
人との交流を避けてきた結希の、数少ない大切な人たちが背負っている運命に──気づけば結希は、涙を流していた。
「──!」
言葉にもならない声が出た。柔らかな茜色が目に染みる。何故か懐かしさが込み上げてくるその色は、緋色にも紅蓮にも見えて結希の全身を覆っていた。
「結希くん」
芯の通った歌うような美しい声が聞こえた途端、結希はそれを慌てて拭った。振り向くと、歌七星が買い物袋を下げて立っていた。
「……歌七星さん」
「やはり結希くんでしたか。制服が変わっていたので迷いました。随分と雰囲気が変わりますよね、それ」
歌七星は結希の群青色の制服を観察する。そんな彼女の瞳から逃れるようにそっぽを向き、結希は涙の跡を隠す。
戸籍上は姉である人に、涙を見せたくはなかった。
歌七星は真顔のまま静かに近づく。仄かなマリン系の匂いが鼻腔を擽り、それが歌七星のものだと遅れて気づいた。
「そうみたいですね」
「えぇ。昨年は愛果がその制服を着ていましたが、なかなか様になっていましたよ」
「愛果さんも生徒会だったんですか?」
「あれでも一応前生徒会長ですよ。知らなかったのですか?」
半ば呆れ気味に尋ねられる。結希は「残念ですけど」と眉を下げ、周りを見ようともしなかったかつての自分と邂逅した。
「不思議な人ですね、貴方は」
歌七星は無意識のうちに口内でそう呟いた。本当に、目の前にいる彼は不思議で掴みどころがない人だと。
「ところで、結希くんは今帰りですか?」
「あ、はい。もし良かったら一緒に帰りませんか?」
歌七星は頷いて結希の隣へと歩を進める。陽陰学園から百妖家までの道のりは、住宅街を通らなければ帰れない。買い物をしていたらしい歌七星と出会ったのは、黄昏時の住宅街だった。
「貸してください」
「はい?」
歌七星の、白く細い指から買い物袋を二つとも外す。いくら百妖家が女系といっても、結希を含めた十三人分の食料は当然重かった。
「それくらいわたくしも持てますよ」
歌七星は眉間に皺を寄せ、結希の両手に下げられている二つの買い物袋に手を伸ばす。
「別にいいじゃないですか。俺だって食べるんですし」
そんな歌七星の手から逃れて、揶揄うように先を歩いた。すると、歌七星は諦めたようにその手を下ろす。
少しでも歌七星に近づけただろうか。そんなことを考えならが歌七星を待つと、上空に例の気配を感じた。
視線を上げると、白い一反木綿がゆらゆらと漂って流れていく。
鈴歌と同じようにあれは無害だ。妖怪ならば問答無用ですべてを倒さなければならないが、そんな気にはなれなくて息を吐いた。
「……そうですよね。結希くんは、家族ですものね」
そんな一反木綿を紫色の瞳に入れて、歌七星が呟く。結希も漆黒色の瞳を動かし、気ままに漂う一反木綿を追う。
自分たちを家族として繋いだ妖怪は、そのまま風に飛ばされていった。
「いつもありがとうございます」
「俺はいつも、当たり前のことをしているだけですよ」
結希も歌七星もお互いを家族だと認識しておきながら、他人行儀な口調で言葉を交わした。
どうしても自然体になりきれずにいる理由はわかっているが、相手の理由だけがわからない。それでも、相手に理由を尋ねるほど二人は無神経な性格をしていなかった。
歌七星は結希に視線を移す。言わなかったが、先ほど見てしまった結希の泣き顔が脳裏から離れなかった。涙の跡だって、決して消えているわけではない。
──それがその結果ですか。当たり前のことをして泣いていたのですか。
感謝の言葉の中に陰陽師としての行いも混ぜていた歌七星は、ゆっくりと言葉を飲み込んだ。
「少し寄り道をしませんか?」
その代わりに、少しでも結希の荷物が軽くなるようにと提案する。不思議そうにまばたきをする結希が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ──十一歳の子供に見えた。
「いいですよ」
群青色の制服を着た不思議な雰囲気を持つ結希は、十一歳にはできない笑みを浮かべる。十七歳の結希は、先を歩き始めた七歳年上の歌七星の後ろをカルガモの子供のように歩いた。
「そういえば、最近よく会いますね」
出逢って約一ヶ月が経つが、二日連続で歌七星の姿を見たのは初日以来初めてだった。と言ってもその日は深夜と朝で、今日という日のような黄昏時に会うのは珍しい。
「少し遅れたゴールデンウィークです。仕事はゴールデンウィーク中に詰め込みましたから」
「いつまでなんですか?」
「一週間後の十七日までです。昨日は地元の祭だったので、わたくしの中では仕事のうちにも入りませんでしたけど」
その日は確か風丸の誕生日だったはずだ。歌七星と同じく火曜日になるが、小倉家に顔を出すくらいのことはしようと思う。
「ですから、その日までは毎日妖怪退治をしますよ。今まで仕事であまりできませんでしたからね」
「せっかくのゴールデンウィークなんですから、一日くらいちゃんと休んでくださいよ。歌七星さんはただでさえ休みが少ないんですから」
結希を見上げ、歌七星は首を横に振った。
「結希くんの気持ちは嬉しいです。ですが、わたくしはなるべく多く、家族の傍で戦っていたいんです。もう二度と──もう誰も、真璃絵姉さんのようにはなってほしくありませんから」
それは、歌七星の後ろ姿も語っていたことだった。
《十八名家》の宿命を知った結希の胸に、歌七星のその台詞が容赦なく突き刺さる。光を嫌って奥深くに泳ぐ魚のように、臓器を抉って侵入してくる。
「……それは、俺だって同じですよ」
先に足を止めたのは、結希ではなく歌七星だった。
「俺だって、誰も傷ついてほしくないです」
記憶を失った結希は、その前後で誰がどう傷ついたのかを知らなかった。町の制度がどう変わったのかも、知らなかった。
少なくとも結希に縁を切られた友人たちは深く傷つき、主にヒナギクへの負担が増えたのだとは思う。
「百妖家の人はきっと全員そう思ってます。前に愛果が言ってくれたんですが、一人で戦っているわけではないんですよ。愛果の姉の歌七星さんが周りに頼らないで戦ってどうするんですか」
歌七星はどうしても振り向けなかった。
幼くして重いものを背負わされた結果、我が道を行くようになった氷の長女。
長女から強い影響を受けた結果、相反するように家族を温め続ける炎の次女。
対極の二人を繋ぎ止めるように穏やかに笑い、ドジばかりしていた骸の三女。
そんな三人の影響を幼い頃から一番強く受けていた歌七星は、自分勝手で危なっかしい姉三人のストッパーとしての役割を引き受けていた。
常に冷静で物事を誰よりも考え、臨機応変に姉三人の尻拭いをする水の四女。
それはずっと歌七星の役割で、誰にも頼らずにたった一人でやって来たことだった。気づけば多くの妹たちもできて、それは余計に歌七星に冷静さを強要させる。
真璃絵が眠り続ける今は麻露も依檻も行動を自制しているが、歌七星の役割は昔から何も変わっていなかった。
「歌七星さんは俺たちを信じて、休む時は休んでください。俺たちだって毎日交代して妖怪退治をしてるんですから」
歌七星は先月まで赤の他人だった結希の言葉を飲み込んで、俯いた。
麻露から同居人が来るという話を聞いた時。見ず知らずの青年が自分の家の脱衣場にいた時。義弟の結希が大好きな真璃絵の命の恩人だと気づいた時。
そんな彼が、自分の命よりも大切な姉妹を守って結界まで張ったと知らされた時──。
その日その日を、記憶力のいい歌七星はよく覚えていた。
「それに、俺が必ず守りますよ。俺は陰陽師ですし、なによりも百妖家の長男ですから」
半ば自分自身に言い聞かせるように結希は歌七星にそう告げた。
歌七星はついに抑えられなくなり、踵を返して買い物袋を持つ結希の腕を強く引っ張る。
「歌七星さん?」
「急ぎましょう。ここでは人目につきますから」
「人目につくって……ちょっ、え!? どこに行くんですか!?」
結希の方を見もせずに、歌七星は早歩きで住宅街の景色を変えた。地平線の茜色が、群青色にじんわりと侵食されていく。
歌七星は、すぐ傍にあった小さな公園に結希を連れていった。時間帯のせいか、遊ぶ子供も見守る大人も微睡む老人も動物もいない。そこには、錆びれた寂しげな遊具だけがぽつんと存在していた。
「ここです」
歌七星は振り向き様に結希の顔に何かを投げた。
パシャッと水の音がして、冷たいそれが頬を滴る。
「冷たっ! ……何をするんですか」
目元を拭い歌七星を見れば、歌七星は周囲に複数の水の玉を浮かばせていた。歌七星が結希に投げるように飛ばしたのは、その中の一つのようだ。
「ちょっとした水遊びです」
そして歌七星は、もう一つを自分にも浴びせた。紫色の髪に浴びせられた水は、茜色に照らされて光る。
歌七星は俯いていた顔を上げた。泣いているような表情をしているが、自分自身に浴びせた水のせいで頬に流れるそれが涙なのかわからなかった。
「…………」
結希は歌七星の表情をまじまじと眺め、視線を逸らした。
歌七星は何事もなかったかのように水の玉を何個か飛ばす。それはパシャッ、パシャッと結希に当たり、水が制服までもを濡らしていった。
いくら五月の気温とはいえ、日が沈みかければ風は冷たい。結希は二つの買い物袋を無言で下ろした。
「……いいですよ。やりましょうか」
口角を上げて笑い、水道まで走って蛇口を捻る。水が勢い良く溢れ出して飛び跳ねた。制服から札を取り出した結希は、それを水に浸して札を構えた。
「遠慮なく来てください、結希くん」
「いきます!」
術を唱え、札から滝のような勢いのある水を吐き出させる。歌七星は避けることなく、そんな水を華奢な体で受け止めた。
「意外とやりますね」
歌七星も結希と同じように、口角を上げて笑っていた。人ではない力を使って〝水遊び〟をする二人は、人気のない公園で何度も何度も水をかけ合った。
涙を隠すように。傷を消すように。力を許すように。……何よりも、水に流すように。
日が暮れるまで、何度でもそれは続いていた。
*
歌七星と結希は服に含まれた水を絞った。五月の風が、全身濡れている二人を冷やす。
「……少しやり過ぎてしまいましたね」
濡れた黒ジャケットを脱いだ歌七星は、被害の少ない白シャツ姿に。濡れた白いブレザーを脱いだ結希も、同じく被害の少ない白シャツに黒ベスト姿になった。
言葉にできない何かを晴らす為に始めた単なる〝遊び〟だったが、普段の冷静さが欠けていた二人はいつの間にか本気で遊んでいたらしい。
「でも、意外と楽しかったです」
イタズラをしたかのような表情で結希は笑った。
住宅街にある人気のない公園で自分の力を使ったことも、ましてやそれを遊びに使ったこともなかった結希にとって、それはイタズラ同然だった。
「それは…………そうですね、わたくしも認めます」
歌七星は大きく咳払いをして、次の瞬間本物のくしゃみをした。
「このままだと風邪を引いてしまいますね」
結希は、歌七星から見て不自然にならないように僅かに視線を逸らして告げる。
ブレザーに入れていた札はすべて濡れてしまい、使い物にならなくなってしまった。手元にあるのは、学校指定のスクールバッグに入れていた予備の札だけ。結希はそれを取り出して、歌七星の背中に一枚、持っていた黒いジャケットに一枚貼りつけた。
「結希くん?」
「動かないでください」
身動ぎをした歌七星の両肩を掴み、彼女が動きを止めるのを待つ。歌七星は肩から手が離れた後も微動だにせずに結希をただ見上げていた。
結希は歌七星の目の前で両手を使い、印を結ぶ。次の瞬間、先ほどまで濡れていたのが嘘のように歌七星の全身とジャケットが乾いた。
「これは……」
「冷えますよ」
ジャケットを指差すと、慌てた歌七星は素早くそれに腕を通した。
「ありがとうございます。ですが、このままでは結希くんも風邪を引いてしまいますよ」
先ほど見上げた時に確認したが、漆黒の髪や、自分と同じように透けているシャツを肌に張りつけている結希の〝跡〟は消えていた。多分、髪と同じ色をしている漆黒の瞳に映る自分のそれも消えているだろう。
「早く乾かして帰りましょう。今の結希くんの隣を歩きたくはありませんから」
腕を組みそっぽを向く歌七星は、姉のように少し自分勝手な言い方をしたと思った。そして、冷えていた体が熱くなってきたのは術のせいだと言い訳をする。
結希はブレザーを着て自分の体にも札を張った。濡れてしまうとわかっていたなら、緋色の一般制服を学校に置きっぱなしにはしなかったのに。
印を結ぶと、気持ち悪かった湿った感触が消えていった。
「これなら歩けますか?」
冗談に冗談を返すように。結希が笑うと歌七星は渋々頷いた。
「えぇ。結希くんは、魔法使いみたいですね」
「そうですか? 陰陽師と魔法使いは全然違いますよ?」
「ですが、水を出したり服を乾かしたりすることができます。結希くんにできないことはないんじゃないですか?」
「まさか。それは買いかぶりですよ」
苦笑した結希は放置していた買い物袋を手に持った。歌七星は言葉を続けようとして、止める。これ以上は話せない。言わなくていいことまで話してしまいそうだから。
「やはりわたくしも一つ持ちますよ」
「いいですよ、別に」
「結希くんは買い物袋もスクールバッグも持っているじゃありませんか」
歩き出す結希に追いつこうとして、歌七星は小走りで駆け寄った。
「一つくらい持たせてください」
そして結希の行く手を阻む。それは、絶対に譲れませんと今にも言いそうな表情で──
「絶対に譲れませんからね」
──予想通りの台詞を歌七星が言うものだから、結希はつい吹き出してしまった。
「なっ、何故笑うのですかっ!」
「すみませんなんでもないです」
「その言い方は何かある証拠ですよ!」
「いえいえ本当になんでもないです」
結希は口元を隠すように手をあてがい、俯き加減に肩を小刻みに震わせる。前髪の隙間から見えてしまった歌七星の、彼女にしては珍しい頬を赤らめながら怒るという姿が余計にそうさせていた。
「もうっ、いい加減にしてください!」
ぴしっと額に痛みが走る。鋭いデコピンをした歌七星は、子供を叱る親のような目で結希のことを見上げていた。
目を合わせると、歌七星は眉間に皺を寄せる。結希が子供ではないことは、目を見れば嫌でもわかってしまうから。
「すみません、つい」
「ついではありませんよ」
「反省してます。それじゃあ、お願いします」
場を紛らわす為に軽めの言い方をして、結希は軽い方の買い物袋を歌七星に渡した。
「えぇ」
夜の公園に星が瞬く。
二人が公園を出てしばらく歩くと、人気がある道路に出た。住宅街を抜ければ百妖家まであと少しだ。デパートや駅を結ぶ大きなコンクリート製の道路の、森がある方面の脇道に逸れて上っていけば辿り着ける。
七つの星が見える今夜、街頭が二人の影を伸ばしていた。
*
幻術を解く。
熾夏は去っていく二人の背中を見つめながら、短くため息をついた。白昼堂々──ではないが、人気がないとはいえ無闇に力を使った二人に呆れる。
それでも仕方がなかったと、ある程度の理解はしていた。
二人の心を視た熾夏は、だからこそ二人を止めることはせずに、公園に幻術を張って周囲から隠していた。
「……楽しそうだったなぁ」
ぽつりと呟いてみる。
二人を隠したように、町中で幻術を使うことは簡単だ。それでもあんな風に遊べるとは限らない。
熾夏は無意識のうちに、指で右目の眼帯を啄いた。
──帰ろう、家に。化け物のみが集う、この町で一番温かい我が家に。
熾夏は白衣を翻す。今日の夕飯はオムライスだ。千里眼で買い物袋の中身を視たからわかる。
ご飯は誰が作るのだろう。麻露がまだ神社で仕事をしているから、消去法で歌七星だろうか。
舌で唇を軽く舐める。歌七星の手料理は何年ぶりだろう。真璃絵が意識不明となってからは一度も食べたことがない。
「ふふん〜ふんふん〜ふふふふん〜♪」
楽しみ過ぎて鼻唄混じりに熾夏は歩いた。歌七星の手料理は麻露よりも美味しいというわけではない。
単純に、歌七星が作るという事実が熾夏の幸福だったのだ。




