十九 『その時に』
「卒業生の皆さま、ご卒業おめでとうございます」
一年前、椿と翔太の入学式が行われた第一体育館にヒナギクの声が響き渡る。送辞を読む現生徒会長の彼女は真っ直ぐに前を向いており、用意しているはずの用紙を見る素振りは一切しなかった。
「二年前、私は陽陰学園高等部に入学しました。私は学園長である白院・N・万緑の娘として、そして、白院家の次期頭首として、模範的な生徒でなければいけないと感じていました。そうすることが白院家の次期頭首として生まれた者の責務だと、私を次期頭首として守り育ててくれた人々に対する恩返しだと思っていました」
演台の前に立っているのは本当にヒナギクなのだろうか。ヒナギクは《十八名家》以外の人々の前で自分の家や責務の話をする少女ではないから──思わず隣に座っている亜紅里と視線を交わしてしまう。
「私の従兄である桐也は七年前、この町を襲った災害で陽陰学園の生徒会役員としての務めを果たして亡くなりました」
戸惑うのは結希と亜紅里だけではなかった。この場にいる卒業生、在校生、教員、保護者、そして来賓のほとんどがあの日の桐也の放送を聞いている。桐也が町民を守る為にあの場に残り続けて亡くなったことを知っているから──彼の従妹であるヒナギクの送辞に悲惨な色を感じていた。
「私にとって陽陰学園は、母の城であると同時に従兄が命を落とした場所です。それを思い出さないように、そして、皆さまの期待を裏切らないようにしなければいけない。生徒会でも、体育祭でも、文化祭でも──私は白院家の次期頭首だから、どの代よりも完璧なものにしなければいけない。未熟者であることは許されないと感じていましたが、一年生の私は、右も左もわからずすぐに途方に暮れてしまいました」
ヒナギクが入学式で新入生代表挨拶をした時から、結希はヒナギクのことを知っている。一年生だったにも関わらずどの行事にも中心人物として参加していた彼女が途方に暮れていた記憶はなかった。
「そんな時に私を助けてくださったのが先輩方でした。私は、『わからなくて当然だ』と温かい言葉をかけてくださった先輩方に多くのことを教わりました。私は私が思っていた以上に未熟者で、私が思っていた以上に皆さまに──いえ、先輩方には期待されていないのだと感じました」
そんなことを言いながらもヒナギクは嬉しそうに微笑んでいる。
「先輩方の前でだけ、ほんの少し、肩の荷を下ろすことができました。それでも当時は自分のことで精一杯で、気づくことが遅れてしまい申し訳ございません。今の私は白院家の現頭首ですが、今でも私は一人では何も成し遂げることができません。あの時は、先輩方のおかげですべて成功させることができました。本当に──ありがとうございました」
ヒナギクが深く深く頭を下げる。
「陽陰学園も、桐也が亡くなった場所ではなく、先輩方との思い出が溢れる思い出の場所になりました」
頭を下げたまま、深い深い礼を告げる。
二年前のヒナギクが何を抱えていたのか知っている二年生は一人もいないだろう。ヒナギクはヒナギク自身が言う通り、同級生よりも上級生と共に過ごすことが多かったのだ。一年生だった時の結希は二年生や三年生に囲まれながら学園を走り回る彼女を見て、〝住む世界が違う〟と感じていたから──この一年はまるで夢を見ているようだった。
「私は先輩方から貰ったものを決して忘れません。私にとって先輩方はとても素晴らしい先輩方です。我々《十八名家》はこの町が少しでも生きやすい町になるように努力をします、もし先輩方がこれからもこの町で暮らしてくださるならば──私は、この町で輝く先輩方が見たいです。私はいつか陽陰学園の学園長や陽陰大学の学長の座につくでしょう。先輩方のお子さまがこの町の私立の学校に入学する時にまた会えたら嬉しいです」
再び顔を見せたヒナギクは、また、笑っていた。
「二〇二三年三月九日。在校生代表、白院・N・ヒナギク」
再び頭を下げてヒナギクが演台から離れると、「続きまして、卒業生答辞」という青葉の声が聞こえてくる。
「卒業生代表、相豆院愛果」
愛果も、教員席にいる依檻も、在校生の席にいる亜紅里や椿も今月から苗字を元に戻している。結希は来月から芦屋の姓を名乗ることになっているが、雅臣の処遇はまだ決まっていなかった。
「えっ?!」
うるさく驚いたのは亜紅里だけではない。第一体育館にいる全員が前へ出る愛果を見て控えめとは決して言えない声を出す。まだ壇上にいるヒナギクでさえ、正面に立った愛果を固まったまま眺めていた。
「ほら、さっさと退きな。主役はウチなんだけど?」
驚くほど相変わらずな態度の愛果だったが、演台の前に立った愛果は誰もが知っている愛果ではない。
愛果の髪色が、染められた金色ではなく──相豆院家の血を引く者ならば誰もが持っている胡桃色になっていたからだ。
──彼女が、相豆院家の現頭首。
そのことは既に、《十八名家》以外の人々も知っている。第一体育館を見渡す彼女は、本当に翔太によく似ていた。
すべてが元に戻ったのだ。いつもの山吹色のパーカーを脱いで、千里のように一切制服を着崩さず──と言ってもスカートは短いままだったが、背筋を伸ばして堂々としている愛果を見ているとそう思う。既に言葉を発している時点で中身はいつも通りだとわかっていても、愛果はお淑やかな少女に見えた。
「ヒナギク、送辞ありがとう」
それは本当に外見だけで、口を開けば学園一の不良として恐れられていた愛果が姿を現す。愛果が答辞を任されたのは前生徒会長だからで、相豆院家の現頭首でもあるからだった。
「ご来賓の皆さまも、ありがとうございます」
愛果の中身を知っている結希は愛果ほど答辞を読むのに相応しい人間はいないと思っているが、ようやく敬語を使ってくれてほっとする。昨年度この場で送辞を読んだ愛果は、ヒナギクとは違って一度も敬語を使わなかったのだ。
「正直、〝私〟には陽陰学園の思い出があまりありません。不良は学校をサボるものだと思っていたからです」
いきなり何を言っているのだろう。ヒナギクも人々を戸惑わせる送辞を読んだが、ヒナギク以上に人々を戸惑わせる答辞だった。
「私が不良になろうと思ったのは、七年前の災害で自分の弱さを思い知ったからです。当時の私にとって、不良は強さの象徴に見えました」
愛果には愛果の傷がある。彼女は一切笑っておらず、すべてを忘れている結希は唾を飲み込んだ。
「私は、今までの私を否定するつもりはありません。ただ、この一年色々と行事に参加するようになってからもったいないことをした、とは感じました。体育祭、修学旅行、文化祭、どれも最高の思い出です。最後の一年で多くの思い出を作ることができたのは、私の家族、そして三年生のみんなのおかげだと思っています。本当にありがとうございます」
愛果も深々と頭を下げる。演台の前に立っているのは学園一の不良の愛果ではない。相豆院家の現頭首もなく──ただ一人の何者でもない相豆院愛果という名の少女だった。
「みんなにも、先生方にも、三年間ずっとご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。私のことをどう思っていたのかは知りませんが、私が今ここに立っているのはここにいる皆さまのおかげです。本当に、本当に、今までありがとうございました」
愛果の声は真っ直ぐで、心からそう思っていることが伝わってくる。
第一体育館がざわめいていたのは一瞬で、今は、卒業生の席から啜り泣く声が聞こえていた。
「私たちはこれからそれぞれの進路に進みます。私は陽陰大学に進学して、自分が学びたいと思ったことを学びます。昨年自分が百妖家の人間ではなく相豆院家の人間だと姉から聞かされた時は悲しくて仕方がありませんでしたが、相豆院家の人間だと聞かされて腑に落ちた自分もいました。実際、この式が始まる前に会ったみんなからは『相豆院家っぽい』と言われています。相豆院家の現頭首となり、《風神組》の組長となり、一時期は進学を諦めようと思っていました。大学に入って何を学んだとしても、私は《風神組》の組長だから──したいことを思うがままにすることはできないと思ったのです」
裁判官にならずに医者になった冬乃や、消防官でありながら《猫の家》で働いている叶渚もいる。だが、愛果は半妖だ。半妖の人間は一人残らず家業を継いでいるから愛果がそう思うのも無理はないような気がした。
「ですが、《十八名家》はこれから必ず変わっていきます。変えていくと誓います。なので──《風神組》の組長だからと、夢を諦めるようなことをしたくない。私は私が十七年共に生きてきた姉と共に《十八名家》とこの町を変えながら、自分の夢を追い続けていきます。相豆院家の現頭首の座を兄の鬼一郎に戻そうと思っていた時期もありましたが、絶対に、戻しません。弟の翔太にも譲りません」
「ちょっとバカ愛果! 何言ってんのボクが弟だっていつ決まったのさ! ふざけたこと言わないでよねぇ!」
「うっさいバカ翔太! ウチが先に卒業するんだからウチが姉なの!」
「そんなわけないでしょずっと相豆院家の人間だったボクが兄なの!」
愛果がそんなことを考えていたなんて、と切なく思う時間はまったくなかった。一瞬にして空気を破壊した翔太は立ち上がり、在校生の席から愛果に喧嘩をふっかけて。壇上の愛果はその喧嘩をあっさりと買う。
「やめなさい二人とも!」
青葉からマイクを奪った依檻の怒声が破壊したのは、第一体育館に集った全員の鼓膜だった。
教師であり《紅炎組》の組長でもある彼女にそう言われてあっさりとやめる《風神組》の二人ではない。そう思っていたが──二人は渋々とではあったが喧嘩をやめる。
「ええっと、ウチのバカな身内がバカですみません。とにかく、私は《風神組》の組長っていう肩書きが嫌で、ていうか《風神組》にも入りたくなかったんですけど、そんな私だからこそ《風神組》の組長でありながら大学生やって、大学卒業したら組長でありながら別の仕事をするみたいな、そんな生き方ができるんじゃないかなって思ってて、みんなにもなんか色々と諦めてほしくないっていうか……えっと、とにかくこれからも一緒に頑張ろう! よろしく! 以上! 二〇二三年三月九日、卒業生代表、相豆院愛果!」
早口でそう告げた愛果は、マイクを置いて壇上から下りていった。最初は形になっていたが、最後の最後で去年の送辞のようになってしまって。人はそんなにすぐ変わらないのだと実感する。
「くひひっ、なんか最後〝夜露死苦〟みたいなノリだったよね」
「いや……多分〝夜露死苦〟って言いたかったんだと思う」
愛果の跡を継ぐ不良は、少なくとも翔太がいる間は現れないだろう。それが少しだけ寂しいような気がして、学園一の問題児だった彼女の卒業を複雑そうな表情で迎えた教師たちの姿と──寂しそうに微笑む依檻の姿を視界に入れた。
*
『結希君、卒業式はもう終わった?』
「終わったよ」
卒業式が終わり、愛果たち卒業生を見送った結希に電話をかけてきたのは朝日だった。
同居を断ってから朝日と話すのは初めてで、結希は少しだけ気まずく思いながらもそれを表に出さないように努力する。
『……良かった。雅臣のことなんだけどね』
どうやらその処遇が決まったらしい。
結希は「それで」と急かしながらも、思わず視線を落としてしまった。
『地下都市に十年幽閉するそうよ』
それさえも、とてつもなく優しい罰だと思う。
『地下都市は水も電気も通ってる。食料は当分の間は非常食で、畑で自給自足をさせるらしいわ。時々陽の光を浴びせる為に外に出して、その時に米や肉を渡すって』
本当に優しくされている。町を半分破壊した鬼の封印を解いたのに。
「……わかった」
優しくされているから、真菊たちの心もこれで救われるのだろう。つい校舎裏まで来てしまった結希は、誰も見てないことをいいことにしゃがんで深い息を吐いた。
『それでね、私も地下で暮らそうと思うの』
「……なんで」
『雅臣とやり直そうと思って。結希君が断ったからじゃないわよ?』
「…………別に、定期的に会えば」
『会いたくないのよ。あの老害たちに』
「っ」
『十年経ったらさすがに全員死ぬでしょう? その時を待つわ。その時に──結希君や麻露ちゃんたちが変えた世界を見せてちょうだい』
「……………………わかった」
結希は雅臣の罪を軽くしろとは言えない。朝日に行くなとも言えない。
涙は何故出てきたのだろう。雅臣のことは数ヶ月前に知ったばかりで、朝日と一緒に暮らしたくないと言ったのに。会いに行こうと思えば会いに行けるはずなのに。
自分たち親子はどこで間違えてしまったのだろう。
人間と妖怪の争いが終わったのは、間違いなく雅臣と朝日が出逢ってそれぞれの道を歩いたからだ。
雅臣が選んだ道、朝日が選んだ道、そして二人から生まれた結希が選んだ道がなければ掴めなかった今だという自覚があるから、どうしても、二人には幸せになってほしかった。




