十七 『祈り』
「みんな……」
不安そうな表情で駆け寄ってきたのは八千代だ。八千代は結希を見、ヒナギクを見、亜紅里と明日菜を見て唇を結ぶ。
「八千代……風丸が……」
八千代には言わなければならなかった。知ってもらわなければならなかった。
「……うん」
八千代は結希と明日菜の表情で既に察している。相槌を打ってばかりの彼は最後に視線を落としたが、出てきた言葉は「大丈夫?」だった。
何故そんな言葉が出てくるのだろう。八千代も風丸と仲が良かったはずなのに。結希がヒナギクや亜紅里と行動を共にすることが多い中で、八千代が行動を共にすることが多かったのが同性の風丸や同じクラスの明日菜だったから──八千代も大丈夫ではないはずなのに。
「ヒナちゃんも、亜紅里ちゃんも、明日菜ちゃんも」
「大丈夫じゃない」
何も言えない結希の代わりに答えたのは、ヒナギクや亜紅里と比べると口数がそれほど多くない明日菜だ。
「大丈夫なわけない、けど……風丸がそこにいるの、わかるから……」
《伝説の巫女》である明日菜は風丸の気配がわかるのだろう。結希の手を握り締め、結希の目を見つめ。
「みんなで笑い合ってたら、『薄情者』って言いに来るかも」
そう言っている様を容易に想像できるからか、泣き腫らした顔で笑みを浮かべた。
「そうだな」
本当によくそう言っていたから、声が聞こえて来なくても強風が襲いかかって来そうで結希も笑った。
「副会長、亜紅里、明日菜、八千代。新年度が始まったらすぐに引き継ぎになるだろうが……生徒会でなくても共にいてくれるか」
風丸を呼ぶ為には全員が揃っている必要がある。生徒会でなくても、クラスが変わってしまっても、ヒナギクに会わなくなる学校生活は考えられなかったが──ヒナギクは不安だったようだ。
初めて会った頃のヒナギクは、親しみやすさが欠片もない高貴な人間そのものだった。百妖家に馴染んでいなかった結希も明日菜や風丸以外には微妙に壁を作っており、転校生として遅れて陽陰学園の生徒になった亜紅里は自分の正体を隠しており、暇さえあれば医学書を読んでいた明日菜も今のように柔らかい空気を出さなかった。
「何言ってんのヒーちゃん。あたしの友達はヒーちゃんとアッスーとせっちゃんだけなんだから、一緒じゃなくなるわけないじゃん」
自分たちの間で特別な何かが起きたわけではない。それでもいつの間にか百妖家や小倉家に泊まれるくらいの仲にはなっていて。
「結希君、その……僕と友達になってくれる?」
「っ」
風丸は親友で、明日菜は幼馴染みで、ヒナギクはパートナーで、亜紅里は相棒で、八千代のことを友達と呼んでもいいのかと胸が熱くなる。
「そこも何言ってんの?! 二人はずっと前から友達でしょ!」
風丸や明日菜にしていたように、何度も手を離してから友達になったわけではない。千里のようにかけがえのない存在だと認識したわけでもないが、亜紅里から見た結希と八千代はずっとずっと友達だったようだ。
「友達に……なってほしい」
《十八名家》芽童神家の現頭首である八千代を友達と呼べる日が来るなんて、一年前は想像さえしなかった。
《十八名家》のほとんどの家の現頭首を家族と呼んでいる今それは決して不自然なことではなかったが、各家の旧頭首やその親族が桜の木の下に集っている今、ここにいてもいいのだと思えて脱力する。彼女たちには無防備な姿を見せてもいいのだと心の底から安心していた。
「結希くん」
それでも、彼の前では背筋を伸ばしてしまう。結希に声をかけたのは、陰陽師と共に陽陰学園に移動していた千秋だった。
「朝日くんも。芦屋くんがどこにおるのか知っておるかのぅ?」
「──ッ」
千秋は人々を不安にさせないようにどんな時でも笑っているが、今だけは微笑もうとしてくれない。結希は咄嗟に半妖の先代である旧頭首たちへと視線を移し、そこにククリがいないことを確認する。
「万緑さんたちが知っておるのか?」
「あっ、いえ……」
「私が知っているわ」
朝日は、結希も知っているとは言わなかった。
「けど、居場所を教えることはできない」
朝日は雅臣が一生間宮家の式神の家にいればいいと思っている。居場所を教えても、教えなくても、朝日だけが知っているならば間宮家の式神の家だと簡単に推測されそうで。千秋に逆らっているのだからまた陰陽師を裏切ったと言われてしまうかもしれないのに──朝日は雅臣と結希を臆することなく庇っていた。
「何故かのぅ」
千秋は朝日の義兄だが、朝日へと送った視線はかつての涙のように温もりのない視線で。
「情が湧いているだけよ。みんなには悪いと思っているけれど、私は雅臣を死なせたくないから」
朝日が千秋に送った視線には闘志が宿っていた。
「もう殺すと決めたのですか」
口を挟んだ万緑は朝日のことも雅臣のことも知っているらしい。双が傍にいるからだろうか。
「まさか。ただ、無罪放免というわけにもいかぬからのぅ」
六年前の百鬼夜行に雅臣や亜紅里は関わっていなかったが、樒御前に陽陰町を襲わせた張本人である事実は消えない。結希が百鬼夜行を止めようとした際に妨害されたことを話せば、雅臣の罪はさらに重くなるだろう。
「それを言うなら他の陰陽師だって無罪じゃないわ」
黙っていれば幸せに生きることができたかもしれないのに、真菊は口を挟んでしまう。真菊はずる賢い人間ではない、真菊は結希が心配になってしまうほどに真っ直ぐな心を持った人間なのだ。
真っ直ぐだから、真菊は雅臣に拾われた日から雅臣の為に生きてきた。真っ直ぐだから、妖怪だけが悪いと思わず人間も悪かったと思うことができたのだ。
「父さんは陰陽師に酷いことを言われたんでしょう? 酷いことを言われなかったら鬼の封印を解かなかったんだから、父さんに罰を与えるなら陰陽師にも何かしらの罰を与えるべきよ」
結希はそれが不可能に近いことを理解している。妖怪関連の出来事はすべて法で裁くことができないから──雅臣を法で裁くこともできないはずだとも思っている。
「…………」
ここに来て初めて千秋が真菊を認識した。陽陰町の町長として、そして当時の陰陽師の王として真菊を雅臣よりも先に保護できなかった彼はどういう思いで真菊を見ているのだろう。
「父さんが無罪だとは言わない。私も罰を受けろと言われたら当然受ける。けど、父さんだけが悪いって結論になることだけは許さないから」
結希は多分雅臣の子供にはなれなかった。結希よりも真菊の方が雅臣の子供らしい。そういう意味では、雅臣が千秋よりも先に真菊を保護したこと。真菊が雅臣を選んだことは運命のように思えた。
「芦屋くん以外の陰陽師は罰せぬ。この町の結界を破り続けた君たち与える罰もない」
「どうしてよ!」
「芦屋くんと朝日くんが彼らを侮辱罪で訴えるならば話は別であるがの。そして、君たちは本来我らが保護すべき子供たちであった。我らが保護できず君たちの人生を狂わせてしまったこと、此度の戦で大妖怪である樒御前を倒し、百鬼夜行では結希くんと共に戦ってくれたこと──それだけで君たちの罪は消える」
「っ」
真菊が歯を食い縛る。真菊たちだけは庇うつもりでいた結希はほっと息を吐いたが、千秋の意思でこうも簡単に罪の有無が決まるのだとしたら、雅臣はどうなってしまうのだろうと息を止めた。
「万緑さん。芦屋くんの件は我ら陰陽師が引き受けても良いだろうか」
「芦屋雅臣は陰陽師です。結城家以外の《十八名家》が口を出すことではありません」
「感謝する。朝日くん、結希くん、そして真菊くんたちも。これは今すぐに決まることではないが、そういうことであるから──どうか、芦屋くんを庇うなよ」
雅臣を庇ったら朝日も結希も芦屋義兄弟たちも無事では済まないだろう。それを聞いて黙るのは結希だけだが「殺すことだけは絶対にせぬからの」と保証され、これにもほっと息を吐いてしまったのは事実だった。
雅臣に死んでほしいわけではない。千秋も、命を奪う者になるつもりもさせるつもりもないからそう言っている。
これで朝日が千秋に逆らう理由がなくなった。真菊もこれ以上は望めないとわかっているのか千秋に噛みつくことはしなかった。
「では、次はこの町だな」
千秋は今でもこの町の町長だ。陽陰学園の学園長である万緑にできないこと、研究所の所長である乙梅にできないこと、《紅炎組》の元組長である燐火にできないこと、陽陰大学の教授である瑠璃にできないこと、妖目総合病院の院長である双にできないこと、陽陰消防署の消防司監である茉莉花にできないこと、地方裁判所の裁判官である涼凪にできないことができる人間だから、陽陰学園から町役場まで戻ってきたのだろう。
「月夜、幸茶羽、ヒナギク、来い」
乾は千秋の意図を理解していた。アリアは既に乾の隣におり、察した三人は彼女たちと共に町役場の中へと戻っていく。
「結希さん」
次に結希に声をかけたのは千秋ではなかった。だが、結希も、千秋も、朝日も、その人物のことをよく知っている。どんな時でも狩衣を着ている雷雲も、八千代と同じくこの地で何が起きたのかを理解していた。
「風丸のこと、今までありがとうございました」
雷雲から頭を下げられることではない。守れなかったと言うのは違うのかもしれないが、息子を亡くしたも同然の雷雲になんて言えばいいのかわからなかった。
「明日菜さんも。ヒナギクさんも、亜紅里さんも、八千代さんも、ありがとうございました」
笑いたいのにそんなことを言われたらまた泣きそうになってしまう。鼻を啜ったのは結希だけではなかった。
「あの、雷雲さん、陽縁さんは……」
明日菜は何を気にしているのだろう。明日菜が泣きそうになっているのは、風丸が理由ではないような気がした。
「無事に産まれました。明日菜さんのお守りのおかげで風丸が助けてくれたんです」
「うっ、産まれ?! え、おめでとうございます!」
雷雲に祝いの言葉を送るのは自分たちだけではない。風丸が雷雲の実子ではないのだ、雷雲や陽縁には想像も絶するほどの圧力があったはずで、だからこそ無事に産まれたとわかった時の祝福の声は凄まじい。
「ありがとうございます」
一人一人に礼を告げていたら日が暮れてしまう。それくらいすべての《十八名家》が待ち望んでいたのが──
「名は小倉祈里。女の子です」
──小倉家の、現時点でたった一人だけしかいない次期頭首だった。
「すみませんが、そろそろ家に戻ります。入院の準備をしていなかったので」
雷雲は再び深々と頭を下げ、小倉家へと足を向ける直前で結希と結希の傍にいた者にだけに聞こえる声量でこう告げる。
「結希さん、陽陰大学には神学部があるんです」
「え?」
「……急にすみません。ただ、受験勉強があると思うので早めに言っておこうと思いまして」
「な、何をですか?」
受験のことを言われると急に胃が痛くなってくる。試験が来週辺りにある愛果は既に青い顔をしており、自分も絶対にあぁなると想像したところで──
「そこで勉強をすれば風丸神社の神主になれます。もしよろしければ、結希さんには私の跡を継いでほしいんです」
──まったく想像していなかった道が急に現れた感覚に陥った。
「返事は聞きません。これは私の願望ですから」
今度こそ本当に小倉家へと向かう雷雲の背中を無言で見送る。
ずっと、風丸神社の神主には風丸がなるものだと思っていた。風丸は土地神で、明日菜は《伝説の巫女》で、雷雲から誘われても誘われなくても百鬼夜行を二度も終焉へと導いた結希のこれからの人生にも妖怪は深く関わってくる。雷雲の誘いは結希にとってかなり衝撃的だったが、狩衣を着てあの神社に立っている自分を想像することは──《カラス隊》の隊服を着てオフィス街を歩く自分よりも容易に想像することができた。




