十六 『茨の道の一歩』
風丸のことを感謝こそすれ、恨むつもりはない。私たちがもう二度と会えなくて、そのせいで私の寿命の四分の一がどうやったって返ってこなくても──構わない。
すべてが終わったんだという実感がようやく湧いてきて、泣きじゃくる結希と明日菜ちゃんの声がようやく聞こえてきて、気がつけば寄り添いあっていた私たちの鼓動は一つになったのではないかと思えるほどに同じタイミングで動いていて、離れたくないと強く思う。
肌の下に流れている赤い血に違いなんてないけれど、ここにいるほとんど全員の血は繋がってなくて。本来は家族と呼べるような関係でもなくて。なのに血の繋がった家族よりも一緒にいると安心するから、もっと一緒にいたいと強く思う。
けれど、何をどれほど強く願ったって一つも叶わないことは最初からわかっていることだった。
私たちには目もくれず妖怪を眺めている朝日さんが養母をやめたように。信じていたシロ姉が私たちに血の繋がりなんてないと吐いたように。私の願いはいつも叶わないから。
だから私は、みんながこうして生きていてくれたらそれ以上は何も望まない。寿命も、永遠も、要らないから──後悔をしないように今ここにある幸福を大切にしようと思う。
「────」
そんな私を祝福するように風が吹いた。温かいそれは長い間冷たく凍っていたこの世界を溶かすようで、闇も雲も、簡単に吹き飛ばしていくから太陽が陽陰町全体を照らす。
「……かぜ、まる……っ」
彼の名前を呼んだ結希も、この風が土地神様──風丸からの贈り物だって気づいたようだ。この町の土地神様は大地ではなく風に宿るから、風がこの世界にある限り私たちはいつまでも彼を思い出すだろう。
「結希、明日菜。辛いだろうが、これから先も風丸は私たちの傍にいる。私たちがどんなに嫌だと思ってもな」
ヒナギクもそのことに気づいていた。あぐちゃんは、呆然と桜を──風と共に舞う桜吹雪を眺めていた。
私は力を振り絞って、そんな愛しい愛しい教え子たちから離れる。町役場の屋上に下りてきたのはタマちゃんで、その中にいたのは──
「かなちゃん」
──妖怪の気配がする大切な妹のかなちゃんだった。
かなちゃんの姿は半妖の頃と全然変わっていない。琥珀色に輝く瞳もタマちゃんやママちゃんとは違う半妖のままで、それが優しく私を捉える。
「依檻姉さん」
姉らしいことなんてかなちゃんには一つもしてあげられなかったのに、かなちゃんは今でも私をそう呼んでくれていた。
「真璃絵姉さん」
気づけば隣にはまりちゃんが立っている。私もまりちゃんもかなちゃんのことが大好きだから、こうして心配してしまうのだ。
「かなちゃん、大丈夫なのぉ?」
「平気です。心配をおかけしてしまい申し訳ございません」
「謝ることじゃないわよバカ。戻れるの? かなちゃんは一生妖怪のままなの?」
そんなこと、あったとしても許さない。私のかなちゃんをこんな目に遭わせた誰かのことだけは恨んでしまいそうになる。
「おりゃ」
「えひゃあ?!」
私を膝カックンで攻撃したのはしいちゃんだった。振り返ると私のことを睨む彼女と目が合う。しいちゃんは私の心臓がある部分をつんつんと背中から啄いてくるから、私が寿命を削ったことを責めているのだとすぐに悟った。
「そんなことはないよねぇ、かな姉」
誰にも知られないように背中の僅かしかない肉を摘んでくるからかなり痛い。しいちゃんは知っていて、恨んでいたのに、それを指摘したり結希以外に言ったりしなかった。そんなしいちゃんの優しさに私は何度も救われている。
「ほ、本当に?」
「えぇ。わたくしの母は半妖で、わたくしの父は人間なので。人間のわたくしが消えることはありません」
百鬼夜行があってもなくても笑ってくれるような子じゃなかったのに、かなちゃんは私たちを安心させる為に優しく微笑んでくれた。そんなかなちゃんの優しさにも救われていた。
「行こうよ。人間になったって、妖怪になったって、私たちが半妖である事実は死んでも変わらないんだから」
「行くってどこへ?」
「ほら、あの桜。あの桜は私たちの瘴気も祓ってくれるからさ」
「あぁ、そういうこと……」
私たちは半分妖怪だから町役場の屋上から簡単に飛び下りることができる。桜に集っていた妖怪たちは、私たちが下りたらあっさりと道を譲ってくれて。鈴ちゃんが結希の腕に巻つけていた小型の一反木綿で結希たちが下りてきても、誰も陰陽師を襲おうとしなかった。
共に生きることができるのかはわからない。でも、この場には妖怪も人間も半妖もいるのに誰も傷つけ合おうとしないから、茨の道で大きな一歩を踏み出したのだと思う。
「ほら、かな姉」
少しだけ歩いて辿り着いた若い桜はとても大きく、妖怪が寄り添っても折れなかった理由を知る。かなちゃんが寄り添っても絶対に折れないその木は、かなちゃんの中にある瘴気や妖怪の力を吸い取っているようで──でも、かなちゃんが完全に人間になることはなかった。
私たち半妖全員は、死んでも半妖なんだろう。一生妖怪にも人間にもなれないのだろう。
そんな人生が悲しいものだとは思わない。同じ運命と宿命を背負う、これからも家族と呼びたいあの子たちとまだ生きていくから。
*
私の体は骸の体。人間のように血が流れない妖怪の姿が誇りだったのに、覚醒してからは他の子たちと変わらない半妖の姿になってしまったから──ずっと〝どうして〟と思っていた。
覚醒して強くなるならば、妖怪から半妖の姿になったことは弱くなった証のような気がしていて。もう誰のことも守れなくなってしまったらどうしよう──そんな私に力を分け与えてくれたのがヒナちゃんだった。
ヒナちゃんと力を合わせて造り出した餓者髑髏はかつての私の何倍もの大きさを持っていたから、これが覚醒なのだと理解する。
半分人間でも妖怪より劣っているわけではない。半分妖怪でも人間の中で暮らせないわけではない。半妖の気配に戻ったかなちゃんは、これからも私たちと同じ世界で生きることができる。それが嬉しかったから彼女のことを抱き締めた。
「真璃絵姉さん、苦しいです……」
「だめ。離してあげないわぁ」
それくらい、私はかなちゃんのことが大好き。私にとっては昨日のことの出来事のようで、みんなにとっては六年も前の出来事だった百鬼夜行が終わったこと。それをもっと喜び合いたかった。
「ところで弟クン。町の結界ってどうするの?」
視線を巡らせると、町役場の屋上にいた全員が桜の周りに集っている。遅れてここに来たのは各家の旧頭首たち──私たちの先代だったから、ゆうくんは彼女たちの様子を一瞬だけ伺った。
「正直、俺一人で判断できることじゃないんで絶対にそうするとは言えないんですけど……」
冬の薄く塗られた青空に、千年前の陰陽師が張った結界はどこにもない。あの結界は妖怪や人間を守っているようでいて、誰のことも守っていなかったような気がする。千年前の陰陽師は良かれと思ってやったことなんだろうけど。
「……俺はこのままでいいと思います」
あってもなくても何も変わらないならば、ない方がいいに決まっている。妖怪も、人間も、きっともう自由だから──それを阻む物は全部なくしてしまったらいいと思う。
「くぅもこのままでいいと思うよ。ていうか、張り直そうって言う奴がいたらくぅがぶっ飛ばす」
「おい。もしそうなったら俺も混ぜろよ」
「はぁ〜? あのねぇ。くぅはお姫様だからぶっ飛ばせるの。紫苑にはそんな権利ないんだから黙って見てて」
「姫だからじゃねぇだろ。どうせんなこというのはクソジジババ共だけなんだから、俺たちは次世代としてあいつらぶっ飛ばす権利があんだよ」
私たち半妖の戦いは終わったけれど、紅葉ちゃんや紫苑くんたち陰陽師の戦いはまだ続くのだろう。
「……お前ら、さっきから物騒なこと言うな。俺は話聞かないけど、あの人たちにも意見を言う権利はあるんだからな」
「紅葉ちゃん。私も話を聞く気はないけど、女王様になるなら黙らせるなんてやり方しちゃ駄目よ」
ゆうくんも、朝日さんも、雅臣さんを守るにしろ守らないにしろ他人事ではないから多くの陰陽師の前に立たなければならない。私たちは半妖だから、こんなにもたくさん助けてもらったのに陰陽師の為にできることは何もない。それが悔しくて悲しかった。
「姫様のことは火影が守ります。そのような女王にならぬよう、火影がずっと──」
「あのねぇ要らないから! あんたは鴉貴家の現頭首でもしかしたら警視監になるかもしれないんだから〝ずっと〟なんて言わない!」
「え?! 火影ね〜ちゃん警察の偉い人になるの?!」
「えっ、火影は……」
「火影ちゃんが警察官になれば、つばちゃんが警察官になったとしても火影ちゃんが警視監になるのは確定だよね〜」
「えっ?! ちょっと待てよしい姉! 別に警視監になりたいわけじゃないけどなんでアタシじゃないって断言するんだよぉ!」
「別に鴉貴家しか警視監になれないわけじゃないよ。エリカさんの先代はつばちゃんのお母さんの槐樹さんだからね。けど、つばちゃんって警視監って柄じゃないでしょ? 虎丸さんと一緒。町の人たちに囲まれている警察官の方がつばちゃんらしいって、虎丸さんもそう思うでしょ?」
いつの間にか近くに来ていたらしい。音を鳴らしていなかったパトカーや特殊車両から下りてきたのは虎丸さんや恭哉さん。蒼生さんや輝司さんたち《カラス隊》や《コネコ隊》の人たちで。虎丸さんは真っ直ぐにつばちゃんのことを見つめていた。
「……椿ちゃん、殺そうとしてごめんな」
虎丸さんは真っ直ぐだから、私たちに自分がしようとしたことを隠さない。
「え?! いいよ別に、虎兄は悪くないんだし! アタシが紅椿を抑えることができなかったから、虎兄にも恭兄にも紅椿にも迷惑かけて……」
「迷惑じゃないよ。俺は、椿ちゃんが妹で良かったって本気で思ってる。母様は鬼寺桜家の現頭首として、陽陰警察署の警視監として、ずっと自分を殺したまま死んでしまったけど──俺も、自分を殺して椿ちゃんを殺そうとしたし、椿ちゃんは俺や母様と違って簡単に自分を殺せそうだけど、椿ちゃんにはありのままに生きてほしいよ」
私たちは《十八名家》だ。虎丸さんを見ていると、半妖じゃなくても色んな運命と宿命を背負っていると気づかされる。
白雪さんも。吹雪さんも。密さんも。恵も。麗夜くんも。愛来ちゃんも。和穂ちゃんも。奏雨さんも。風ちゃんも。乾ちゃんも。有愛ちゃんも。明彦ちゃんも。青葉さんも。貴美さんも。叶渚さんも。真くんも。鬼一郎くんも。翔太くんも。冬乃さんも。星乃ちゃんも。八千代くんも。スズシロちゃんも。衣良くんも。涙くんも。
陽陰町の各方向から駆けつけてきた彼らは黙って私たちの他愛もない話を聞いていた。
「私たちはこれから陽陰町の偉い人になったりならなかったりするけど、どっちにしろ、みんなこれからは別々の道を歩むんだよ」
しいちゃんが桜吹雪の中で変化を解く。私たちも、しいちゃんに倣って元の姿に戻っていく。人間の姿になると私たちはまったく似ていなくて、《十八名家》の人たちを見ているとあぁ似ているなって思ってしまって、だからこそいつか別れが来るって思い知らされていて、その日が来ることが怖かったけれど──
「みんなそんな悲しそうな顔すんなよ! もう二度と会えなくなるわけじゃないんだろ?! 風丸先輩だって傍にいてくれるんだし、少なくとも毎年新年会とかで会えるんだから! アタシはその日を楽しみにしてる!」
──太陽のようなつばちゃんを見ていると、今すぐ離れ離れになって、いつか成長した自分を見てほしくなった。




