十五 『千年の物語』
妖怪には、姿がない。人間に名で縛られて初めて己の姿を持ち、人間と見つめ合うことができるから。触れることができるから。
雪女、人魂、餓者髑髏、人魚、一反木綿、百目、九尾の妖狐、轆轤首、猫又、豆狸、鬼、小人、座敷童子、ぬらりひょん、天狐、鴉天狗。
そんな風に呼ばれて初めて、人間と関わることができるから。人間と妖怪は殺し合った。そうやって傷ついた鬼は人間の家に忍び込んで人間を喰って、いつまでも穏やかに暮らしたいと──願っていた。
『────』
御簾の向こう側から声が聞こえてくる。その声の持ち主は男で、男は御簾の向こう側にいるはずの女の名を呼んでいた。だが、その女は鬼が先ほど喰ってしまって。喰われた女の血肉と御簾に囲まれた部屋のおかげで力を取り戻しつつあった鬼は、鬼から人間の女へと姿を変えた。男が、知らぬ間に鬼を名で縛ったのだ。
御簾を上げて中に入ってきた男が見たものは喰われた女の肉片と血と、女となった鬼で。男は女が鬼であることに気づかなくても、自分が逢いに来た女でないことには気づいて。
『──樒御前』
人間と妖怪が殺し合うこの世で女だけは妖怪に殺されないように、そう名づけた。樒御前は男の妾となった。
月日は流れて男の正妻が病で亡くなり、男と樒御前は今まで以上に愛し合って。そんなある日、樒御前は正体を暴かれた。妖怪が人間の世界を侵している、自身の城を守る結界を張れ、その為だけに城にやってきた陰陽師の男によって。
樒御前は男と出逢ったあの日から今日に至るまで、一度も自分の正体を隠したことがなかった。正体を告げる口があっても、その声が男に届かなくても、樒御前は一度も人間のふりをしたことがなかった。今日に至るまでずっと、男が樒御前が人間であると勘違いしていただけなのだ。
樒御前は結界が張られた城から追い出された。それでもいつか中に入れると信じていた。
結界の外で例の陰陽師に襲われた樒御前は、男と出逢う前のように逃げた。それでも城から離れることができなかった。何故なら樒御前はあの日から何も変わっていないから。
変わってしまったのは、男だった。
例の陰陽師が亡くなって始まったのは、全国各地の陰陽師を巻き込んだ妖怪狩りだった。
『いたぞ! あそこだ!』
『待て! 〝あれ〟は殿を誑かした大妖怪だ! 油断するな!』
樒御前は自分を追う陰陽師を殴り殺した。
例の陰陽師が亡くなったのだ、このまま走って結界を壊せば、また男に逢える。また、愛してくれる。元の男に戻ってくれると信じていた。
『──ッ、封印する!』
神様。もう一度だけでいい。男に逢いたい。
『イヤダ』
嫌だ。
『イヤダッ!』
だから陰陽師を大勢殺す。他の地では、妖怪が陰陽師に殺されていた。
これは、すべての妖怪と陰陽師による戦争だ。樒御前が再び男と逢う為にはすべての陰陽師を殺さなければならない。
『いいのか?! 殿の命令はあの鬼を殺すことだぞ!』
愛されているはずなのに、すべての陰陽師を殺したら──男は笑ってくれるのだろうか。
男が変わったのは陰陽師に出逢ったあの日からだ。陰陽師が男を唆したから、男は妖怪を殺す計画を立てたのだろうか。
封印された樒御前には、男の心を知る術がなかった。
*
『……宗隆、どうして鬼を退治しないの』
『おまえなぁ。紅椿は誰のことも殺してないんだぞ? なんで退治するんだよ』
宗隆の式神のオウリュウは、宗隆の疑問に答えることができなかった。
曙に出逢ったばかりの頃はそんなこと言わずに退治していたのに、妖怪の声が聞こえると言う清行に出逢ってから宗隆の価値観は変わってしまった。だからオウリュウも正しいことを口に出していると思っていても宗隆を説得することはできない。世の中には人間を殺したいと思っている妖怪とそうでない妖怪の二種類がいることは理解してしまったから。
『……宗隆』
オウリュウは、中庭で鳥と遊んでいる紅椿を眺めている宗隆にしがみつく。
『……でも、〝始まってるんだよ〟』
宗隆と紅椿が出逢う一日前に都の人間が陰陽師に命じたのは、全国各地に蔓延る妖怪の駆逐だった。すべての妖怪を殺して人の世に平和をもたらす──言っていることは立派なことだろうが、自分は安全な場所にいて陰陽師には命を懸けさせるその心が、身分が、オウリュウは嫌いだった。
『……八条は国の中心にあって、あの桜もあるから、妖怪はここしか行くところがないんだよ。……すぐに陰陽師もここに来るから、この戦争はもう誰にも止められないから……妖怪の味方はしちゃダメなんだよ』
それがオウリュウの切なる願いだ。自分の主がくだらない理由で死ぬのは御免だ、自分の意思ではなく他人の意思で死ぬのも御免だ、生きていてほしいから宗隆にはありのままの自分の心を殺してほしくて仕方がない。
『曙』
宗隆はオウリュウの願いに答えることなく、家人となった曙を呼ぶ。
『宗隆様……』
姿を現した曙は、いつにも増して不安そうではあるものの宗隆に近づくことはなかった。
『おまえはどんな妖怪でも寄せつけるよな』
言った直後に紅椿が曙の下まで駆けていく。抱きつかれた曙が倒れることはなかったが、紅椿でなければ曙は死んでいた。
『……はい』
間宮家には結界が張ってある。曙が紅椿以外の妖怪に襲われることはあり得ない。この結界が破壊されない限り。
『おまえは、すべての妖怪が退治されたら幸せに暮らせるのか?』
すべての妖怪が退治されたら、曙にとって宗隆は不要な存在となる。オウリュウはそう思ったが宗隆が考えていることは多分そんなことではなかった。
『いいえ』
断言した曙は不安そうな表情を消さない。
『わたしの幸福は、妖怪の存在の有無で変わるものではありません』
曙にとって宗隆はすべてだ。例え宗隆が不要な存在となっても曙は宗隆の傍から離れない。そして、曙はどんな宗隆でも受け入れてしまうから──妖怪を退治したくないと宗隆が少しでも考えているのなら、宗隆の背中を優しく押す。
──間宮宗隆は世界で最も幸福な陰陽師だ。
オウリュウは宗隆の背中に頬をつけたまま、自分ではなく誰かの幸福を願い続ける巫女の為にこの世界が永遠に平和であることを願った。
オウリュウの願いが完全に崩れ落ちたのは、その十八年後だった。
『オウリュウ。おれと来てくれるか?』
空は毒々しい赤色に染まって、瘴気が辺りに満ち始めて、妖怪退治の第一線から退いた宗隆、清行、星明までもが召集されることになって。今でも宗隆の式神であるオウリュウは、宗隆の正面に立って強く頷く。
『……オーは、キミの式神。キミが、オーの、最初で最後の主』
宗隆、清行、星明が命を懸けるならば式神であるオウリュウだって命を懸ける。この国が誕生してから初めての百鬼夜行、長い長い時間をかけて八条に集まってしまった陰陽師と妖怪の殺し合いの最終決戦、その戦いで生き残る自信も生き抜く決意もなかったから。
『宗隆様!』
そんな二人の歩みを止めたのは、曙だった。
曙が宗隆の決意を否定したことは一度もない。宗隆が紅椿を選んだあの日も、宗隆と紅椿の間に梅が生まれたあの日も、曙は宗隆を肯定していた。
『行って……しまうのですか……』
曙は決して〝行かないで〟とは言わない。宗隆も決して〝行かない〟とは言わない。
既に清行と星明が戦っていた。あれだけ妖怪と戦うことを拒んでいた清行と、清行から妖怪の話を聞いて悪しき妖怪ばかりではないと宗隆同様に理解している星明がだ。清行は妖怪を救う為に、星明は人間を救う為に命を懸けている。
『おれは梅の父親だからさ』
宗隆は、清行と星明どちらが正しくてどちらが間違っているとは思っていない。宗隆にとってはどちらも正しくてどちらも間違っている。
『…………っ』
そんなことを言われてしまったら曙は何も言うことができない。宗隆が清行の味方にも星明の味方にもならないこと、妖怪であり陰陽師でもある娘の為にどちらも救おうとしていることに気づいてしまったから──溢れてきた涙を拭い続ける。
『だから、梅の為にできる限りのことはしたいんだ。でも、おれは絶対にこの戦いを止められない』
宗隆は理想ばかり見る人間でも現実ばかり見る人間でもない。理想があっても現実に打ち拉がれるどこにでもいるただの人間だ。
『おれは清行みたいに妖怪と話すことができないし、星明みたいに妖怪とわかり合うことは不可能だって割り切って妖怪を殺すこともできない。紅椿みたいに強くもないし、曙みたいに優しくもない。おれは普通の人間だからさ』
『それは違います』
曙はゆるゆると首を左右に振り、初めて自分から宗隆に近づいて彼の両手を包み込むように握り締めた。
『貴方様はわたしを御役目から解放し、妖怪を愛した唯一の御方です。普通だなんて仰らないでください』
曙には宗隆に返しきれない大恩がある。恩を返す為ならば曙はなんでもするつもりだったが、宗隆が曙を使ったことは一度もなかった。曙は宗隆に、一粒の恩さえ返していなかった。
『貴方様にしかできないことが必ずあります。わたしはそう信じているんです。初めて会ったあの日から……貴方様はわたしの〝大切な御方〟だから』
どんな言葉を吐いたところで、宗隆も曙もこれが最後だと理解していた。返したかった恩はこの言葉でさえ一粒ではなくて、曙は改めて宗隆から与えられた自由と希望の重さを知る。
『ありがとう、曙』
何も返せていないから、その礼は曙にとって毒だ。何かを返せていたら曙はその言葉だけで報われるのに。
『でもな、おれは……おまえらがいないと大したことなんてできないよ』
ついて来いと言われたら、ついて行くのに。
『だから、行ってくる。あいつらと運良く戦場で逢えたら、絶対になんとかしてみせるから──』
妖怪を集める曙の体質は、今も昔も宗隆の命を危険に晒してしまうものだった。曙にとって宗隆は近づいてはならない尊い人で、本来ならば今すぐに宗隆から離れないといけないのにどうしても離れることができない。
『──曙、おまえは生きろ』
死にに行くも同然のことをしようとしている〝大切な御方〟の手を、離したくない。
『わたしの幸福は……』
声が震える。自分はなんの為に生まれてきたのだろうと思う。〝愛する人〟さえ救えないのに、土地神様を救うだなんて。烏滸がましい烏滸がましい大馬鹿者だ。
『……わたしの幸福は、貴方様なしでは得られないもので……わたしの人生は、貴方様なしでは語れないものであることを…………どうか、どうか…………』
握り締めている両手に力を込める。刻みつけるようにいつまでも、いつまでも、覚えていてくれているように。
『……忘れないで、ください……っ』
曙は宗隆の手を離した。宗隆の家で、宗隆の結界に守られながら、決着が着くその時を待つだけの人生だと思っていた。
妖怪の数が夥しい数になり。宗隆の結界が弱まったわけではないのに妖怪が曙の存在に気づき、宗隆の結界を破壊するとは思わなかった。
『何故に其方は間宮を愛す』
その答えは、宗隆と出逢ったあの日から変わらず曙の中にある。誰にも触れさせないように心の奥深くにしまい込んで、一度も表に出さなかった──出さなかったはずの、感情だ。
『……あの御方が、わたしを、救って……くださったから……』
紅椿がいてもいなくても、曙はきっと宗隆に想いを伝えることができなかった。想うことさえ烏滸がましいと思うほどに、曙にとって宗隆は誰よりも清く尊く美しい人だった。
(願うなら、来世では貴方と共に生きられますように)
同じ身分でなくても構わない。今と同じように生きるだけで構わない。多くを望むつもりはないのだ、宗隆は自由と希望の象徴だから自分自身で縛りたくないのだ。
(けれど、貴方が土地に還る日は今よりも遠い未来でありますように)
どうしても、どうしても、宗隆にはこの戦いを生き抜いてほしかった。妖怪を愛して半分妖怪の父親になった彼が、妖怪と陰陽師の殺し合いで死ぬなんて──そんな運命が赦されて良いのだろうか。何故、自分が最も愛した男の運命はこうも残酷なのかと、自分の運命をすっぽり忘れて泣きたくなる。
『間宮宗隆は死んだ』
呪いたくなる。《伝説の巫女》という役目を放棄して継ぐ者さえ産まず、死んでしまった巫女だからこそそれはとても簡単なことだった。
『たった今、魂が還ってきた』
彼がいない世界で妖怪と陰陽師が共に生きていても、自分はきっと笑えない。答えを見ないままでは死ぬことができない。
『其方が死ねば、会わせてやることができる』
だが、そう言われてしまえば死にたいと思うのが曙という名の女だった。
『其方が死ねば、其方たちの魂を未来へ送ろう』
もう何も考えることができない。ただ思うのは心にこべりついてしまった未練だ。
(……とおい、みらいで……)
自分の為の願いならばある。
(……わたしの、たましいが、あなたのおやくに……たてますように)
返し切れない恩もある。
曙の命はここで途絶えた。運良く生き残ってしまったオウリュウは、宗隆の家で死んでいた曙を見て目を閉じた。
宗隆と曙の想いを知るものは自分だけなのだと、痛く、強く、感じていた。宗隆と曙の想いはここで終わらせていい想いではない。何年かかっても、何百年かかっても構わない、二人の願いを叶える為に自分はまだ死ねないのだと思う。
だからオウリュウは妖怪退治の第一線から退いた。
『……オーは、キミの式神。キミが、オーの、最初で最後の主』
あの時の言葉を嘘にもしたくなかった。死ねないから野良になることを選んで旅に出た。
どこかに妖怪と陰陽師が共に生きることができる手がかりがないか。そうすることができていたという記録がないか。探し続けて気づけば千年。陽陰町と名が変わったあの地へ戻る度に間宮の姓を名乗る者は減少していき、千年の間で気づいてしまった──宗隆の魂を持つ者は芦屋の性を名乗っていた。
赤ん坊の彼を見て感じたことは何もない。紅椿や曙の子孫を見て、また紅椿の生まれ変わりと曙の魂を持つ者が同世代に生まれたとは思ったがそれが初めてではないのだから思うことも何もない。
ただ、少し見ない間に結希と半妖が共闘しており──オウリュウは多くのことを感じて多くのことを思って多くのことを思い出した。
『梅』
百鬼夜行が終わって、星明と梅が会った時、オウリュウは遠い場所から二人のことを見守っていた。
『母を失い、父を失い、乳母を失い、友を失ってもなお我々の為に力を貸してくれたこと、感謝する』
それは紅椿のことであり、宗隆のことであり、曙のことであり、清行のことだ。星明にとってもその四人は友だったが、百鬼夜行の時に人間の味方になって妖怪や紅椿を殺した彼だから、四人の死を悲しむ権利はないと思っていた。そんな二人だったから、オウリュウは何かあった時の為に──二人の他で生き残った唯一の者として二人の行く末を見届ける為に、ここにいるのだ。
『なんだよその他人行儀な言い方……私は許せなかっただけだ。人々の平和を壊そうとする妖怪が』
『梅。感謝しているんだ』
『何回も言う必要はないだろう』
『産まれてきてくれたこともだ』
『……っ』
『おまえに新たな姓を与える』
『え』
『鬼寺桜梅。これからはそう名乗って生きろ』
『……わかった』
『一つだけ、約束してくれないか』
星明がそう言うのは珍しくて、梅もオウリュウも息を止める。
『この地に再び百鬼夜行が引き起こされる時、その時も力を貸してほしいんだ』
そしてオウリュウは泣き崩れた。結局、宗隆は本当に一人では何もできなかった。最初から約束していたらこんな結末にはならなかったのに。
オウリュウとは違い梅は腹を立てていた。母親を殺し父親を救えなかったことを責めようとしているのではない。
『守るよ。約束がなくても──私たちは家族だろッ!』
当たり前のことを約束しようとしている馬鹿な星明に馬鹿と言ったのだ。
『……言ってない。スーちゃんや、セーくんや、ビャッコや、ゲンや、ユーが心配してることには絶対にならない。次の百鬼夜行で、すべてを終わらせられる』
『なんの根拠があってそんなことが言えるんだよ』
『……だいじょうぶ。みんな忘れちゃったけど、千年前に交わした陰陽師と半妖の約束は……今も生きてる』
『約束って?』
『……『この地に再び百鬼夜行が引き起こされる時。その時は必ず、互いが互いの力になる』、って。星明が、約束してた。その約束は、六年前守れなかったもの。けれど今は、ユーが守ってるもの』
オウリュウは密かに結希の反応を窺っていた。
『そんなの、約束しなくたって守れるだろ……』
結希があの時の梅と似たようなことを言ったから、百鬼夜行は終わる、宗隆と曙の願いは叶うと──漠然とだが思っていた。
妖怪が、次々と風丸──カゼノマルノミコトが贈った桜に集まっていく。
『木はそう簡単には育たないけど、この土地の神様ならば話は別ってことだね』
たったの一瞬でオウリュウが見ていた世界がひっくり返った。ひっくり返したのだ、結希と、明日菜と、風丸が。
泣き崩れた結希と明日菜の下に駆け寄って二人が屋上の淵から落ちないように内側に引きずったのはすべての半妖たちで、千年を生きたオウリュウとビシャモンだけが屋上の淵に立って瘴気のない穏やかな妖怪たちを眺めていた。




