十二 『バケモノ』
ボクには妖怪の声が聞こえないから、ユウキやミホの苦しみを正しく理解することができない。妖怪の声が聞こえるせいで人間の傍にも妖怪の傍にも立つことができない二人は、人間にも妖怪にも誠実でいようとするから──優しさに溺れないでほしいと、潰されないでほしいと、ボクはずっと願っていた。
ボクにも妖怪の声が聞こえたらいいのに。そうしたら何をすればいいのか正しく決断することができるのに。
唾を飲み込んでみんなと同じように屋上の淵から真下を眺める。町役場の中に入り切れていない妖怪たちの体から尋常ではないほどの瘴気が溢れているから、瘴気がこの町を包み込むのは時間の問題だと思った。
ボクは一反木綿の半妖だから、一反木綿に変化できた時から自分は何をすればいいのかを理解していた。
みんなを運ぶこと、守ること、それが使命。今も図書館の屋上で倒れているはずのお母さんだってそうしていたんだからボクは何も間違っていない。ボクは──歴代の一反木綿の半妖は、正面から戦いを挑むことが使命ではない。だから、多分、この場にいる半分妖怪たちの中で唯一何をすればいいのかわからないと惚けているのがボクだった。
「…………」
言葉が出てこない。情けないとさえ思う。
『俺はこの町の制度に革命を起こす。《十八名家》の半妖や陰陽師だけじゃなくて、俺みたいな普通の人たちも戦えるようにするんだ』
ボクたちが陽陰学園の生徒会役員だった頃、力なきただの人間はキリヤ先輩だけだった。キリヤ先輩は夢も希望もないようなこんな時でもボクたちと一緒に戦えるようになりたいんだって言ってくれたのに。
見上げると、空は今でも曇り空だった。キリヤ先輩はボクたちをちゃんと見守ってくれているのだろうか。キリヤ先輩がこんなボクと今の状況を見たらなんて言ってくれるのだろうか。
答え合わせの時が来たかのように誰かの着信音が聞こえてくる。
みんなはボクを見ていて、ボクは慌てて懐からスマホを取り出した。表示された名前はどくんと心臓を動かすもので、電話に出ると随分と懐かしく感じる姉の声が聞こえてきた。
『鈴歌、今話しても大丈夫か?!』
フウのその声色はまったく沈んでいなくて、ボクに一刻も早く何かを伝えたがっている。
「…………うん、大丈夫」
こんな時にボクだけフウと話していてもいいのだろうか。ボクがまだ生きていると信じていたフウは、『わかったぞ!』と手短に伝える。
「────っ」
急いでスピーカーに変えてスマホを耳から遠ざけた。
『瘴気が溢れたおかげだ! 今町役場にいる妖怪の数が増えているだろう?!』
興奮しているように聞こえる。町役場にいる妖怪の数が増えているならば町役場にいるボクたちの命が危ないってことになるけれど、フウはそこまで気にしている余裕はないようだった。
「確かに、増えてる。どっから来たわけでもなくて、ここから、どんどんと」
ボクたちの目にその様子は映らなかったけれど、ワカナの鼻はそうではない。耳も、二本の尾も──いや、ワカナの全身がそれを感じ取っている。
『だから! 妖怪は瘴気から生まれているんだよ! 結果が出たんだよ!』
確かにポチコがそんなことを言っていた。妖怪は神様が生み出したものじゃない、人間の負の感情から生まれていると。けれどその話は千年以上前の話で、証拠も何もない。証拠があったとしても現代の妖怪に当て嵌っているとは言えなかったから、フウのその結論がボクたちの中の時間を確実に動かした。
妖怪を絶滅させようと思ったら人間を絶滅させればいいのだろう。人間を殺したくないならば、妖怪殺しは諦めるべきなのだろう。賢い人間ならばその道を選ぶ。そうするべきなのだ。
『あんたが守ってあげてねって言った人たちの為にも、俺は、妖怪と共に生きる道を探したい』
けれど、ユウキは不干渉ではなく妖怪と生きる道を探している。フウの言葉を聞いているボクたちの為に。アサヒさんが守ろうとした、ボクたちの為に。
『妖怪が本当に大人しくなるならば、消せ! そうすれば、きっと──』
「…………できない」
夢と希望を持っているフウに、ボクはこんなことを言いたくない。きっと今この瞬間も地下に逃げずに研究所にいるであろうフウに、無駄なことをしたと思わせたくない。けれど。
「…………瘴気は、誰かが犠牲にならないと消えない」
誰かじゃない。わかっている。けれどその子の名前は口に出したくなかった。
ボクを囲んでいるみんなも黙っている。誰だってあの子を──アスナを、ユウキがこの世界で一番大切にしている子に、一番守りたがっている子に、瘴気を消す為だけに生きろとは言えない。
ボクたちはみんな、妖怪を殺す為だけにこの世界に生まれてきたバケモノだ。
その為だけに生きることが嫌だと思わなかった時期はもちろんある。けれどそれはみんなが──家族がいたからで、家族がいなかったら、家族じゃなかったら、アスナが瘴気を消す為だけに生きることを強要していた。アスナが逃げたら、追いかけた。ユウキがアスナを守ろうとしたら、殺すことに……躊躇いは、なかったかもしれない。
『──そんなことはない』
フウは根拠がなければ断言しない人間だ。
「…………え」
はっきりと否定したフウは、『君が家に帰ってきたあの瞬間に研究者にするべきだったかもね』と言葉を漏らす。
『研究所に瘴気を祓う〝樒〟がある。まぁ、あの量を祓えるかと聞かれたら無理だろうけど』
「あ! そうだ《紅椿》! 《紅椿》だって瘴気を吸収してたんだし、探せば他にも何かあるかも!」
ツバキは瞳を輝かせ、本当に何かないかと町役場から町中を見渡した。みんなもツバキのように見渡す。ボクは妖怪を倒さなければと思っていたけれど、みんなは妖怪を倒すことよりもアスナを救うことを考えていた。
ボクは、キリヤ先輩の言葉に影響を受け過ぎていたのかもしれない。キリヤ先輩だって今この瞬間にいたならば絶対にアスナのことを救けようとする。
だって、キリヤ先輩は優しい人だから。バカな人で、酷い人で──ボクが好きになった人だから。
*
「《紅椿》……」
屋上の中央で明日菜と風丸、そしてポチ子と話していた結希が呆然と呟いた。鈴歌と風さんの話が聞こえていたらしい、だがあれは結希と椿が折ってしまったからみんながその代わりを探している。
折ったことを後悔していないといいが──そう心配したが、今の結希の頭の中には後悔という二文字がないのか腰に下げていた刀を無言で抜刀した。
「《鬼切国成》なら瘴気も斬れる」
熾夏があの刀を肯定する。
「斬れる、であって祓うではないじゃろう」
私は無理だと思ったけれど、熾夏は「同じことだよ」と首を左右に振った。
「やり方が違うだけ。《紅椿》でも瘴気は斬れたと思うよ」
「そういうものかのぅ」
私の方が刀を使っていた期間が長いのに、熾夏は百目の半妖でもあるから刀にもやたらと詳しい。熾夏にはいつも嫉妬してしまう、私が先に結希の〝お姉ちゃん〟になったのにとも思う。
「大丈夫。弟クンと明日菜ちゃんならできる」
そういう大切な言葉も、熾夏だけに言わせたくないなかった。
「弟クンは妖怪に寄り添ってあげて。明日菜ちゃんは妖怪の不安を取り除いてあげて」
こう思うからもっともっと自分のことが嫌いになる。嫌いになりたくない、少しでも好きになりたいから私は行動に移した。
「お主らにはわらわたちがついておる。安心して行ってこい」
自分の胸を全力で叩く。私は、二人が安心できる居場所になりたかった。
百妖家で百妖家の人間として過ごせたことは私の一生の財産になると思っている。首御千家の現頭首として恥じない自分で在れるとも思っている。同時に、失ったもの──恥ずかしい過去も持っているから、私やみんなが二人の安心できる居場所になりたいのだ。
私が実妹だと最初から知っていて、その上で接してきて、実妹だから本来の距離感から大きく離れて近づいてきた青葉との思い出は本当に一刻も早く消し去りたい思い出だ。あの頃に出逢わなければと今でも本気で思っている。現頭首になったり教師になることは嫌ではないけれど、青葉と同じ屋根の下で暮らすことは絶対に嫌だ。だから、首御千家は私にとって安心できる居場所ではない。
青葉は全力で謝ってきたけれど、起きてしまったことは一つもなかったことにはならないから。過去は変えられないから、二人には後悔してほしくない。そういう選択をしてほしくない。
「朱亜姉……」
結希が泣きそうになりながら私の名前を呼んできた。結希は青葉と違って血が繋がっていないけれど、本当に──大切だと心から思っているたった一人だけの弟だ。
私たちと交代で屋上の淵へと向かう二人を見守る。
風さんが答えを出したから、私たちは妖怪には手を出さない。手を出せない。守ることはできるけれど、戦えないから祈っている。
私たちはバケモノだ。妖怪を殺す為だけにこの世界に生まれてきたから、二人が成功したらきっと要らない存在となってしまう。
でも、それで構わなかった。
私たちは世界の異物でもあるから。神様が生み出したのは人間だけで、妖怪も──半妖も生み出してはいないのだから。神様から要らないと言われたらそうだろうと言わざるを得ない。
『……全部、あの人は知っていたんじゃな』
『あの人が誰なのかは知らないが、キミは首御千朱亜だよ』
『あぁ、最悪。……死にたい』
生きることは恥ずかしいこと。死んだ方が楽になれると思う。けれど。
『あんたが守ってあげてねって言った人たちの為にも、俺は、妖怪と共に生きる道を探したい』
死ねない理由が目の前にあるから、せめて、私たち当代のバケモノだけは彼と共に生きることを許してほしかった。




