九 『願い』
風丸は、呆然と彼らが消えてしまった出入り口を見つめている。何故風丸が。カゼノマルノミコトはどこに行ったのか。
聞きたいことはたくさんあったが、明日菜はすぐに首を左右に振った。
「わからない、けど、妊産婦よりも早産児の方が死亡率は高いから……」
いや、違う。今の風丸に言わなければならない言葉はこんな言葉ではない。軽率な言葉に自分自身が傷ついてしまう。
陽縁の妊娠がわかって一番喜ばなかったのは、今明日菜の隣にいる風丸だった。自分は雷雲と血が繋がっていない、だから小倉家の次期頭首ではない、現頭首にもなれない。それでも、もしも世界が何かを間違えて風丸が小倉家の現頭首になったならば、雷雲と風丸は本当の親子になれる。きっと、なれる。
そんなあまりにも確率の低い願いを抱いていた風丸がいたことを、風丸神社で巫女のバイトをしていた明日菜は知っている。
陽縁の子供の性別が男でも女でもそのどちらでもなくても、血縁を重視する《十八名家》が小倉家の次期頭首として認める子供が風丸ではなくその子になることをずっと妖目家の次期頭首として生きていた明日菜は知っている。
喜ぶ陽縁と輝久を見て、日に日に増えていくベビー用品を見て、自分が土地神であることを知って、それでも陽縁や輝久が土地神としてではなく血の繋がった甥として接していてくれていたことに気がついて、風丸が少しずつ陽縁の妊娠を喜び始めたことを明日菜だけが知っている。
風丸神社で働くまで明日菜が小倉家をきちんと見たことは一度もなかったが、血の繋がった息子として風丸を心から愛していた雷雲を含めても、小倉家には妖目家にはない温かさと幸福が滲み出ていたから──小倉家は唯一《十八名家》らしくない家だったから、ずっとそんな家でいてほしいと願っていたのに。幸せはきっと、いつだってこうも簡単に壊れていく。
例えこの世界に産まれることができなくても、陽縁のお腹の中で少しでも生きていたならばそれはやはり一人の人間が死んだことと同義だと思う。十年前、明日菜が七歳の時にヒナギクの妹であるスズシロの誕生を聞いた時──その時は何も思うことがなかったが、双や一玻が他人の子であるにも関わらず喜んでいた理由が、今ならばわかるような気がした。
死ぬことなく百鬼夜行を乗り越えることは奇跡だが、そもそも無事に産まれてくること自体が充分過ぎるほどの奇跡だったのだとこの一瞬で気づいてしまった。
自分もそんな風に祝福されて産まれてきたのだろう。例え《伝説の巫女》としての役割を背負わせる為に双が孕んで腹を痛めて産み落とした命であっても。双からあからさまな愛情を向けられた記憶がなくても。
だからずっと、羨ましかった。隣で何も考えられないでいる風丸は土地神だ。多分風丸は誰かに祝福されて産まれてきたわけではない。神として今までずっと誰かの誕生を祝福していたであろう彼は六年前、風丸神社の前で雷雲に拾われた前例のない《十八名家》の人間だ。風丸の存在が公になった時双や一玻が顔を顰めた様を明日菜は目撃していたから、中学生になって風丸に出逢い、結希を共に追いかけ始めた頃は風丸のことを嫌いだと思っていた。
毎日顔を合わせることができないほど多忙なのに、学校行事になると何故か毎回必ず来る双に風丸と毎日関わっていることを知られたくなかった。母子家庭だが母親が来ない結希と父子家庭だが父親が来ない風丸が一緒にいる様を眺めていることしかできなかった。
血の繋がりを何よりも重視しているのが《十八名家》なのに、稀に結希が朝日と、風丸が雷雲と一緒にいるところを見かけると自分以上に親から愛されているように見えて。風丸が実子ではないと知っていたから、《十八名家》の誰からも存在を認められていないのに雷雲には認められている風丸が羨ましくて。寂しいと思うから、双といるよりも結希や──そして結希を大切に思う意外といい奴の風丸と一緒にいたかったから、明日菜は思い切って二人を妖目家に遊びに来てほしいと誘った。二人は最初戸惑っていたが、家の中で遊ぶことは明日菜の想像以上に楽しかった。
双は風丸が家に来ていることを知っても風丸を拒絶することはなかった。双が許せなかったのは雷雲と血の繋がっていない風丸が次期頭首扱いをされていることだけだったらしく、明日菜はそれに気づいてから、風丸を親友と呼ぶようになった。
親の目を気にして風丸には申し訳ない態度を取っていたと思うが、風丸がそれを気にすることはなく。後で当時のことを謝っても、「困る」と言われただけで。明日菜は本当に、心から、三人でいることが楽しくて嬉しくて。
高校二年生になって結希が百妖家の人間になってから、世界がずっと止まっていたかのようにひっくり返って加速して今はこんなところにいる。
……そうだ。こんなところで立ち止まっている場合ではない。
風丸と一緒に、結希に追いつこうと約束した。自分が《伝説の巫女》で風丸が土地神ならば結希のことを救えると思っていた。
明日菜の頬を風が撫でる。地下都市に風が吹くわけがない、明日菜の頬を撫でたのは人工的に作られた風で、カゼノマルノミコトの風ではない。この地下都市には、地下都市だけでも生きていけるようにというすべての《十八名家》の願いが詰まっている。だが、明日菜はまだ太陽の下を歩いていたい。
結希と一緒に、夜空に咲く花火が見たい。
春を飛び越えて夏がやって来たかのようだった。明日菜と風丸の耳に飛び込んできたのは夏の歌──《Quartz》の曲だ。
一体どこから、そう思うが地下都市すべてのスピーカーから流れているような気がする。
『みなさんお久しぶりです! 《Quartz》でーす! 少しでもみなさんに元気になってもらう為に、いきなりですがゲリラライブをさせていただきます!』
『でもでも、今は実はカナセがちょーっと忙しくて! なので今日は! セントちゃんとルカと……そしてスペシャルゲスト! 泡魚飛和穂ちゃんと一緒に歌いまぁーす!』
『和穂は休業中ですが、姉の代わりができるならと引き受けてくれましたー! 拍手ー!』
『ちょっと待って! 私あの人の妹だって公表してないんだけど?!』
騒がしい声が曲と共に聞こえてきた。明日菜は風丸と目を合わせ、何故か同時に吹き出してしまう。
去年の五月に結希と共に見た《陽陰フェスティバル》、その出場者だった二組が町民を勇気づける為に立ち上がってくれたのだろう。千都と瑠花は《十八名家》の人間ではない。表に出なくてもいい人たちなのに。
「行こう!」
告げて、風丸の手を引いて走り出す。今すぐに陽縁に会いたかった。




