八 『呟いたのは』
「涙さん! 神城さん!」
結城家の現頭首である涙の案内で地下都市へと続く廊下まで辿り着いた明日菜は、涙と大量の札を彼の下に運んできた同級生の千里の名前を呼ぶ。明日菜とカゼノマルノミコトとなっている風丸をここまで守ってきた涼凪は、涙と千里、明日菜と風丸の間に立って「早く行きなさい」と最奥にある重厚な扉を指差した。
半妖の力を継いでいない《十八名家》の女としてこの世に生を受けた明日菜は、妖怪のことも陰陽師のことも知らずにずっと生きていた。熾夏が狐に取り憑かれたから風丸神社で働いている巫女として手伝ってくれ、そう言われて儀式を手伝ったあの日から少しずつ感じていた禍々しい気配がすぐ傍まで近づいている。なのに、半妖の力を継いでいないから──陰陽師でもないから、扉の前に残って地下都市を守ろうとする涙と千里の背中を見ていることしかできなかった。
「妖目は……っ」
自分は《伝説の巫女》だ。きっとまだ役に立てる、そう言いたいのに言葉が出てこない。陰陽師であり幼馴染みでもある結希はずっと、自分が何も知らない間も最前線で戦っていたのに。
「……妖目もまだ!」
《伝説の巫女》として生まれてこなかったら、ここにさえいることはできなかったのだろう。結希と幼馴染みにさえなれていなかったかもしれない、風丸と友人になることもなかったかもしれない。
「戦う気があるのなら尚更逃げるべきよ。妖怪がここに集まっているんだから」
「あ」
確かにそうだ。少し前に、ここにいた老陰陽師たち全員がこの先にある扉を使って陽陰学園に移動している。それでも妖怪は町役場から離れなかったが、彼らがここから逃げたことが無意味になったわけではない。妖怪が陰陽師を狙っているわけではないと証明することができたから。彼らは今、陽陰学園から襲撃されている町役場を見ているから。町役場が陥落したとしても、彼らが死ぬことはないから──。
「涙さん、神城さん、絶対に勝ってください!」
明日菜は叫んで、カゼノマルノミコトの手を引っ張った。カゼノマルノミコトは明日菜から手を引こうとするが、明日菜がそれを許さない。誰かが亡くなってしまうことはとてもとても悲しいことだが、カゼノマルノミコトが亡くなることはこの土地の死を意味していた。
──土地神だけは自分の身を呈してでも救わなければならない。
風丸だけは絶対に死なせてはならない。彼の親友としてそう思わなかったのは、明日菜が土地神を救う《伝説の巫女》だからだろうか。
「ここから一番近いのは図書館だけれど、近すぎるから少し離れた場所から出るわよ」
涼凪はついて来てくれるらしい。涙と千里の様子を見ながら、明日菜とカゼノマルノミコトが地下に下りるその瞬間を待っている。
「妖目たちだけで大丈……」
「貴方たちは《伝説の巫女》と土地神様でしょう? 二人きりにはさせないわ」
自分たちは大丈夫だから、涙と千里の手助けをしてほしい。そう言う権利さえ明日菜にはなかった。半妖や陰陽師と肩を並べて戦うこともできず、土地神と同じように彼らが身を呈してでも守らなければならないのが《伝説の巫女》だなんて。
『我らは進もう』
カゼノマルノミコトは、守られているという自覚があるからか妙に聞き分けが良かった。
「……進む、けど」
《伝説の巫女》とはなんなのだろう。明日菜はまだその答えに辿り着けていない気がする。
自分は本当に力の暴走に苦しむ熾夏を救う為だけに生まれてきたのか。土地神を穢す鬼をその身に集めて土地神を救う為だけに生まれてきたのか。もし本当にそれだけだったとしても、他に何かできることがあるのではないか。
「もう一度だけ、妖目家の蔵に行きたい」
結希もきっとそこに何かあると見当をつけてあの時明日菜にそう尋ねたのだろう。明日菜は結希の期待に応えたい、明日菜は結希の為ならばなんでもできる。
「ならば急ぎましょう」
意外にも涼凪は明日菜の願いをあっさりと聞いた。明日菜は戸惑いながらも頷き、結城家の家紋である五芒星の印が刻まれた重厚な扉を全力で押す。まだ陰陽師の術で完全に閉ざされていないそれは明日菜の力だけでも開くことができ、明日菜はその先にある広大な部屋を視界に入れた。
その部屋は、町内を監視するモニター室だろうか。正面に位置する壁には映像が表示されるであろう複数のディスプレイ装置が設置されており、誰かに使われるその時を静かに待っている。無機質な部屋には扉がないように見えたが、涼凪は立ち止まってしまった明日菜とカゼノマルノミコトを置いて先に進んだ。
「ここよ」
彼女が叩いた壁は右奥にある。その壁は、壁にしては高い音を出していた。
明日菜はカゼノマルノミコトを連れて、涼凪が開けた扉の──眩しい光を放つその先へと歩を進めた。
「────」
地下都市だ。地下なのに土の匂いが一切しない──LED電球が太陽となっている無機質なこの場所に戻ってきてしまった。扉から出てきた明日菜は螺旋階段の上に立っており、誰も落下させないように設計されている高い柵の限界まで近づいて地下都市全体を軽く見回す。
ここにいる町民たちは地震によって避難してきた町民たちだ。彼らが不安そうな表情をしているのは、鬼との戦いがこの地を揺らしていたからか。それとも、誰に何を聞かなくても何かが起こっていると察しているからか。
三人は急いで螺旋階段を下り、妖目家がある方向へと走る。明日菜と風丸の体が疲れなかったのは涼凪の言霊が支えてくれたからで、すぐに妖目家へと続く十八本の柱のうちの一つが視界に入った。
その出入り口には何故か数人の人間が立っており、退いてくれないと誰も妖目家の蔵に辿り着けない。明日菜は眉間に皺を寄せて近づいていくが、その中の一人が明彦であることに気づいてすぐに表情を元に戻した。
「アキちゃん!」
人前では〝明彦〟と呼んでいるが、明日菜にとって明彦は明彦が女性として生きたいと願ってからずっと〝アキちゃん〟だ。
明彦は困ったような──そして焦ったような表情をしており、誰かを必死になって支えている。
『陽縁』
その誰かは、カゼノマルノミコトとなっている風丸の血の繋がらない叔母である陽縁だった。
陽縁は苦しいのか明彦に必死になってしがみついており、明彦と陽縁を囲んでいるのは、陽縁の夫の輝久と──妖目総合病院の助産師たちだった。
「まさかっ」
彼らを見て何が起こっているのか気づけない明日菜ではない。
「涼凪さん!」
明彦が助けを求めたのは、明日菜ではなく涼凪だった。
「お願いします! 陽縁さんと彼女たちだけでも妖目総合病院に連れていけませんか?!」
地下都市にも病院があるはずだが、一時的な避難場所として想定しているその場所では出産ができないのだろうか。涼凪は想定外の出来事に一瞬だけ固まる様子を見せたが、「……早産」と呟いてからは早かった。
「早産?!」
小倉家の次期頭首として産まれてくるであろう陽縁の子供のことを、同じ《十八名家》であり現頭首の娘がいる涼凪が気にかけない理由がない。涼凪も陽縁の子供が無事に産まれてくることを祈っていた人間の一人だ。陽縁の予定日も把握していたであろう彼女は、明彦たちが妖目総合病院を目指す理由に──医学書を読み漁っている明日菜よりも先に気づいたのだ。
妖目総合病院へと向かうには、長すぎる螺旋階段を上がらなければならない。涼凪は陽縁の体を言霊で浮かせて明彦に合図を出す。それを受け取った明彦は先陣を切って出入り口へと走り、助産師たちは陽縁の前後について、涼凪と輝久は陽縁の膨らんだ腹部に手を置いて言葉をかけ続けた。
明日菜は、その様を呆然と眺めることしかできなかった。
「あの人、死ぬのか……?」
呟いたのは、カゼノマルノミコトではなく──小倉風丸だった。




