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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第十四章 悪鬼の巫女
308/331

幕間 『いつかきっと』

 握り締めた手が冷たくなるのは、何故だろう。

 血が真っ赤な色をしてるのは──何故だろう。


『……ごめんな、おれ、おまえ、まもれな……』


 アタシの腕の中でアタシに謝っている人は、誰なのだろう。


 真っ黒な髪と真っ黒な瞳。その人は、会ったことがないのにどこかで会ったことがあるような、そんな気にさせてくる知らない男の人だった。いつかはわからないけれどずっと昔の時代の服を着ている人で、大人で、血塗れで、今にも死んでしまいそうで、アタシはまったく泣いていないのにアタシの心は悲しいと思うから──この光景を見ている時はいつも、泣いた後に感じる頭痛に苦しむ。


 これは夢だ。そのはずなのに、アタシにはこんなにも悲しい出来事を経験した記憶がない。握っている誰かの手が冷たくなるのも、誰かの体から止まることなく血が流れていくのも、全部全部経験したことがないはずなのに──何度も何度も夢に見る。

 見たことがなくても、感じたことがなくても、アタシの中に眠っている鬼の残虐性がありもしない記憶を見せているのだろうか。そう思うのに、手の感触も、血の匂いも、他の夢にはない現実性がある。アタシの中に流れている化け物の血がこの光景を欲しているのかと思うほどに、アタシは何歳になってもこの夢から逃れることができなかった。


『……にげろ、あかつばき。いき、て……』


 これが知らない誰かの記憶ならばいいのに。それが一番納得できる答えだから、いつもそう願っている。

 何度この夢を見てもアタシは絶対に男の人を抱き締めていて、その後男の人がどうなるのかわかっているのに落ちていくその手を見ていることしかできなくて、ずっとずっと合っていた目が濁っていく様を──なんとかしてあげたくて、何もできなくて、自分の無力さを思い知る。


 嫌になるくらいに見ている夢なのに、その後のことはよく覚えていなかった。


 いつもいつも、気がつけばとても低い位置から誰かのことを見上げていて。逃げ惑う男の人たちを追いかけていて、跳躍した時に使っていたのは手足ではなくて。男の人たちの恐怖に染った目に映った自分を見て、首しかないことにようやく気づく。

 いつも見ている夢のはずなのに、起きて生活している時は覚えているのに、男の人を抱き締めている時は思い出すことができない悲しい夢だ。酷い話だ。


 アタシはこの後、この人たちを噛み殺すのに──。


 どうしてアタシは、男の人がアタシの腕の中で亡くなって誰かの瞳に映った自分を見ない限りこの出来事を思い出すことができないのだろう。たくさんの人の命を奪っているのに忘れている理由がわからなくて、鬼にとって命を奪うことが些細なことのように感じて嫌になる。


 アタシは誰のことも殺したくなかった。止めてほしいのに止めてくれる人はいなくて、自分の意思で止まることもできなくて、夢だから、記憶だから無駄だって思っていつも諦める。みんな人間だから、鬼のアタシよりも弱かった。

 陽陰おういん町とそこで暮らす人たちを守る為に、シロねぇたちはアタシがちっちゃい頃から戦っている。人間はアタシたち半妖はんようが守らなきゃいけない存在なのに、アタシは傷つけることしかできなかった。


星明せいめい様!』


『怯むな! ここでおれたちが逃げたら、死んだあの男やあいつらだけではなくおれたちの家族も殺されるんだぞ! 絶対に今! こいつを討つんだ!』


 男の人が亡くなって、悲しいっていう言葉だけじゃアタシの悲しみのすべてを表現することができないのに、あの人を殺したのはアタシだと言われる。


『──ッ!』


 それが本当なら悪いのはアタシだと思うけれど、この場にいる全員から隠されることのない殺意の視線に刺されると心がちぎれそうになった。


 ──この夢では、世界がアタシの敵だった。


 目が覚めて、真っ暗な自分の部屋を呆然と眺めて、ぬいぐるみを抱き締めて眠ろうとした夜は数え切れないほど存在している。その夢を見た日はどうしても眠ることができなかったけれど、眠れないって言って誰かを起こすことはしたくなかった。


 これはアタシの問題だ。アタシ自身で原因を探って解決しないといけない話だ。誰のことも頼れないと思ったのは、眠れない理由を話した時、誰もこんな夢を見ていないことがわかったら──すごく辛くなるから。他の誰かの能力のことも、本能のことも、知りたくなかった。


 アタシは誰かに救われたり守ってもらえるような半妖じゃない。


 まだ鬼になれないけれど、そう思っている。鬼になれたとしても、それでもきっと、お姉ちゃんたちに救われたり守ってもらえるような半妖じゃない。

 そう思っていたけれど、百鬼夜行が起きた時に心春こはる月夜つきよ幸茶羽ささはよりも周りに守られていたのは、アタシだった。


 心春は誘拐されて傷ついた。桐也きりやさんの声が町全体に響き渡った時、通学路を歩いていたからアタシはすぐに愛姉あいねぇを見つけて合流することができたけれど、保育園にいた月夜と幸茶羽は愛姉とアタシが迎えに行くまでずっと保育士さんたちと一緒に待っていた。

 二人は、他の子供たちが自分の親と一緒に避難していく姿を眺めながら、ずっとずっと、泣きもせずにアタシたち姉妹の中の誰かのことを待っていた。


 助けに行くことができなかった心春と、迎えに行くことが遅れた月夜と幸茶羽。すべてを背負ってくれた愛姉にも本当に申し訳ないことをしたと思っている。

 四人のことを守れなかったのはアタシのせいではないって優しい人ならば言ってくれるかもしれないけれど、アタシはこの時──初めて、なんとかしてあげたくて、何もできなくて、自分の無力さを思い知る〝経験〟をしてしまった。


 夢じゃないのに、何かは絶対にしてあげられたはずなのに、何もできなかった。


 その事実が鉛のように重く心にのしかかる。アタシはあの夢を否定する術と気力を失ってしまった。

 アタシは誰かを傷つけることしかできないんだ。何かをしたとしても、きっと何もできないまま終わるんだ。だって、半妖のアタシがした唯一のことは人を噛み殺すことだから。そう思ったら、何も、できなかった。何かをしたいとも思えなかった。





『えー、椿つばきちゃん部活入らないのー?』


『おう! 入らないぞ!』


『なんでー? 入った方が絶対楽しいのにー』


『いいんだ、アタシは』


 中学生になって、小学生の頃からの友達にそう言われた時──アタシは嘘を吐くことができないから理由ではなくそう言って凌いだ。部活でさえも、何かをしてみたいとは思えなかった。


「椿。キミは高校でも部活に入らないのか?」


「おう! 入らないぞ!」


 友達は「入った方がいい」って言うけれど、お姉ちゃんたちは誰も「入った方がいい」とは言わなかった。みんな何かの部活には入っていたと思うけれど、アタシの気持ちを尊重してくれているのか部活にいい思い出がなかったのか。シロねぇでさえも部活に入るか入らないかを聞いただけで、「入れ」とは絶対に言わなかった。


「大学には行くの?」


 話しかけてきたのは、最近アメリカから帰ってきたしいねぇだった。しい姉のことは好きだけど、しい姉は医者になりたいって言ってちゃんと勉強してアメリカまで行って本当に医者になってしまった人だ。この人と一緒にいると、少しだけ苦しくなる。


「だ、大学って…………そもそもアタシはまだ高校生じゃないぞ?! 入学式まだしてないからな!」


 高校は行くものだと思っていたから行くことを選んだけれど、大学と言われると答えに詰まった。

 シロ姉や鈴姉れいねぇは高卒で、かなねぇは中退してる。別に絶対に行かなきゃいけないわけではない、何かを学びたいって思っているわけではないから行かないって答えでいいのかもしれない。


「つばちゃん勉強できないんだから、もし行くならスポーツ推薦貰う為にどっかの運動部には入っておいた方がいいと思うよ」


 しい姉はアタシをじっと見たまま微笑むけれど、その目が笑っているようには見えなかった。しい姉は百目の半妖だ、人の心を読む能力を持っている。どんな心を読んだとしてもそれを口にはしないから、こっちには一切伝わってこないけれど──そんな透き通った瑠璃色の瞳でそう言われると、アタシが部活に入らない理由を知られているような気がして身構えてしまった。


「つばちゃん、運動はできるからねぇ」


 そのまましい姉はニコニコと笑う。運動ができるのはアタシだけじゃない。みんな半分妖怪なんだから、他の子たちより何倍も運動神経がいいのは知っている。


 けれど、しい姉がわざわざそう言うから、鬼の子であるアタシが一番運動神経がいいんじゃないかって思う。


 アタシはいつもしい姉に揺さぶられていた。


「ていうかさー、そんなことよりもさー、シロ姉明日どうするのー? 歓迎会するのー?」


 ソファに座ったまま両足をパタパタと動かして、しい姉はシロ姉にそう尋ねる。アタシに勘づかれたことを誤魔化すようにいつもと違う言動をするしい姉は──四年も会ってなかったから性格が変わったのかもしれないけれど、明日この家に来る人のことを気にし始めた。


「考えてはいるが、明日ではないな」


「てことは土曜?」


「なるべく全員がいた方がいいだろう?」


「うぅー、そういうことならつき我慢するー」


 アタシはいつでも良かったけれど、月夜つきよは明日が良かったらしい。ただ、そもそもあのシロ姉が歓迎会を考えているとは思ってなくて驚きが先に来てしまった。

 あればいいなとは思っていたけれど、シロ姉がアタシら家族以外の誰かの為に何かをするイメージがまったくなくて、勝手にないものだと思っていたのだ。


 明日この家に来る人がシロ姉やいおねぇたちの知り合いの息子さんだからだろうか。

 他の誰かとは違う、言葉にすることはできない距離の近さをその人から感じていた。





「今日来る〝同居人〟は、実は父さんの再婚相手の連れ子なんだ」


 その知り合いの息子さんが、急に父さんの再婚相手の息子さんになった。

 なんの知り合いかは聞いていなかったから直前にそう言われても納得──いや、できるわけない。


「連れ子ぉ?!」


 アタシだけでなく、傍にいた心春こはる月夜つきよ幸茶羽ささはも驚いていた。


「あぁ、そうだ」


 シロねぇは隠していたことを悪びれる様子もなくさらっと言う。鈴姉れいねぇ朱亜姉しゅあねぇとわかねぇは驚いていなかったけれど、知っていたわけでもなさそうだった。


 同居人。その人が来るって聞いた時、正直不安を感じていた。だってアタシたちは全員半妖はんようで、普通の人には半妖だってバレちゃいけないのに一緒に暮らすなんてことはできっこない。毎晩妖怪退治で家を空ける時に不審がられたらなんて説明する? 愛姉あいねぇが突然豆狸に変化へんげしちゃったらなんて説明する?


 そう思っていたけれど、シロ姉もいおねぇもかなねぇでさえもその不安を口には出さない。だから多分大丈夫なんだろう。相手が一時的な同居人じゃなくて──連れ子っていう家族になっても。


『……ぎゃぁぁぁあ?!』


 そう思った矢先に愛姉の悲鳴が聞こえてきた。


「ッ!」


 愛姉に何かあったんだ。百鬼夜行が終わった二年後に鬼に変化できるようになったアタシは、小さな豆狸になる愛姉を救いたくて、守りたくて、アタシなりに頑張ってきた。だから今回も絶対に守るんだ、そう思って悲鳴が聞こえてきた方向──廊下への扉を全力で開ける。瞬間、何かを突き飛ばしたような感触がした。


「愛姉! どうし……って、うわぁぁぁあ!?」


 直後にアタシの視界に飛び込んできたのは、豆狸姿の愛姉と──頭を押さえる、真っ黒な髪と真っ黒な瞳を持った男の人だった。


 ──なんで。


 また例の夢を思い出す。その人も、会ったことがないのにどこかで会ったことがあるような人だったから。

 着ている服はアタシが明日から通う陽陰おういん学園の男子制服で、年齢は確かアタシの一個上で、雰囲気もまったく違うのに、あの男の人と似ている顔立ちだったから──心配していた光景が目の前に広がっていた驚きがどんどんと萎んでいく。


「あっ、ご、ごめ……落ち着……」


 その人が動いた。声も似ていないけれど、例の夢の中の男の人はまったく動かなかったから──幽霊を見ているようでまた驚く。


椿つばき愛果あいか! 黙れッ!」


 瞬間にシロ姉に怒鳴られた。シロ姉は怒ると怖い。顔を真っ赤にして怒る人ではなく周囲を雪景色にして怒る人だから、言うことを聞く。

 シロ姉は、男の人の襟首を掴んで廊下の奥へと連れて行った。


「あっ、いや、俺は不審者なんかじゃないです! 誤解しないでください!」


 わかっている。あの人が同居人で連れ子だって。

 でも、あの男の人じゃない人が良かった。夢の中の男の人もあの男の人も悪くないけれどそう思う。瞬間に男の人と目が合った。


 男の人の視線はアタシやアタシの後ろまで来ていた月夜たちから床に倒れている愛姉へと移っていく。

 気絶しているわけではなく、愛姉は今、全力でぬいぐるみを演じていた。


「……!」


 慌てて愛姉を抱き上げて後ろに隠す。シロ姉は、男の人を連れてどんどんと階段を下りていった。


「驚いたのぅ」


 朱亜姉が呑気なことを言っている。


「どっ、どうするんだ?! 見られたぞ……?!」


 アタシは小声でみんなの反応を伺うが、鈴姉と朱亜姉とわか姉の反応は薄かった。心春は男性恐怖症だからそもそも近づいてこないし、月夜はずっと黙ってるし、幸茶羽は興味がなさそうにしている。


「ホントごめん……」


 アタシの手の中で人間の姿に戻った愛姉は申し訳なさそうにしていたけど、アタシは愛姉を責めようとは思わなかった。


 だって、誰も悪くないから。人間を噛み殺していたアタシに比べたら、誰も。みんないい人たちだからいつだって怒る気にはならなかった。



「彼が間宮結希まみやゆうきだ。まぁ、今日から百妖ひゃくおう結希となるのだがな」



 気を取り直したシロ姉が男の人を紹介する。アタシたちの紹介は自分でやれと言われたから、上から順番にどんどんと自己紹介が始まっていった。


「九女、愛果」


 さっきまでしゅんと落ち込んでいたのに、愛姉は怒気を込めた声で名乗る。


「もしかしてさっきの子? ごめん、まさか人がいるとは思わな……」


「うるさい! ウチはアンタの先輩だから、敬語を使え! 敬語!」


 愛姉はアタシや心春よりも身長が低いから、男の人の一個上には見えなかったんだろう。愛姉は山吹色のパーカーを脱いで胸ポケットの校章を見せ、「わかった?」と睨み上げる。

 ただ、男の人は校章で学年を確認しても信じられないとでも言いたげな視線で愛姉を見ていた。


「どこ見てんのよっ!」


「ぐほぉ!」


 いつも以上に機嫌が悪い愛姉の飛び蹴りが男の人のお腹に当たる。愛姉は本気を出してないんだろうけどすっごく痛そうだったから、アタシは駆け寄って男の人を抱き留めた。


「愛姉、やり過ぎだって!」


 様子を確認しようと思って視線を上げると、男の人も振り返ってアタシを見下ろす。


 夢の中の男の人とほとんど似ていないけれど、やっぱり顔立ちは似ている気がする。こんなにも近くにいるのに悲しい気持ちにはならなくて、むしろ──何故か、会えて良かったと思えてくる。

 会えて良かった。会いたかった。夢の中に出てきた知り合いでもない恋人にようやく出逢えたかのような、欠けていたものが埋まったかのような、そんな感覚が一瞬で走る。男の人もそうだったら良かったのに、とくんとくんと心臓が動いたのはアタシだけだった。


 アタシがさっき扉に頭をぶつけてしまったのが悪かったのか、男の人は急に片手で頭を押さえて痛みに耐えるような表情をする。


「だっ、大丈夫か?!」


「……大丈夫、ありがとう」


 男の人はアタシに微笑んでくれたけれど、アタシは怖かった。この人を失いたくないと思ったから。だからじっとその目を見つめる。男の人もアタシの目を見つめ返すと、おかしな間が誕生してしまった。

 なんでそんなに見てくるんだろう。アタシの顔に米粒か何かがついているのだろうか。小首を傾げ、さっきまで自己紹介をしていたのが愛姉だったことを思い出す。


「あ」


 そうだ。次はアタシの番だ。嫌な印象が残らないようにきちんと笑って、視線を少し逸らしたその人の瞳を追いかける。



「アタシは十女の椿! 今年から高一になるから、よろしくな! 先輩!」



 どうしても、この人と仲良くなりたかった。


「よろしく、椿ちゃん」


 ようやく笑ってくれたこの人のことをもっともっと知りたかった。この人との学校生活はどんな風になるのだろう。久しぶりにわくわくしていると、シロ姉から睨まれた。


「ちょっと待て。キミたちは先輩後輩である前に、兄で妹だろう」


「あっ、そっか!」


 楽しくなってきたから、この人が──結兄ゆうにぃが父さんの再婚相手の連れ子であることを忘れていた。そして、連れ子であるということはこの人がアタシの義理の兄になるということで。

 毎日つまらないなぁと思って過ごしていたわけではないけれど、何かとんでもない日々が始まるような気がしてテンションが上がる。


 出逢う前に感じていた不安は、アタシの中のどこにもなかった。





 その日の夜、妖怪退治のメンバーに選ばれたアタシは張り切って一反木綿いったんもめん変化へんげした鈴姉れいねぇに乗り込む。


 これから絶対にいいことがある、そう思ったからどんな妖怪でも臆することなく戦えた。


「どうした椿つばき。今日は調子がいいな」


 シロねぇが珍しく褒めてくれる。


「ユウのおかげ?」


 わかねぇにはお見通しのようだった。


「おう!」


 嬉しいから木の上で飛び跳ねる。どうしてこんなにも喜びが自分の中から溢れ出してくるのだろう、シロ姉もわか姉もアタシのことを珍しそうに眺めていた。


「あ……」


 瞬間、わか姉が何かに気づいて耳を澄ませる。猫又の半妖はんようのわか姉がそうしているから、シロ姉もアタシも大人しくする。


「……あっち!」


 わか姉が百妖ひゃくおう家の方を指差すと、遠くにいた鈴姉が飛んでくる。

 鈴姉に飛び移ったアタシたちはわか姉が何に気づいたのかわからなかったけれど、百妖家に近づいたら全員が妖怪に囲まれた結兄ゆうにぃの気配に気がついた。


 すぐにどこに行けばいいか理解した鈴姉が方向を少しだけ変える。行き先は百妖家ではなく墓地だ。

 わか姉の隣で目を凝らすと、墓地に結兄がいて。妖怪が一斉に襲いかかろうとしていた。


「任せろ」


 わか姉と一緒に飛びかかろうとしたけれど、妖怪の数の多さを考えたシロ姉が一歩前に出た。アタシはわか姉と視線を交わらせ、別々の木に飛び移る。


 この人を失いたくない──。そう思ったその日中にどうして死にかけるんだろう、あの人は。


 アタシのせいなのかな。アタシが半妖じゃない誰かを救いたいと思って、守ろうとしたのが悪かったのかな。

 シロ姉が能力で妖怪を凍らせて、その冷気で一瞬だけ雪が降る。


「間に合った、か」


 やっぱり、誰かのことを守れるのはずっと戦ってきたシロ姉たちなのだろうか。

 シロ姉は結兄の目の前に着地して「下がっていろ」と命令する。なのに、結兄はここまで聞こえてくるほどはっきりとした声で「嫌です」と答えた。


 ──なんで。


 なんで妖怪を初めて見たはずなのにそんなことが言えるんだろう。近づいたら死ぬってわかってるのに。なんで。


 シロ姉は結兄を無視してさらに増えてしまった妖怪を吹雪で凍らせる。これでしばらく増えないはずだ。だから。


「やれ!」


 ずっとシロ姉からの合図を待っていた。


「おう!」


 木から下りて片手を振り、薙刀を出現させてくるくると回す。凍った妖怪はアタシに攻撃することもできずにアタシの薙刀の餌食になって、死んでいく。

 競っていたわけではないけれど、わか姉よりも多くの妖怪を砕きたかった。シロ姉たちお姉ちゃんに対する憧れや引け目、結兄に対する罪悪感は、多くの妖怪を倒すことでしか消せなかった。


 まだ、妖怪を殺して楽しいと思う気持ちはない。


 やっぱりあの夢はアタシやアタシの中に眠る鬼の願いではないのだ。誰かを傷つけることしかできないなんてことはない。百鬼夜行の時に何もできなかったのは仕方がない、今は鬼の姿になれるから──アタシは過去のアタシを超える。

 結兄に視線を移すと結兄はぽかんとした表情でアタシたちを見ていた。妖怪や半妖を一度に見たのに、なんで結兄は怖がらないんだろう。変わった人だな。無事で良かったな。わか姉と同時にほっと息を吐いた。


「危ない!」


 瞬間、結兄の鋭い声が墓地に響く。危ない? 何が? アタシはすぐに動くことができなかったから、右足首を何者かに掴まれてしまった。


「うきゃあっ!」


 しまった。どうにかしなきゃ。けどどうすればいいんだろう、力ずくでは振り解けなくて、右足首を薙刀で切断するしかないのかと迷って、一瞬だけシロ姉とわか姉の様子を確認する。

 二人は反撃しようとしていたけれど、アタシを傷つけたくなかったのか攻撃するのを躊躇っているように見えた。


 アタシ、今、二人の足を引っ張ってる。


 愛姉あいねぇ心春こはるはお姉ちゃんたちの足を引っ張らずに上手くやれているのに、どうしてアタシは上手くできないんだろう。


 アタシは誰かに救われたり守ってもらえるような半妖じゃない。鬼になれたとしても、それでもきっと、お姉ちゃんたちに救われたり守ってもらえるような半妖じゃない。


 忘れようとしていたから本当に忘れていたけれど、思い出してしまった。

 アタシはそういう宿命の半妖なんだって小さい頃から気づけていたのに、どうしてそう思った通りの出来事が起きるんだろう。結兄のことも、失いたくないって思わなきゃ良かったのに──



りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん!」



 ──その声と言葉は、アタシに後悔をさせてくれなかった。


 視線を上げて、結兄がシロ姉の前に飛び出していたことを知る。

 結兄は今、何を? 見たことがないのにどこかで見たことがあるような気がする。右足首を掴んでいた手は離れていって、どうしてそうなったのかはわからないけれど消えていった。


「く、九字くじ……?」


 九字。今のが? やっぱり聞いたことがないのにどこかで聞いたことがあるような気がする。

 脳の奥がびりびりと痺れてきた。気分が悪くなる、アタシの中に本当に──何かが眠っているのだろうか。


 気づけば崩れ落ちていた。自分自身が怖かったけれどそれと同じくらい死ぬことも怖かった。死にかけなければきっと一生気づかなかった。

 何も見えないと思ったのは視界が真っ暗になったからだけど、差し伸ばされた手には気づく。その手の持ち主はシロ姉でもわか姉でもなく結兄だった。


「────」


 顔を上げなくてもわかる。だって、女の人の手じゃなかったから。

 思わず手を伸ばす。その手に指先だけでも触れると、向こうからしっかりと繋いでくれた。


「っ」


 思わず手を引きそうになったけれど、どうしても結兄の手を振り解くことができなかった。アタシよりも結兄の方が力が強いなんてことはありえない。アタシの力が抜けてしまったんだ、だってそうじゃないとアタシのことを引っ張って立ち上がらせたことに対する説明ができない。

 結兄の瞳の中に映るアタシは鬼の姿をしている。なのに手を差し伸ばして引っ張りあげてくれたの?


 いや、でも、結兄は妖怪が見えているようだった。普通の人には妖怪が見えないはずだから、結兄はきっと普通の人じゃない。

 じゃあ、結兄は誰? どうやって妖怪を殺したの?


「結兄、なんで……」


 聞きたいことがたくさんあった。結兄は、アタシやシロ姉たちが自分の家族になったアタシたちだって初めから気づいていて、救けてくれたの?


「結兄、って……」


 結兄は、少しだけだったけれど驚いたような声を出した。口をぱくぱくとさせて、じっとアタシの目を見つめ返すから──気づいていなかったんだとアタシも驚く。


 ──なんで?


 なんで結兄はアタシのことを救けてくれたの?


結希ゆうき、キミは──」


 人間の姿に戻ったシロ姉が結兄に声をかける。


麻露ましろさんですよね?」


 シロ姉が視線を伏せるとわか姉も人間の姿に戻った。


「ユウ、バキちゃんを助けてくれてありがとう」


 そう。わか姉の言う通り。アタシは今、結兄に救けてもらったのだ。守ってもらったのだ。


 アタシは誰かに救われたり守ってもらえるような半妖じゃない。だって人間を噛み殺す鬼だから。力が強いから、そうされる側じゃなくて少なくともする側にならなきゃいけないんだって思ってたのに。


 泣いてしまいそうだった。


「椿ちゃん、怪我は?」


 ない。ないよ。アタシは無事で、元気で、鬼だから、心配なんてしなくていいのに──結兄はアタシのことを心配してくれるんだ。


 泣かないようにしようとしたけれど、駄目だった。


「うぇ……うっ、うわぁあああん!」


 涙が止まらない。こんなに泣いたのは産まれて初めてかもしれない。

 結兄を困らせるだけだと思うから止めなきゃって思うのに、そう思えば思うほど、情けないくらいに泣いてしまう。この後はきっとあの夢を見た日の夜のように頭痛に苦しむのだろう。



 ──世界は敵ばかりではなくて、アタシはアタシが思っている以上に強くはない。



 何かを成し遂げたわけでも何かをしていたわけでもないけれど、ずっと張り詰めていた気が抜けていった。

 頑張ろうとしていたけれどその頑張りは無駄で、誰も救けてくれないと思っていたけれどそれは思い違いで。ずっとみんなと一緒にいたのになんとなく寂しかったから、理性をかなぐり捨てた〝本能〟で──ぬいぐるみを抱き締めるように結兄のことを抱き締めた。縋るように泣き続けた。


 アタシの背中に触れた手の持ち主も、結兄だった。ゆっくりと撫でてくれるその優しさは、小さかった頃シロ姉がよくしてくれていたものに似ているようで似ていない。結兄はシロ姉でもアタシの母さんでもないから。


「…………っ」


 今日知り合ったばかりなのに、そうしてくれるとすごく落ち着く。ほんの少しだけだけど自分のことを好きになる。息を整えたら、止めどなく溢れていた涙が引っ込んだ。


「結兄、ありがと」


 シロ姉はシロ姉でいおねぇはいお姉だから、結兄は結兄だ。そう思って〝結兄〟と呼んでいたけれど、ずっとアタシのお兄ちゃんだったかのような安心感を覚える。

 帰るべき場所で、安らげる場所で、ずっといたいと思える場所。


 心からの笑顔を結兄に見せることはできなかったけれど、涙を拭ってアタシは笑った。


 何がいいことなのかはわからない。それでも確かにアタシの中で欠けていたものが埋まっている。


「どういたしまして」


 結兄は笑い返してくれた。その笑顔が好きだった。





 六月。結兄ゆうにぃの母さんが帰ってきたことを知って、その人に早く会いたくて陰陽師おんみょうじの定例会をしている結城ゆうき家に行く。

 百妖ひゃくおう家と結城家が犬猿の仲だからか胸がざわつくのを感じていて。マンホールから飛び出してきた妖怪がざわざわの正体なのだと思った。


 一緒に来ていた心春こはるがアタシが町中で戦うのはよくないって言って、けれどアタシは、どうしてもここから去りたくなかった。


 心春も結兄も弱くない。わかってるけれど二人を置いて──襲われている結城家を無視して逃げることは絶対にできない。

 今のアタシは鬼の姿になれるから。結兄に救けて、守ってもらったけれど、みんなの足を引っ張ったままは嫌だから。戦いたかったのに結兄が適材適所だって言うから、アタシは結兄を頼る。ただそれだけだったのに少しだけ悲しかった。


『個人別総合優勝高等部一年は百妖椿つばきさん。高等部二年は百妖結希ゆうきさん。高等部三年は百妖愛果あいかさんです。おめでとうございます』


 その一週間後の体育祭で、愛姉あいねぇと結兄と一緒に名前を呼ばれたのは嬉しかった。


「椿さん大活躍だったね! もし良かったらバスケ部に入らない?! 来月練習試合あるから出てほしいんだけど!」


「ちょっと待った! バレー部に入らない?! 人数足りないの!」


 体育祭後の学校で受けたのは、たくさんの先輩たちからの勧誘だった。入学式の時にあった部活動勧誘を避けることはできたけれど、これは避けられない。


「テニスはどう? 興味あるなら来てよ!」


「サッカーは駄目?! バレー部は最低人数揃ってるけどこっちは廃部寸前レベルで人がいないの!」


 先輩たちから伸ばされる手をすべて取ることはできなかった。そういう意味では困るけれど、誰かに必要とされることが今のアタシにとっては何よりも嬉しいことだった。

 困っている人がいたら救けてあげたい。なるべく多くの人を救けてあげたい。アタシはアタシのちっぽけな欲を満たす為に、敢えてすべての手を取った。試合で活躍すればするほどに、こういう風に活躍したかったわけじゃないと思いつつ──アタシはまだ生きていていいんだと思えた。


 七月。あぐねぇが狙われて陽陰おういん学園に緊急避難命令が出た時、アタシは一人で戦う心春を見て涙が溢れた。心春に辛い思いをさせたこと。お姉ちゃんなのに守れなかったこと。アタシはまだ引きずっていたから心春が一人でも妖怪に立ち向かえる強さを得たことが嬉しくて。結兄から「頼む!」と言われたことも嬉しかった。


 八月。百妖家が襲撃されていることに気づいて急いで帰ったのに、退魔の札に阻まれて何もすることができなかったことは悲しかった。

 九月。翔太しょうたとダブル主演をやった文化祭の映画を宣伝している時に起こったのは、結兄と陰陽師の裏切り者の戦いで。その戦いに気づくことさえできなかったことも悲しかった。


 十月。月夜つきよ幸茶羽ささはを含めた全員で陰陽師の裏切り者たちと戦えたことは嬉しかった。目を覚まさないまりねぇ以外の全員が揃って戦いに出たのは初めてだったと思うから、仲間外れにされなかったことや役に立てたことは──大切にしたいと思えるくらいに失いたくない事実だった。

 十一月。阿狐頼あぎつねよりや陰陽師の裏切り者たちが風丸かざまる神社を襲撃した時、妖怪に囲まれていた結兄を救ったのはアタシじゃなかったけれど──その場面に間に合うことができたのは嬉しかった。



「──私たちは、家族じゃない」



 十二月。血の繋がりを疑ったことは一度もないのに、突然真実を告げられて。アタシたちは姉妹だから能力や本能が違っていてもどこかでわかり合えると思っていたのに、そんなことはなかったのだと思い知った。


結希キミのせいじゃない。私自身ももう疲れたんだ」


 甘えていたつもりはなかったけれど、アタシはずっとシロねぇに甘えていたんだと思う。色んな部活に助っ人に行く為に借りた道具のレンタル代、食卓に並ぶご飯に、洗濯されて畳まれていた服。気づいていないだけで他にも絶対に──してもらっていたことはたくさんある。


「あっ、つ、疲れてたのか?! シロ姉、そういう時は飯だっ! 飯を食べたら元気になる! ほら、ここにこーんな美味そうな飯がいっぱいあるだろ?!」


 シロ姉には元気になってほしかった。どんな人間でも美味しいご飯を食べたら絶対にその人の力になるから。栄養と筋肉は絶対に自分を裏切らないから。


「えっと……アタシは絶対出て行かないからな!」


 出ていかなくちゃいけないのはわかっている。そうさせるつもりでシロ姉はそう言ったんだし、ここにいる姉妹はもうシロ姉とアタシと出ていった幸茶羽の帰りを待つ月夜しかいないから。


 でも、アタシはまだこの家から出たくない。みんなみたいに自分の能力と本能と生まれてきた家に向き合えない。一人で《十八名家じゅうはちめいか》の鬼寺桜きじおう家に立ち向かえる強さもなかった。


 祠が襲撃された時、アタシは家に一人ぼっちだったまり姉の傍にいた。

 祠に来ていたのは結兄とあぐ姉と紫苑しおんと月夜。紫苑と月夜は胸騒ぎがするって言ってたから、消去法でアタシが行くべきだと思って迷うことなく町を駆けた。



「俺は椿ちゃんを巻き込みたくない」



 一月になっても、結兄はアタシのことを〝椿ちゃん〟って呼ぶ。

 心春こはるのことは心春って呼ぶし、月夜のことは月夜って呼ぶし、幸茶羽のことは幸茶羽って呼んでいるのに──アタシだけ。それを特別だと思ったことは一度もなかった。初めて会った時、どうしても仲良くなりたいって思ったのに。


「アタシは、結兄のことが大切だよ」


 大切だから、結兄が困っている時は力になりたい。アタシじゃなんの力にもなれないかもしれないけれど、結兄の父さんと真菊まぎくが阿狐頼の家から帰ってこないって言われたらやっぱり助けに行きたいと思う。


 巻き込まれたなんて思わないから。お兄ちゃんだと思ってるから、ほんの少しだけでも頼ってほしかった。


「俺も、椿ちゃんが大切だよ。椿ちゃんが思っている以上に」


「うそ……」


 本当に? でも、結兄が嘘を吐いているとは思いたくないし思わない。


「本当に。椿ちゃんだけは、姉さんとも、兄さんとも、妹とも、弟とも、違うから」


 その瞳は、アタシが今まで見てきた結兄の瞳とは違って見えた。夜空に雨が降ったかのようなそれは、結兄が本当のことを言っている証だって思えた。


「……結兄、アタシのことあまり好きじゃないと思ってた」


「えっ、なんで?!」


「だって、結兄、姉さんたちと一緒にいる時の方が楽しそうだったから……」


「えっ」


 結兄には自覚がなかったらしい。お姉ちゃんたちには塩対応をして、アタシにはちゃんと向き合ってくれる。それさえも特別だとは思わなかった。


「なんか結兄ってアタシたちにだけ〝よそよそしい〟というか……姉さんたちと並んで歩いてる時くらいしかキョーダイって思われなかっただろ?」


 アタシはずっと、初めて会ったあの日から結兄のことをお兄ちゃんだって思っている。

 じゃなかったら〝結兄〟って呼んでいない。


「本当に、姉さんたちと同じように……アタシにも遠慮なく、自然体でいてほしい」


 ずっと、初めて会ったあの日から思っている。



「アタシ、結兄のことが大好きだから」



 嫌いになるわけがない。こんなアタシのことを救けてくれた結兄のことを。


「かっこ悪くなったとか言うなよ……?」


「大丈夫大丈夫! そっちの結兄の方が絶対に大好きだから!」


 かっこ悪いと言うわけがない。世界で一番かっこいいアタシのお兄ちゃんを、誰にも馬鹿にさせないよ。



 アタシは結兄とずっと一緒だ。



 それが、アタシが百妖家に残ったもう一つの理由だった。ただ、家に残っても残らなくてもみんな結兄と一緒だった。


「やっぱり……見えるか?」


 みんなで楽しく暮らしていたある日、アタシたちは陽陰町では珍しい日本人ではない女の子と陽陰町でさえ珍しい和服を身に纏う男の人と出逢った。

 確かめるようにそう言った結兄の不安の理由も、アタシの不安の理由もよくわからなくて──戸惑う。


「いいえ……いいえ。私が知っている貴方の名前はそうじゃない、貴方の名前は──百妖結希君です」


 その言葉でみんなの世界がひっくり返った。


「ひゃ、ひゃくおう……? ひゃくおう? アタシの、名前は……?」


 そうだ。アタシの名前はずっと、百妖椿だった。それ以外の名前になったことはまだないはずだった。アタシは芦屋あしや椿じゃない。


 忘れていた記憶が蘇っていく。六年間ずっと眠っていたまり姉と、末っ子の月夜と幸茶羽が覚醒したこと。なのにアタシはまだ覚醒していないから──百妖家のお荷物になっているということ。


「アタシも……けど、だけど、アタシは自分の力のことよくわからないから捜索に行くよ」


 自分のことが嫌いになる。結兄が大切だって言ってくれたのに。

 自分を嫌いになっちゃ駄目だ。少しでも好きになる為にはどうする? アタシは──戦わなくちゃ。妖怪と戦って、役に立って、勝って、それで。それで、アタシは満足するのだろうか。


「はぁ──ッ!」


 斬り落としたのは天狐てんこの首だ。こいつが阿狐頼。あぐ姉を食ってる悪いヤツ。

 結兄に言われて行った鬼寺桜家の蔵で見つけたこの刀の切れ味に驚いていると、「まだだッ!」と言うあぐ姉の声が聞こえてきた。見るとアタシが斬り落とした天狐の首から瘴気が溢れている。


 ──アタシのせいだ。アタシがなんとかしないと。


 アタシたちを瘴気から守る為に結兄が結界を張ろうとする。他の人はともかく、アタシにはそんなことしなくていいよ。結兄、もういいんだよ。


「アタシが一番瘴気に強いからッ! ここじゃないとみんなの役に立てないからッ! だからッ、守らなくていいからッ! アタシはもう弱くないからッ!」


 そんなつもりはなかったのに泣き叫んだのは、今まで外に出さないようにしていた扉が壊れたからだった。溜めていたものが溢れていく。もう止められない。


「お願い結兄!」


 一生に一度の我儘を言わせて。アタシのことは許さなくていいから、今だけ全力で戦わせて。


「わかった──」


 同じ半妖はんようでも能力と本能が違うから誰もわかってくれない時がある。でも、結兄はわかってくれる。


「──頼む!」


 背中を押してくれる。天狐の瘴気に包まれながら、アタシは夥しい数の妖怪の下へと走った。天狐はしいねぇやあぐ姉でもなんとかなるけれど、この数の妖怪を止めることができるのはアタシだけだってわかってたから。


『──……ヤヒコ』


 足を思わず止めそうになった。何かとてつもない力を持つ妖怪が現れるような気がしたから。


『ナゼ、イキテイル』


 そいつは、アタシが妖怪に囲まれてもまったく紛れることのない存在感を放っていた。


『ナゼ』


 どこにいる? こんなにもはっきりと声が聞こえるのにわからないなんて。

 みんなが危ない。この妖怪が現れたら、アタシがなんとかしなくちゃ──


『ナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼナゼ!!!!』


 ──ぞっとした。アタシは、この怒りを覚えている。


「そこに、いるの……?」


 妖怪を殺しながら尋ねた相手は自分の中にいた。

 アタシはずっと、自分の中に鬼が眠っていると思っていた。鬼の姿になれた瞬間にそれは消えたと思っていたけれど、本当に、アタシの中にはアタシではない鬼が眠っているらしい。


 いるなら絶対に出てこないで。アタシの邪魔をしないで。


 自分でも信じられないくらいの力が溢れてくる。今まで以上の妖怪を一度に相手して、天狐と戦う結兄たちのところに行かせなかったから役には立っているはずで、あぐ姉が天狐に勝ったからアタシも勝てて。なのにやっぱり満たされない。


 アタシの中に流れている化け物の血が、こんなのを欲していないから?


 自分が本当にあの光景じゃないと満たされないくらいに欠けているなら、その時が来たら、自分で自分を退治しないと。アタシはまだ、生きていていいよね?


『アイシテル』


 うるさい。


『アイシテル』


 うるさい。


「結兄は一人じゃないよ。アタシがいる。ずっと、アタシは結兄の傍にいる。結兄を愛することができるのはアタシだけ」


 もう黙って。


「は?! 何言ってんの椿! ぶっ飛ばすよ?!」


 ────。



「愛してるよ、結兄」



 ────。


「椿……?」


 結兄の戸惑う声が聞こえてきた。あれ、アタシ今何してたっけ。……あぁそうだ。結兄にバレンタインのチョコ渡してるんだ。あれ、結兄なんで受け取ってくれないの? みんなのチョコは受け取ったのに。なんでアタシのだけ──。


「あ、えっと、やっぱりアタシのは要らないよな! ごめん結兄!」


 ──なんでじゃない。アタシだってアタシが作ったチョコは要らない。

 いいなぁ、みんな。覚醒してて、結兄にチョコを受け取ってもらえてて。


「要る」


 顔を上げると、結兄がアタシから奪い取ったチョコを大切そうに握っていた。

 アタシはすぐに受け取ってもらえなかったけれど、結兄から「要る」って言われて奪い取られたのはアタシだけだ。


「ありがとう」


 結兄が最初にそう言った相手もアタシだから、これは誰がなんと言おうと特別だと思える。アタシの大切な思い出の一つだった。





 アタシの中に眠る鬼は、大切な人を殺されたらしい。喋るようになった鬼からその話を聞かされて、ずっと見てきた夢の真実を知る。


『……マモ……ル』


 アンタも、そうだったのか?


『ユル、サ、ナイ』


 大切な人を殺されたから、アンタはそう言っているのか?


『シキミゴゼン』


 アタシの中いる鬼が囁く。


『ズルイ』


 アタシの予想は鬼によって否定された。


 結兄ゆうにぃの父さんを追いかけて京都に来ていたアタシたちは、封印を解かれた鬼の瘴気に覆われる。それだけだったらすぐに動けたけれど、地震と──あまりにも大きな鬼の攻撃がアタシたちに襲いかかった。


「ッ」


 アタシは鬼だからそれを受けてもすぐに動くことができたけれど、瘴気に意識を奪われかける。

 そんなことあるはずない、だってアタシは鬼の半妖はんようだから。鬼の瘴気にやられるなんて──。


『いたぞ! あそこだ!』


『待て! 〝あれ〟は殿を誑かした大妖怪だ! 油断するな!』


『どうする?! 倒すのは無理だ!』


『──ッ、封印する!』


 ──足を大きく踏み出して、なんとか意識を取り戻すことに成功する。倒れていない、怪我もしていない。早く鬼を追いかけないと。


『イヤダ』


 そう言ったのは、アタシでもアタシの中の鬼でもなかった。千年前に封印されたあの鬼が言った言葉で、あの鬼の目覚めによって世に放たれたあの日の欠片だ。


『いいのか?! 殿の命令はあの鬼を殺すことだぞ!』


 瞬間に体の中に流れ込んできたのは、絶望だった。


 ──アイされているはずなのに。


 そう思っていた鬼の感情がアタシに刺さる。愛し愛されたはずの人から討伐命令を出され、陰陽師おんみょうじの手によって封印された京都の鬼と。愛し愛された人を亡くし、多くの陰陽師を殺したアタシの中の鬼。二人は似ているようで肝心な部分が違っていた。


 樒御前しきみごぜん紅椿あかつばきに狡いって言う気持ちはわかる。だって紅椿は愛した人に最期まで愛されていたから。

 紅椿が樒御前に狡いって言う気持ちもわかる。だって樒御前は愛した人を亡くしていないから。


 樒御前は千年間眠っていた。だから陰陽師を殺すことしか考えていない。紅椿は千年間鬼寺桜きじおう家の現頭首と共にこの世界を生きていた。愛した人の魂と恋に落ちて結婚して、妖怪を殺し続ける半妖と陰陽師をずっと見てきた。


 初めて会った時から結兄のことが大好きだったのは。ずっと一緒だと思っていたのは、アタシの感情じゃなかった。


 それは身を引き裂かれるくらいに辛い事実だけれど、愛した人を目の前で亡くして、人間と妖怪の戦争を千年間も見ていることしかできなかった紅椿も辛かったらしい。


『だから俺は、妖怪と共存する道を選んでほしいんです。断ち切りたいんです、千年後も平和な世の中である為に』


 紅椿が愛した人の魂を持っている結兄。紅椿が忘れていた千年前の願いを叶えようとしている結兄。



『──ワタシハ、ソノ〝タマシイ〟ヲ、アイシテイル』



 アタシと紅椿は繋がっているから、アタシは、そう言った時の紅椿がどんな気持ちだったのかを知っていた。

 愛した人の魂と恋に落ちることができないと諦めて、でもその人はこの千年間で初めて妖怪と共に生きる道を選んだから──切なくて、でも嬉しくて、愛しくて、初めて相手の幸せを願ったのだ。


 アタシは紅椿の想いを絶対に忘れない。紅椿が身を引くならアタシも身を引くし、紅椿が結兄の願いが叶うことを祈るならアタシは何があっても結兄の願いを諦めない。


 樒御前。大好きだからその人から裏切られて辛かったんだよな。でも、樒御前は本当に愛されていたと思う。だって樒は魔除けに使われるから。守る為にそう名づけられたんだって思うから。


 結兄はアタシを裏切らない。結兄がアタシの目の前から去ることはあっても死ぬことはない。でも、それだけだ。それ以上の幸せはアタシにはない。でも、それ以上の幸せを求めるのは贅沢だ。


 別に卑屈になっているわけじゃない。だってこれが人生だもん。上手くいかないことの方が多いってわかってるもん。

 その中でたくさんのいいことを見つけるんだ。そうしていたら、いつかきっと素敵なことが起きるって信じているから。


「アタシはアタシの命を誇ってるから! だから、生きてアンタを倒す!」


 いつかこの町でまた逢えたら、樒御前にも素敵なことが起きるように頑張るから──。


 一年前、アタシはこの墓地で結兄に救けてもらった。あの日の出来事はアタシにとって一生の宝物になっている。だから、シロねぇが能力で妖怪を凍らせてその冷気で一瞬だけ雪が降った時──あの日が脳裏を駆け巡った。


椿つばき、やれ」


「……あ、アタシでいいのか?」


「貴様以外の誰にやらせろと言うんだ」


「あえっ?! やっ、ち、違う……! アタシがやる! アタシが! う、うん、アタシが……!」


 深呼吸をして《紅椿》を構える。


「────ッ!」


 振り下ろすと、砕かれて散った氷の粒が一瞬にして桜吹雪へと変化する。

 美しいとしか言いようがないその光景に見とれていると、大きな桜の木の下に〝アタシ〟が立っているのが見えた。


 アタシ──いや、紅椿はじぃっとアタシのことを見つめている。


「なぁ!」


 声をかけた。


「戻って来いよ!」


 紅椿はアタシが産まれた時からずっとアタシの中にいたから、今さら姿を現されても困る。


「ここにいてくれよ! じゃないと結兄が願いを叶えるところ見れないだろ?!」


 見届けてほしかった。千年間ずっと愛した人の死の夢を見続けてきた彼女に。なのに首を横に振られる。


「なんで!」


『ツバキ』


 その声色は、初めて聞く──とても心地の良い陽だまりのような声色だった。



『サヨナラ』



 そう言って微笑む紅椿にアタシは何を言えばいいのだろう。


「……結兄」


 手元の《紅椿》が刃こぼれしている。峰を叩けば刀は簡単に折れるらしい。


「行くぞ」


「うん」


 結兄が《鬼切国成おにきりくになり》を振り翳した。千年前に紅椿の首を斬り落としたその刀が、アタシが差し出す《紅椿》の峰を叩き斬る。


「ッ!?」


「うわっ」


 半妖のアタシでさえその衝撃に驚いた。掌の感触は、その様を見なくても《紅椿》の最期がどういったものかを教えてくれる。

 自分の赤目でそれを確認すると、《紅椿》は真っ二つに折れていた。


「──あ」


 きっとアタシだけに見えているのだろう。二月なのに桜吹雪が再び舞う。魂が宿っているかのように動く桜の花弁は、結兄の頬を撫でていた。



『──アイシテル』



 紅椿の最期の声が聞こえる。それは、結兄に言っているのか結兄の中に眠っている魂に言っているのか。

 どっちだったとしても、アタシはもう結兄に愛してるって言うことができない。言ったとしても叶わないからこの想いを殺していく。紅椿のそういうところは狡いって思うよ。


 けれど、アタシも結兄の幸せを願っている。だから安心して眠っていい。


 紅椿はきっと九字くじを切られているから、樒御前みたいにこの町でまた出逢うことはないだろう。本当の本当にお別れだから、アタシは息を吐いて空を見上げる。


 千年前、人間を愛してくれてありがとう。紅椿がいたから今のアタシがいて、他のみんながいることを──アタシは一生忘れない。


 《紅椿》の中にあったはずの瘴気は出てこなかった。紅椿が桜吹雪と一緒に知らない世界に連れていったのだろう。


 百鬼夜行はまだ終わらなかった。これが紅椿が経験した百鬼夜行ならば、千年前とは違う結末を描こうとしているアタシたちにとってかなり厳しい戦いになる。


 人間と妖怪は愛し合うことができるけれど、まだその道が見えたわけではないから。

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