十六 『娘』
結希は椿の底抜けに明るい性格が好きだ。前向きなところも、素直なところも、この世に生きる全員が持っているわけではないから心の底から尊敬している。
だが、椿は人並みに落ち込み、人並みに傷つく年下の少女だ。たいした間もなく「大丈夫」と返せるほど、椿の身に何もなかったわけではない。
『大丈夫って……貴様の言う大丈夫ほど信用のないものはないぞ!』
いつかの幸茶羽の言葉を思い出すのは、幸茶羽が結希をそう思っているように結希が椿をそう思っているからで。紅椿に振り回され、樒御前から死を望まれている椿の心が心配だった。
「本当の本当に大丈夫だよ。あの鬼は、アタシを殺したら結兄のことも絶対に殺す。本当は仲良くなりたかったけど、結兄が死んじゃうのは絶対に嫌だから──アタシは鬼になるよ」
椿が笑っている。結希に心配させないように笑っている。
「椿……」
結希は椿に何を言えばいいのかわからなかった。こういう時に椿が周りの人間に言う言葉は、間違いなく励ましの言葉だろう。だが、それを今の椿に言うのは違うような気がして、自分の心と言葉を探す。
「っ」
刹那、樒御前の心臓を握り締めるほどの圧がある視線を感じた。見つかってしまったらしい、隠れていたわけではないから最初から戦う気だった半妖たちと式神たちは次々に立ち向かっていく。
彼女たちに取り残されないように短時間で言える言葉は、一つだけだった。
「じゃあ、鬼になってくれ」
義妹を深すぎる愛で終わる日まで包み込んできた麻露が慈悲なき氷の女になれるように、心優しき椿も気性が荒い鬼女になれる。
「おう! 任せろ!」
椿は自らの胸を叩いて見せた。左手には《天狐切丸》が握られており、右手で《紅椿》を握り締める。
「……俺は、紅椿に呪われている」
椿が義姉妹たちを追いかける前に言葉を足した。結希が椿に鬼になってほしい本当の理由をまだ告げていない。
「……うん」
すぐに笑顔を消して険しい表情で頷いた椿は、紅椿の生まれ変わりとはいえ内に紅椿を飼っている。結希の予想通り知っていたようだった。
「だから、樒御前からも呪われるのは嫌なんだ」
樒御前は雅臣の存在に最後まで気づかなかったみたいだが、この戦いの結果次第では芦屋家の血を引く者として──もしくは樒御前を退治した者として呪われる可能性が未だに残っている。樒御前が椿に固執しているおかげで被害が出ていないだけの可能性もある。そう思い悩んでしまうほどに、結希にとって呪いは身近なものだった。
樒御前を弱らせて誰からも命を奪われない未来を掴み取る為ならば、雅臣と朝日を除いた大切な家族の未来を守ることができるならば、結希は二重の呪いがかけられても受け入れられると思っていた。そうやって何も考えず、抵抗もせず、苦しむ方がマシだと思って楽になろうとしていたのだ。
だが、紅椿から体の所有権を返された椿の生き様を目の前で見せつけられてしまうと、なんとも情けない決断だとも思ってしまう。
今の家族の傍で胸を張って立っていたいならば、結希は樒御前だけではなく己の心にも勝たなければならないのだ。それを求められても仕方ないほどに彼女たちの境遇の裏と表が激しすぎる。進まなければと心を燃やしてしまうほどに彼女たちのことが大切だった。
楽になる道を選ばず、共に生きる道を選ぶ為、そうならない未来をこの手で掴み取る為に、結希はできるだけ声が震えないように言葉を紡ぐ。
「──呪われたくないから、そうならないように俺のことを手伝ってほしい」
それが、年上としてかっこ悪い発言だと自覚していても隠せなかった結希の本音の一つだった。
『本当に、姉さんたちと同じように……アタシにも遠慮なく、自然体でいてほしい』
そう言われたことを思い出した今思うのは、真璃絵ではなく雅臣と朝日だ。二人の前に立つ結希は自然体ではなく、他の大人にも見せていない自分だったような気がする。自分が自分ではなかったような気もしていた。
雅臣が芦屋義兄弟たちに、朝日が百妖義姉妹たちに愛されているのは嫌になるくらいに理解している。そうでなければ結希の眼中に入らないほどに、雅臣と朝日と過ごした日々は少なかった。
雅臣と朝日のことはどうでもいい。もう二度と自分の目の前に現れなくても気にならない。
そんな本音を芦屋義兄弟たちにも百妖義姉妹たちにも言えない結希だったが、呪いとは長いつき合いだ。芦屋義兄弟と百妖義姉妹たちを想う気持ちと同じくらいに自分を想うことが赦されるならば、結希は呪いを消し去りたい。
紅椿は、結希が妖怪と共存したいと言ったことをずっと覚えてくれていた。結希と椿に望みを託したから結希は椿にまた会えたのかもしれない。そんな無謀な夢でさえ叶わないならば、何か一つだけでも叶えたいと足掻いても赦されるならば、結希は情けなくても椿に縋る。
『アタシ、結兄のことが大好きだから』
あの時も今も椿は変わらずそう言ってくれたから。
『かっこ悪くなったとか言うなよ……?』
結希が試すようにそう言った時も、椿は同じ笑みを浮かべていたから。
『大丈夫大丈夫! そっちの結兄の方が絶対に大好きだから!』
年下の少女だが甘えてしまう。椿はずっと義姉妹たちの役に立てないと言って泣いていた。足手纏いでないことを証明したがっていた。
自分に都合がいいように椿の発言を受け取っている節があることは認めるが、かっこ悪くても大丈夫だと言ってくれた心は本心だと信じたいから、結希は椿に協力を仰ぐ。
「手伝うよ」
椿は険しい表情を止めなかった。結希の為ならば愛そうと思った樒御前と戦えるほどに、椿の結希に対する愛は浅くない。
「手伝わないわけないだろ。結兄の呪いはアタシが解くし、呪わせないから」
微風が椿の髪を撫でた。カゼノマルノミコトが力を送っているようで目が離せず、希望のない灰色の雲間から天使の梯子とも言われる薄明光線が椿に降り注ぐ瞬間を目撃する。
「────」
言葉が出てこなかった。今の椿は、歌七星がよく見ている戦隊モノのヒーローのようだったのだ。
子供向けの作品を見たことがなかった結希はヒーローの強さに歌七星同様惹かれるものを感じたが、それと同じものを今椿からも感じている。
椿の顔を立てたいと思っていたのに、自分がヒロインになったのかと錯覚するほどに椿にはヒーローの素質があった。
「俺は樒御前に九字を切らない」
少しでもかっこいいところを見せたくて、結希は動揺していることを悟られないように淡々と告げる。
「なんでだ?」
「九字を切ったら樒御前はもう二度とこの世に生まれなくなる。九字を切らないまま消滅に追い込んだら──きっとまた会えるから」
瞬間、椿が双眸を限界まで見開いた。希望をいっぱいに詰め込んだかのようなその瞳は天使の梯子さえも反射しており、その瞳を見ていると安心する。椿はこの町の光になるだけではなく、結希の光でもあったのだ。
「ありがとう! 結兄!」
礼を言われるようなことはまだ何もしていない。
樒御前に立ち向かっていく椿の双眸に迷いはなく、樒御前を翻弄する義姉妹たちを飛び越えて彼女の左肩にも双刀を刺す。
天狐の首をたった一人で斬り落としたように、椿はたった一人で樒御前の左肩も斬り落とせる。
──鬼寺桜椿は眠れる獅子だった。
くるくると器用に体を回転させて落下しながら作ったのは建物や町を覆う種類の結界で、その頂点に着地した彼女は双刀についた血を振って落とす。
『ギャアアァアアアアァッ──!!』
頭が吹き飛ばされるのではないかと思うほどの大音量で叫んだのは樒御前だ。
『シネ! シネ! シネ! シネ!』
罵声を浴びせ続ける樒御前は残った足を大きく上げ、椿を狙う。
鬼の声はとても大きい。その血を引いている虎丸も。彼の実妹で紅椿の生まれ変わりの椿も。
「アタシは死なないッ!」
双刀で軽々と樒御前の足を受け止めた椿の戦闘に不安はない。加勢に入る方が椿の足を引っ張りそうで、全員が固まったまま動けそうにない。
「アタシはアタシの命を誇ってるから! だから、生きてアンタを倒す!」
結希だけは先を行く椿の後を追いかけていた。椿が知っていたのか知らなかったのかは知らないが、その言葉は梅がかつて結希の祖である宗隆の弟に放った愛の言葉だ。
半妖の母でありすべての《十八名家》の始祖である彼女の言葉に心が震えたのを今でも覚えている。椿は間違いなく梅の子孫で、結希は宗隆の弟の子孫だった。
「受け止めてやるよ! アンタの恨みも、悲しみも! 愛も全部! 暴れよう! そんでスッキリさせようぜ!」
刀を握り締めたままの両手を伸ばして笑う椿は、確かに鬼の子でもある。人間の少女の思考回路だとは思えない、そんなぶっ飛んだところに救われていた部分もあるにはあるのだが。
『オマエ、イミワカラナイ』
あの樒御前に呪い以外の言葉を吐き出させたところも衝撃的だった。そんなこと、樒御前がこの町に到着した時は可能だなんて思わなかった。椿はずっと不可能を可能に変えている。
椿ならば、変えられる何かがある。
「えっ、なんでだよ!」
『オマエ、オカシイ、オマエ──オニデモ、ニンゲンデモナイ』
椿は鬼でも人間でもないが、鬼でも人間でもある。わざわざ反論する気はなかったが、椿はどんな言葉を返すのだろう。
「アタシは──鬼寺桜槐樹と京馬の娘だ!」
瓦礫は落ちていなかったが、思わず転びそうになった。
結希にとって椿は宗隆と紅椿、梅の子孫で、紅椿の生まれ変わりだ。だが、椿にとってはそれだけなのだ。
三代前の鬼寺桜家の頭首だった鬼寺桜槐樹のことを結希はよく知らない。娘を産んだ瞬間に紅椿の生まれ変わりであることを悟った半妖としての一面と、椿に〝もしも〟のことがあったら殺せと虎丸に告げた母親としての一面と、夫を鬼寺桜家に迎え入れるという他の《十八名家》のほとんどの頭首がしなかったことを行った人間としての一面と、恭哉を勘当した頭首としての一面が結希の脳裏を過ぎっていく。
堂々と言い放った椿が本当に眩しかった。雅臣や朝日のことをどうでもいいと言わなくて本当良かったと思うくらいに椿は両親のことを愛している。羨ましくなる。
椿は、光で太陽なのだ。近づけば焦げてしまうことは馬鹿でもわかることだった。




