十四 『親子のけじめ』
龍が空を昇るように、鈴歌の一反木綿が空を飛ぶ。執拗に攻撃を続ける樒御前は紅椿だけを狙っており、それに違和感を覚えたのはオウリュウだった。
「……変」
「変? 何が」
結希は変だとは思わない。オウリュウほど長く生きていない陰陽師だ、オウリュウと同じ世界を見ていても同じ感じ方はしないのだろう。
「……どうして、陰陽師じゃなくて紅椿を狙うの」
瞬間に思い出した。
『……樒御前が、陰陽師を恨んでいるから』
オウリュウがそう言っていたことを。オウリュウの目に映っている樒御前が、陰陽師のみを狙っている鬼だったことを。
陰陽師だけを狙うはずだった樒御前が紅椿だけを狙う理由は、オウリュウにもわからない。オウリュウにもわからないなら、結希にもわからない。
対する紅椿は狙われている自覚はないようだった。今も結希を守る為に戦っているつもりでいる。彼女が戦う理由はそれだけだ。
結希は今でも紅椿にカゼノマルノミコトごと抱き締められた感覚を覚えている。彼女が椿ではない今、彼女が百妖義姉妹たちの為に戦う理由もなかった。
「紅椿?」
振り向いた麻露はなんのことかわかっていない。
「つばちゃんを乗っ取ってる鬼のこと!」
気づいているのは、熾夏と和夏の二人だった。結希は椿の状況を手短に伝え、《紅椿》を折ることに対して意見を求める。
「涙先輩が折ってもいいって言うなら折ればいいんじゃない?!」
熾夏は駄目だとは言わなかった。折っていいと断言された方が安心できるが、折ったら駄目だと断言されなかっただけでも希望はある。
「だが、あいつは今《紅椿》を使っているようだぞ?」
麻露の目にも、《紅椿》を使って瘴気を消そうとしている涙が見えていた。《紅椿》がこの場になければ、というか存在さえしていなかったら明日菜の負担は相当なものになっていただろう。《紅椿》はない方が良かったとは決して言わない。《紅椿》が明日菜が取り込んだ分の瘴気も取り込めたら、結希は一生紅椿に感謝する。
紅椿が結希に求めているものが感謝ではないとわかっていながらも──それ以外のものを紅椿に渡すことはできなかった。
「……結希」
紅椿と樒御前の乱闘を目の前にして、麻露が結希の名前を呼ぶ。
「……椿を元に戻すのは、樒御前を倒した後にするつもりか?」
麻露がどういう答えを望んで結希にそう尋ねたのかはわからなかった。結希は悩み、椿と紅椿を同時に脳裏に思い浮かべる。
「──いいえ」
そうすることは絶対にできなかった。結希は背筋を伸ばして麻露の隣に堂々と立つ。結希よりも少しだけ背が低い麻露は結希を見つめ、「そうか」と白くならない息を吐いた。
紅椿にもう二度と会えなくなるのは嫌だと本気で思っているが、結希は紅椿を思う以上に椿のことを思っている。そのことを紅椿に魅入られている今でも決して忘れていない。
今まで鬼寺桜家の現頭首に恋をして添い遂げた間宮家の陰陽師たちは、紅椿ではなく鬼寺桜家の現頭首本人を見ていたのだろうか。
偶然半妖たちの義母になって、偶然芦屋家に嫁いで、偶然男の結希を産んだ朝日のおかげで結希は今この決断を出すことができている。
樒御前を倒して椿と再び出逢えた時──椿の表情は笑顔であってほしいのだ。紅椿のまま樒御前を倒して紅椿と別れ、椿と再会できた時、また役に立てなかったと涙を流す椿を見ずに済むのなら。椿がいつも通り笑ってくれるのなら。結希は紅椿ではなく椿を選ぶ。
紅椿に伝えなければならない。間宮宗隆はもうこの世界にはいないのだと。紅椿が本当に百妖結希を愛していたとしても、百妖結希の真ん中にいる人間は、もう決まっているのだと。例えそれが叶わなくても──変わることはないのだと。
「椿が鬼の子であることは、椿が百妖家に来た時点でわかっていたことなんだ」
その頃はもう、朝日は彼女たちの義母ではなかった。それは、背後で妖怪と戦っている花のオリジナル体の姉である京子が見てきた百妖家の話だ。
「鬼寺桜家の人間の力は私たちの中の誰よりも強い。強すぎるからこそ、誰よりも気をつけて見ていてあげないといけない」
初めて百妖家に来た時、結希は麻露から義姉妹たちのことについてたくさん聞かされたことがある。
依檻は人魂だから体温が高いこと。だから露出度の高い服やアルコール──つまりは酒を好むこと。
鈴歌が典型的な駄目人間に見える依檻を上回る駄目人間で、無職であること。
熾夏が二つの妖怪の力を抑え込む為に奇抜な格好をしていること。勉強して、海外に行って、最速で医者になったこと。
朱亜が引きこもりであること。
心春が男性恐怖症であること。
そして願ったのは、二人に話しかけてほしいということと、和夏を一人にしないということだった。
麻露は、真璃絵、歌七星、愛果、椿──そして月夜と幸茶羽については何も語らなかった。
当時はまだ真璃絵の存在を知らず、歌七星にはまだ会っておらず、愛果に誤解は何もなく、椿と月夜と幸茶羽は麻露にとって手がかからない〝いい子〟だった。だが──。
「私は長女だ。だから、椿だけをよく見ておくことはできない。だから椿には何もしないで──なるべく戦わないでいてほしかったんだ」
麻露にとって、椿も最初から手がかかる子だったらしい。
「私は、自分が楽をしたいだけだったんだ。……それだけの為に椿を何度も傷つけた、最低の姉だよ」
そんなことはない。椿が傷ついていたように、麻露も充分傷ついている。
「私は椿を最優先に考えることができない。だから、椿を最優先に考えてくれるキミがそう言うなら、私はそれに従おう」
結希は、麻露の言っていることさえもよくわからなかった。百妖義姉妹たちもそうだった。
「麻露さんは椿を最優先に考えることができないんじゃなくて、椿〝だけ〟を最優先に考えることができないだけですよ」
麻露は百妖義姉妹たちを平等に愛している。それは熾夏と同じくらいの重さで、色の異なる愛だ。
「けど、麻露さんはそれでいいんです。俺は今椿のことだけを考えるから──麻露さんは、俺たちのことを考えていてください」
「シロ姉。貴方はいっつも一人で背負いすぎよ? 貴方は確かに私たちの長女だけど、私たちは《十八名家》の現頭首だし、私に至っては《紅炎組》の組長でもあるんだから」
「そうよぉ。あまり調子に乗ったことを言ったら天誅よぉ」
「結希、依檻、真璃絵……」
「…………ボクたちもいるから」
「そーね。先に産まれてきただけなのにすっごく生意気だよ、シロ姉」
「話がよくわからぬが、要するにこれからやるべきことは椿の目を覚まさせて椿と共に樒御前を叩くということかのぅ?」
「ワタシはバキちゃんの方が好きだからバキちゃんがいいなぁ」
愛は呪いだと、結希はこの瞬間も思っている。その愛が家族愛ではなく仲間愛だったらこうはならなかったと思うから。
「……キミたちは。少しは長女でいさせてくれ」
「無理よ。下はいつまで経っても反抗期なんだから」
「おいコラ姉面すんじゃねぇよババァ!」
「こら紫苑!」
麻露の寂しそうな笑顔を許さないのが、芦屋義兄弟たちだった。麻露と真菊には長女として似ている部分がある。それは、黙って自分たちを見ているヒナギクにもある。ヒナギクは亜紅里と言葉を交わしていたが、話の内容までは聞き取れなかった。
「ありがとう。結希、椿のことは任せたぞ」
「樒御前は麻露さんたちに任せます。けど、俺は椿を助けるのと同時に父さんのことも助けたい。モモ、父さんの位置は?」
未だに言い争っている真菊と春と紫苑を戸惑った表情で見上げるモモに声をかけた。モモは綺麗な空色の瞳に結希を映し、やがてゆっくりと顎を引く。
「……変わって、ない。あの、肩の、えっと……」
モモが肩の辺りを指差した。正確な位置は、多分モモの年齢では上手く言い表すことができない。最悪モモを近くまで連れていく必要があるようだ。
「どうやって助けるんだ」
芦屋義兄弟たちの全員が雅臣を助ける為にここまで来ている。真っ先に尋ねてきた美歩は樒御前の声が聞こえている結希以外の唯一の戦力だ。そんな彼女と多翼、言い争っていた三人が集まってくる。
「《鬼切国成》で斬る。千里、涙から《紅椿》を譲ってくれるように頼んでほしいんだけど……涙は多分すぐに渡してくるだろうから、瘴気に不安があるかないかで判断してから貰ってきてほしい」
「あっ、はい! わかりました!」
スザクではなく千里に頼んだのは、スザクではなく千里の方が向いていると思ったからだ。
結希にとって椿を救う為に《紅椿》は必要だが、涙にとっても瘴気を消す為に《紅椿》は必要だ。《紅椿》を折った後で瘴気が大量に発生すれば傷つくのは《伝説の巫女》の明日菜で、場合によっては唯一瘴気を消せる陰陽師である結希も危ない。
紅椿と別れて椿と再会したいのは、状況を一切考慮しない上での結希の我儘だ。
それを簡単に通らせてはならないからこそ、涙と千里できちんと話し合ってほしい。明日菜に傷ついてほしくないのも、状況を一切考慮しない結希のどうしようもない我儘だった。
「斬るって、肩を?」
「そうだ」
樒御前を斬るのは《鬼切国成》が最適だろうが、《紅椿》でも間違いではない。
刀を折ったことがない結希はどうすれば折れるのかわからないからこそ、樒御前との戦いで折るしかないと思っている。
「樒御前を倒すのは本気?」
「美歩を犠牲にはさせないよ」
「僕もさせない! 美歩ね〜ちゃんは僕が守るよ!」
「頼りにしてる、多翼」
微笑むと、多翼はえっへんと大袈裟に胸を張った。軽そうな態度を取っているが、誰よりも不安がっているのは多翼だ。周りを不安にさせないように、周りが笑顔でいられるように、そうやってずっと笑ってきた多翼にもこれ以上の負担をかけさせたくなかった。
「行くぞ!」
瞬間に月夜と幸茶羽を残して百妖義姉妹たちが一反木綿から飛び下りる。上空で紅椿と殴り合う樒御前の元まで辿り着いたらしい。
「副会長、しばらく話せないだろうから今一瞬いいか」
亜紅里を連れて話しかけてきたヒナギクに一瞬だけ安堵する。自分だけが仲間外れとなる話をしていたわけではないらしい。
「椿は来年度の陽陰学園の生徒会長だ」
一瞬だけ耳を疑った。ヒナギクは今何を言ったのだろうと。
「私はそう思ってる。だから、陽陰学園の現生徒会長としても椿にはいてもらわないと困るんだ」
「バッキーってほんとみんなから愛されてるよねぇ〜。あぁ〜羨ましい。あたしもゆうゆうにあたしのことだけ考えていてほしいなぁ〜」
「お前のことは二週間前に考えてたよ」
「やだ! もっと! 足りない足りないぃ!」
そんなに甘えられるほど亜紅里のことを考えていなかったわけではない。胸が張り裂けそうになるくらい、消えてしまった亜紅里のことを考えて天狐と戦わなければならない亜紅里のことを思っていた。
「さっさと行け」
亜紅里の背中を押す。ヒナギクは背中を押さなくても勝手に行く。
結希は再び《鬼切国成》に触れた。
「鈴歌さん! 鬼の右肩辺りに近づいてください!」
残っている鈴歌、月夜、幸茶羽のことは同じく残っている式神たちが必ず守る。
「援護はする」
真菊がじっと《鬼切国成》を見つめたままそう告げた。
「……本当は私が行きたいけど。私が行きたいからこそ、絶対に絶対に絶対に──ちゃんと助けて」
真菊は結希が雅臣のことを快く思っていないことを知っている。真菊自身は結希のことを快く思っていない。
『でもじゃない。血の繋がりは、切っても切れないの。無理なの。絶対。縁は切れないの、何があっても』
だが、その言い方は、かつての真菊の発言と重なる部分があった。
縁は切れないとわかっていたから結希を排除しようとしていた真菊は、何か考え方が変わったのか最近は雅臣と結希の親子の繋がりを拒絶していないような気がする。
「……けじめをつけてくる」
そんな真菊にそう答えた。間宮家と芦屋家の式神たちも、結希の気持ちを汲んで結希の代わりに行くとは言わなかった。
「……あ、あそこ!」
モモが指差す先を見つめる。
「てことは、こうか」
紫苑が腕を動かして、樒御前の斬るべき場所を指示する。
「──ありがとう」
それ以外の言葉が見つからなかった。飛び下りて、《鬼切国成》を抜刀し、何度も訓練でそうしてきたように五十メートルある樒御前の肩に《鬼切国成》を喰い込ませる。
言葉を発することができないほどに、その皮膚は柔らかくなく結希の腕を痛めつける。
『ユウキ!』
そんな結希に加勢したのが、《天狐切丸》を持つ紅椿だった。
「紅椿ッ!」
支えてくれる。傍にいてくれる。
紅椿の加勢により、樒御前の右肩より下が綺麗に切断された。回りもせずに落ちていくそれを掴む手はなかった。




