十三 『灰色の空の下』
灰色の空から落ちてきたのはステラだけではない。お姫様抱っこでステラをここまで運んできた式神のイヌマルは、ステラを下ろして虚空から自らの刀である大太刀を取り出す。
「主! 行ってくる!」
イヌマルは、主であるステラとその他に対する態度があまりにも違う稀有な式神だった。その名の通り犬のような式神で、主にいいところを見せようと張り切って妖怪の群れの中に突っ込んでいくその後ろ姿から、ないはずの犬の尻尾が見えてくる。
「ステラ! ごめんだけどフォローよろしく!」
「もちろん!」
遅れてステラの隣に着地したのは、花だった。花は女性のような仕草で短髪を整えるが、その声はどう聞いても少年のもので。同い年の紅葉と火影と同時に視界に入れると、少女ではなく少年なのだと思い知らされる。そんな花をここまで運んできたのは、箒に跨って空を飛ぶ魔女のティアナだった。
「イヌマル! 先走るな!」
ティアナは積極的に戦おうとしない。全体を見て、一人一人の援護に務めている。
「ったく! あいつはいつもいつも!」
「残念ですが、アレの手綱はステラ以外握れませんよ」
「……わたしが呼んだらすぐに戻ってくるから、多分大丈夫だと思うけど」
「呼ばなくてもいい。俺たちが追いつけばいいだけの話ですから」
そんなティアナの代わりに妖怪と直接戦おうとしているのが、吸血鬼のグリゴレとレオの兄弟で。
「そうそう! スピードなら負けないもんね〜!」
狼の耳と尻尾を生やした人狼のエヴァで。
「…………追跡します」
普通の人間のようにしか見えない人造人間のニコラだった。
「ほどほどにね! 妖怪は亜人とは違うんだから!」
離れないように追いかける花の忠告を聞いているのかいないのか。身体能力が半妖並にある彼ら亜人四人衆は武器を持っておらず、素の力だけで妖怪を倒している。「出れる半妖全員でやる」とヒナギクが躊躇いもなく言えるほどに、存在感を発揮している。彼らがいるだけで戦況がひっくり返るのではないかと期待してしまうほどに、ステラや花の陰陽師コンビとも相性が良かった。
「クカカカカッ! 死ね死ね死ねぇーい!」
変な笑い声で物騒なことを言う男型の悪魔が運んできたのは、アリアのオリジナル体で風の再従姉妹で科学者のクレアで。
「クヒヒヒヒッ! 食べちゃうよぉ!」
同じく変な笑い声で意地汚いことを言う女型の悪魔が運んできたのは、ステラのオリジナル体でアイラの叔母で祓魔師のグロリアだった。
「マクシミリアン! マクシーン! やって!」
命じるグロリアは和穂の服が本当にアイドルの衣装なのだと思えるほどに本格的な修道服で。隣のクレアの白衣との対比が美しい。
「グロリア! ほい! これ使って!」
「え……銃?!」
「フウがくれたんだよ。妖怪に効くんだって!」
「へぇ……すごい! さすが研究者! マッドサイエンティストとはやってることが違うね!」
「だからマッドサイエンティスト違う! グロリアわたしのこと煽ってる?!」
「え? 煽ってないよ?」
「笑ってる! 笑ってる! わたしのこと馬鹿にしてるんだ!」
「してないよ。クレアのすごさはわたしが一番わかってるから」
天狐との戦いの際はステラと花と共に徹底的に援護に務めていた二人だからこそ、それほど強くないのは遠くにいてもよくわかる。二人は普通の人間なのだ、それでも自分の家族と仲間の為にイギリスから来てくれた優しい人たちで、悪魔を使役し銃で援護射撃をしながら戦っている。
祓魔師に使役されている悪魔のマクシミリアンとマクシーンは、妖怪という未知の存在と戦えることがそんなに嬉しいのか、大はしゃぎながらイヌマルと共に戦い始めた。
「退いて退いて〜ッ!」
その、聞いていると妙に元気になれる女性の声には聞き覚えがある。見慣れた《カラス隊》の特集車両──その上に八本の蜘蛛の足でしがみつきながら乗っているのはアイラで、アイラに抱っこされながら道を空けるように叫んでいるのがアリアだった。
『十年前、綿之瀬家が人工半妖の研究をしてたことはみんなもう知ってるでしょ? で、乾が言うには、当時から別の研究も進めてたみたいなの』
『…………別の研究、って?』
今思えば、あの時熾夏に自分の疑問をぽろっと漏らしたのは綿之瀬家の旧頭首の次女でクレアやアリアの再従姉妹にも当たる鈴歌だった。
『〝クローン人間〟。しかも、人工半妖と同じくその研究は成功してて、今生きている〝クローン人間〟の最年長者は二十一歳なんだって』
それがアリアだったらしい。〝クローン人間〟で人工半妖でもあるアリアはそんな出自と運命を背負っていると感じさせないほど──今が百鬼夜行の最中だと思わせないほど緊張感なく全員を退かせる。
「みんなありがと!」
だが、ニコニコと笑っているわけではなかった。アリアは本気で、妖怪を倒そうとしている。共存を望む結希でさえ町に溢れた妖怪を無視しろとは言えないから、せめて、この場にいる全員には生き残ってほしかった。
「アリアーッ! 今わたしのこと轢き殺すつもりだったでしょ!」
「えぇっ?! あっ、クレア! いたの?! ごめん全ッ然気づかなかった!」
「かーッ! 白々しいッ! 生意気過ぎる! やっぱりアリアにだけは人権なし!」
「ごめんってば!」
アリアは本当にクレアに気づいていなかった。それが完全にクレアの癪に障ったようで、ますます怒り狂っていく。グロリアとアイラがすかさず仲裁に入ってようやくなかったことにされるくらい、クレアとアリアの間には溝のようなものがあって。言葉も交わさずに息を合わせるグロリアとステラにはそれがなかった。
『今度の百鬼夜行は、家族で一緒に乗り越えよう?』
かつて、アリアは結希に向かってそう言いながらニコニコと笑った。
結希のことを家族だと言った彼女は誰からも愛されていると思っていたが、オリジナル体であるクレアからは愛されていない。それは、同じ遺伝子を持っているからだろうか。
同じ肉体を持っていても。中に入っている魂は別だ。
同じ肉体は生み出せても。同じ魂は生み出せない。
それをきちんと思い知る。博愛のアリアでさえ、与えた分の愛が返ってくるわけではないことも。誰からも好かれる人間が本当にこの世に一人も存在しないことも。
「お前ら止まるな! 妖怪は〝反対側〟にも湧くぞ!」
特殊車両に乗っていると思っていたが、乾は今も犬神の背に乗り戦場を駆けていた。
未来が見えているのだろう。反対側、と聞いて思い浮かぶのは町役場の反対側で、それは陽陰町の駅の方を差している。
「アリア! アイラ! 動くってよ! 捕まっとけ!」
行ってくれるのならばありがたい。特殊車両の扉を開けて顔だけ出したのはアリアと乾と同じ《カラス隊》の班長の一人の朔那で。朔那にのしかかるように姿を見せたのは──《コネコ隊》と共に行動していたはずの衣良だった。
「亜紅里!」
衣良が声をかけた相手は従妹の亜紅里だ。この短い時間で話したいことはすべて話せたのか、衣良は幼馴染み兼《カラス隊》班長三人組──アリア、乾、朔那とそこにいることが当たり前であるかのように接している。
朔那と衣良が落ちないように背後から引っ張ったのは真と星乃で、《カラス隊》が《コネコ隊》を支えていることをこの瞬間も心強く思った。
「俺は! 強かった!」
衣良が何故そんなことを言うのか。わかっているのは言われた側である亜紅里だけだ。
「そうでなくっちゃ!」
舌で唇を舐めた亜紅里は、遠ざかっていく特殊車両を見送らない。ヒナギクの右腕左腕として、彼女の傍から離れなかった。
「…………ユウキ! みんな! 早く乗って!」
妖怪は任せても大丈夫だ。そう確信を得た鈴歌の声が合図となって、樒御前を追う全員が一気に鈴歌の元へと走っていく。
「タマ太郎、鈴歌さんのとこに!」
結希も鈴歌の元までタマ太郎を走らせた。一反木綿は百妖義姉妹たちだけではなく芦屋義兄弟たちも既に乗せており、最初に言った戦力が整っていることを確認する。
同じく鈴歌に言われるがままに一反木綿に飛び移った結希は、樒御前の元に向かうにはあまりにも危険すぎる歌七星と心春の元まで走った。近くで見た歌七星はまだ本調子に見えず、無傷の心春に支えられている。月夜と幸茶羽は心配そうに二人を見ていたが、これ以上、もうどうすることもできそうになくて途方に暮れていた。
「二人はタマ太郎に乗ってくれ!」
空中でも結希について来たタマ太郎は、屋形車の前簾を開けて歌七星と心春が乗れるように準備をする。
「……っ」
心春は一瞬だけ迷いを見せたが、樒御前と直接戦っている椿以外で唯一一反木綿に乗っていない義姉、愛果が本当に下に残ったことを目視で確認して力なく頷いた。
「わかってる、の」
その声は震えている。
「ぼくはもう、戦えないって」
無力感に打ち拉がれている。
「みんなの傍にいるのは迷惑だって」
「迷惑じゃない! そうじゃないから!」
咄嗟に否定したが本心だった。心春に出逢って、心春を迷惑だと思ったことは一度もない。殴られたことは何度もあったが、早い段階から男性恐怖症だと聞かされていた結希にとって、迷惑なのは自分の方だとずっとずっと思っていた。結希を迷惑だとは思わない、今は全員がそう言ってくれると思っているが。
「わかってるの」
心春が静かに涙を流した。結希を見上げて、笑おうと頑張って、結希の頬にそっと手を添える。
「どうか、ぼくのあの日の言霊が、お兄ちゃんを守れますように」
結希は心春の言霊に何度も何度も救われている。心春の言う言霊がどれのことを差しているのかわからないほどに。
「ありがとう」
「……結希くん、先に言わないでください。礼を言うのはわたくしたちの方ですよ」
力なく笑う歌七星を抱き上げて、結希は無言で首を左右に振った。誰が何を言おうと結希がここまで来れたのは百妖義姉妹たちのおかげだ。百妖義姉妹たちとの一年間がなければ、今の結希はここにはいない。
「ありがとうございます、結希くん。貴方はわたくしのヒーローです」
歌七星の手も結希の頬に添えられた。歌七星の双眸は涙で濡れており、まるで──これが今生の別れかのような切なさが結希を苦しめる。
「楽園を、ありがとう。わたくしは──貴方に出逢えて幸せでした」
歌七星の手が離れていく。それだけで、結希の双眸からも涙が溢れる。
「諦めないでください!」
歌七星が何もかもを手放そうとしているように見えた。一人で動ける心春は歌七星の傍まで駆け寄って、彼女を本当に大切そうに抱き締める。
歌七星を大切に思っているのは結希や心春だけではない。百妖義姉妹たちも。《Quartz》のメンバーの千都や瑠花も。和穂や奏雨でさえ歌七星に消えてほしいわけではないはずだ。
「お兄ちゃん、かな姉のことはぼくに任せて。つば姉のところに早く行ってあげて」
十女の椿が二個上の九女の愛果を尊敬していたように、十一女の心春も二個上の十女の椿を尊敬している。
心春は椿の精神面の強さに憧れていて、椿は愛果の肉体面の強さに憧れていた。月夜と幸茶羽を除いた百鬼夜行未経験組の三人は、見えない糸で繋がっているのだ。
麻露と依檻と歌七星が年長者として義妹たちを守ろうとしていたように。鈴歌と熾夏と朱亜が三つ子として互いを大切に思っていたように。愛果と椿と心春は強くなろうと日々頑張っていた。
月夜と幸茶羽はずっと二人で一人として生きていて。和夏はずっと一人でマイペースに生きていた。六年も眠っていた真璃絵が誰と仲が良かったのかは知らない。それでも十三義姉妹たちがそれぞれを思い合っていることは知っていた。
歌七星と心春を屋形車の中に避難させる。一反木綿に乗って樒御前に接近するかここにいるかならば、ここにいる方が安全だ。心春がそれを受け入れたように、歌七星も抵抗しようとしない。
「また会えます。絶対会いましょう」
歌七星一人幸せになれない世界ならば要らない。結希が幸せにできる女性は一人かもしれないが、幸せになってほしい女性は数多く存在している。
屋形車から一反木綿に飛び移った結希は、同じタイミングで近くに着地した千里を視界に入れて目を見開いた。
「来てくれるのか?」
千里は結希の式神だが、彼女が戦う理由は結希ではない。
「何言ってるんですか、結希君」
千里が呆れたように笑った。
「私は結希君の式神で、結希君の友達です。貴方のお傍で戦わせてください」
千里から「友達だ」と言われると、妙に心が踊ろうとする。
結希にとって、風丸は親友だ。明日菜は幼馴染みだ。ヒナギクはパートナーで、亜紅里は相棒だ。八千代は正直よくわからない。
この一年で多くの人たちに出逢い、絆を結んだが、友達と呼べる存在は千里のみだと思っていた。友達だと言ってくれる相手さえも、千里のみだった。
『何もできないまま終わってしまうのは嫌なんです。大切な人が傷ついたり、もう二度と会えないようなことになったら、もっともっと嫌なんです』
結希もそう思っている。
『お願いします。私に貴方の力をください。自分のことをもっともっと誇れる力を──好きな人を守れる力を、ください』
結希もその力が欲しい。
「私は結希君に命をかけているんですから」
千里の好きな人は絶対に結希ではないが、千里は主で友人の結希の為ならば命も惜しくないと思える人間だった。その相手を探る気はないが、動き出す一反木綿に次々と乗ってくる式神たちが囲んだのは自らの主ではなく千里で。
「みなさん……!」
「俺たちも行くに決まってんだろ」
驚く千里の頬を引っ張ったゲンブは異様に優しかった。
「結希様〜!」
駆け寄ってくるスザクを抱き締める。すぐに樒御前との戦いが始まるのだ、こうしていられるのも今のうちだろう。
「……倒す?」
「倒す!」
尋ねてきたオウリュウには断言する。
「いいぜ、やってやるよ!」
肩を回すゲンブは頼もしい。
「お守り致します。……朝日様の分まで」
主の安否を確認できないセイリュウは、息子である結希に尽くすしか道がなかった。
「紅葉が行ってって言ったから、俺も行くよ!」
ビャッコは主の紅葉に従って結希についてくるらしい。
この場には、カグラも。ツクモも。タマモも。義彦も。カグツチも。エンマも。イザナミも。イザナギも、揃っていた。
ここにいてもおかしくないのにいないのは、ククリだ。誰も口には出さないが、雅臣の現状を考えるとククリもきっと無事ではない。
雅臣を救うことは、ククリを救うことにも繋がる。セイリュウが無事ということは、朝日の無事にも繋がる。
今はただ、椿の体を乗っ取っている紅椿から力を借り。
雅臣を救出し、樒御前を倒し、朝日を救出し、百鬼夜行を終わらせる。それだけを考えていようと決める。
「────ッ」
また、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。下を見ると紅葉と火影らがいる場所にそれが停まり、中から虎丸と恭哉が出てくる。
何をするのか。そう思って、二人が妖怪に立ち向かっていく姿を目撃し。
一瞬だけ結希に目配せをした虎丸は、きっと、結希に椿を託していた。




