八 『かけがえのない友』
紅椿の全身から新たな瘴気が発生する。
『──ナゼッ!!!!』
どす黒い死の色のそれは、結希が触れることのできない毒だ。
《十八名家》が覚悟して、陰陽師と半妖が引き金を引き、樒御前の転倒によって破壊された町の一部をそんな瘴気が覆っていく。だが、紅椿はそれが毒になることを知っていたのか、結希に瘴気が触れることはなかった。
──行ってはならない。
瘴気を視線で追いかけて、行きたいという感情を押し殺して、大切な義姉妹や義兄弟がいるあの場所には行ってはならないと言い聞かせる。紅椿という目覚めさせてはならなかった鬼がここにいる限り。虎丸が彼女を殺すことを諦めるまで。
《鬼切国成》で瘴気を斬れば、椿を救うことができるのだろうか。
なんの音もなく瘴気の中から現れた樒御前の姿を視界に入れて身が竦み、背後に飛び降りてきた人物に気がついて目を疑い、あっという間に力が抜ける。
《鬼切国成》を握れそうにない。
信じたくなかったが、結希と紅椿の間には風丸の姿をしたカゼノマルノミコトが立っており──遠い遠い例の地では、紅椿の恨みに共鳴した樒御前が荒々しく暴れ出していた。
結希を黙って行かせたヒナギクの判断は正しい。ヒナギクの元に、義姉妹たちが次々と集っていく。
熾夏、和夏、亜紅里、火影、千里。そして、ようやく追いついた朱亜。朱亜は鈴歌の傍でしばらく義姉妹たちの護衛をしていたが、護らなくても大丈夫だと判断したのだろう。麻露、依檻、真璃絵の妖力が半分ほどに回復しているのがわかる。
歌七星と愛果が回復しなかったのはヒナギクが力を引き出していなかったからで。心春は今でも、一反木綿の上で耐え忍んでいて。芦屋義兄弟たちは、百妖義姉妹たちと力を合わせながら樒御前に立ち向かっていく。
『そうだけど真菊は辞めておいた方がいい。戦ってるのが姉さんたちなら俺の方が連携できる』
あれは本心だった。喜ばしいことのはずなのに、義姉妹たちと上手く連携を取っている義兄弟たちに嫉妬してしまう。だが、そう発言をしたあの時はまだ気づいていなかった。
真菊の楽園に義姉妹たちが触れていたことにも。春の大切な人の中に椿が含まれたことにも。亜紅里の優しい嘘によって家族として過ごした時間がある彼女たちとヒナギクがいれば大丈夫だと信じたい。
嫉妬の炎は消えそうにないが、こんな感情が樒御前や紅椿を強くさせるのだろうと思うと勝手に傷つく。
義姉妹たちの陰陽師は自分だけが良かったとは、口が裂けても言えそうになかった。
朝羽と千秋が自分を本当の子供のように愛してくれたことには感謝している。紅葉が本当の兄のように慕ってくれたことにも感謝している。火影が何もできない者同士として傍にいてくれたことにも。風丸が声をかけてくれたことにも。明日菜が笑いかけてくれたことにも。
感謝は尽きない。彼女たちがいたから、百妖義姉妹から無償の愛に包まれても拒絶反応を示さなかった。受け入れて、芦屋義兄弟たちに愛を返すことができた。そんな両者に抱く嫉妬の理由が一つではないことにも気づいていたが、蓋をして、風丸の服の裾を鷲掴む。
大切なのは義姉妹や義兄弟だけではない。家族でも友でもないのに真っ先に声をかけてきたのは風丸だ。その風丸を奪うも。人の魂を弄ぶことも。人の想いを踏み躙ることも──それらすべてを例え神が赦したとしても、結希は絶対に赦さない。
『何故に其方は邪魔をする』
「彼女が椿だからだッ!」
『……それも、宗隆の魂故か』
「俺の魂だ馬鹿野郎! なんでずっと一緒にいたのにわかんないんだよ!」
風丸を殴ったことはある。だが、こんなにも胸が締めつけられるような想いで殴ったことは一度もない。駆けつけた紅椿相手には結界を張り、椿と風丸を取り戻す方法を考えて考えて考える。
『紅椿、散れ』
『チルノハオマエダ』
紅椿が椿を乗っ取った最後の原因は瘴気だが、カゼノマルノミコトが風丸を乗っ取った原因は──いや、カゼノマルノミコトが風丸となった原因は。
「……百鬼、夜行」
呟いた瞬間に数々の妖力を肌で感じる。
『百鬼夜行の主役は妖怪だ。妖怪がやるかやらないか。それで百鬼夜行が起きるか起きないかが決まる。あたしたちが結界を五つ壊したのは、この町の結界を壊す為。百鬼夜行が起きるからやったわけではないし、すべては妖怪次第だから壊しただけで百鬼夜行が始まるわけでもない』
今じゃなくても、いいじゃないか。
カゼノマルノミコトを掴む手が緩みそうになるが、思えば、前回の百鬼夜行は天狐が妖怪を操ったことによって起きた六年前と同種の百鬼夜行だった。先ほどの百鬼夜行は義姉妹たち半妖の為の百鬼夜行で、今まで一度も千年前の百鬼夜行は行われていない。
それでも予言はされていた。
誤って結希を攻撃しないように最小限の力で互いを殺そうとする紅椿とカゼノマルノミコトを結界の中に閉じ込め、〝彼女〟の気配がずっとそこにあったことを──咎めれば良かったと、後悔する。
『助けは……不要です……わたしは《伝説の巫女》だから……土地神様を穢す鬼を……この身に集めて……土地神様を救う、予言の巫女だから……どうか、お願いします、どうかわたしに……土地神様を……救わせて』
カゼノマルノミコトは弱っているようには見えない。だが、カゼノマルノミコトが間違いなくこの町のかけがえのない土地神であるなら、もっと強力でないと違和感が残る。
あの小島の土地神でさえ、結希を守る力はあったのだから。
「────」
紅椿も気づいたのだろう。結希からようやく視線を外し、例の地にいる〝彼女〟を確認する。
二人はきっと、かけがえのない唯一無二の友だった。
友になってはならない二人であったが、間宮宗隆がいたことによって結ばれた絆は千年経った今でも消えていないと信じたい。
『……ア』
町役場の屋上の淵に立つ明日菜は両手を結び、祈っていた。町全体を見回すことができる町の中心にいる明日菜は、前回とは違い町の瘴気をすべて取り込むつもりでいた。
《伝説の巫女》の巫女装束を着ているからだろうか。失敗する未来が見えないのに、どうか止めてほしいと祈るのは──紅椿には一生抱かないであろう感情を明日菜に抱いているからだ。
「……嫌だ」
明日菜が遠くに行ってしまいそうだった。瘴気をその身に取り込んでいく明日菜はその双眸で樒御前を捉えており、折れない芯の強さを嫌というほどに思い知る。
明日菜の隣には涙が立っていた。涙の双眸には紅椿とカゼノマルノミコト、そして結希が映っており、その手には《紅椿》が握られている。明日菜の傍に翳されたそれは、明日菜と同じく──前回と変わらず、瘴気をその身に取り込んでいた。
『…………アァ』
紅椿が呻く。結希は遅れて気づく。──そうだ。紅椿だ。紅椿なのだ。
『太刀、銘八条──名物、《紅椿》。同じく千年前、八条国成が鬼と共に打ったとされる妖刀ですね』
あの時初めて、《紅椿》を知った。あの時確かに、〝紅椿〟を感じた。呪われていると理解した。〝紅椿〟を想って涙した。
「ごめん」
そう告げたのは、紅椿にだ。
赦しを乞いたかった相手は紅椿で、本来は謝れなかった相手だった。決して楽になりたいわけではなかったが、結希は今、百妖結希として紅椿に謝らなければならないことがある。
『ユウキ……』
紅椿は結希を宗隆とは呼ばない。もしかしたら、紅椿は宗隆だけではなく結希のこともきちんと見ているのかもしれない。
「──《紅椿》、折っていいかな」
だから結希はそう尋ねた。紅椿が最後まで結希のことを宗隆として見ていたらそうは言えなかったが、結希は百妖結希として紅椿という鬼の少女に向き合う。
「椿を救いたいんだ」
その想いは変わらない。
「紅椿も、虎丸さんも、恭哉さんも、救いたいんだよ」
変わるのは、鬼寺桜家に対する想いのみ。救った椿がこれからを生きていく家だ。
『…………』
紅椿は、今にも泣きそうな顔をしていた。だが、首を横に振ることはしなかった。




