六 『秘められた覚悟』
「うわーっ! カレーのいい匂いーっ!」
「あっ、かな姉! 結希! 何先に食べてんのさぁ!」
見上げると、首にタオルをかけただけの月夜と愛果が二人仲良く駆け寄ってきた。二人の髪は未だに湿っており、何故その姿のままで出てきたのかと理解に苦しむ。
その後ろから、どことなく疲れた表情をしたスザクが顔を出してきた。
「正確に言えばまだ食べていませんよ。用意はしてあるので、後は自分たちでやりなさい」
「はーいっ!」
「似たようなモンでしょーが」
そう文句を言った愛果は、月夜と一緒にキッチンへと向かった。
残されたスザクは当たり前のように結希の傍らに寄り添うが、そのまま座ることもなく立ち続ける。それがあまりにも居心地悪く、結希は思わず振り向いた。
「スザクは? 麻露さんが作ったカレー、食べる?」
「ふぇっ? か、カレーでございますか?」
ぴくっとピンク色のツインテールを揺らし、スザクは何故か背筋を正す。スザクもスザクでどうしていいのかわからなかったのだろう。ここは間宮家ではないのだから。
「わ、私は一応家で食べてきたのですが……」
そのまま悩むように腕を組み、スザクは顎に軽く手を添えた。瞬間、何かが閃いたのか、ぱあっと表情を輝かせた。
「結希様っ! 結希様っ!」
結希の目と鼻の先まで顔を近づけ、傍に置いてある椅子を引いて正座する。食事を持ってきた月夜と愛果も距離が遠いと思ったのか、結希の近くにある普段は座らない椅子に座った。
「私に結希様のカレーを一口くださいませ!」
「一口だけでいいのか?」
「はいっ!」
「そう言うなら……じゃあ」
持っていたスプーンをスザクに手渡す。スザクは嬉しそうにカレーを掬って、一口とは到底言い難い量を頬張った。
なんとも言えない感情を抱いてスザクの顔を見つめていると、噛めば噛むほどスザクの表情が緩んでいく。へにゃあと動いたそれは、本当に──本当に幸せそうだった。
「麻露様の作ったカレーも美味しいです〜! セイリュウと互角ですね!」
スプーンを返してもらった結希もカレーを頬張った。月夜好みの甘い味が口内に広がる。それが何よりも美味しいのに、世のカレーは大体辛口だ。
「セイリュウってそんなに料理が上手いのか?」
セイリュウは結希の実母──間宮朝日の式神で、スザク曰く間宮家式神の母親的ポジションにいるらしい。
普段結希が見ているセイリュウは、家事のみならず躾の方もしっかりとできる完璧超人な性格だった。
「はいっ! ゲンブもビャッコも料理が全然できないので、いっつも一人で作っていたら上手くなったらしいです。今は私もいますし、料理だってできるのにセイリュウは作るどころか手伝わせてもくれないんですけどね」
ピンク色のまろ眉が下がって、スザクは困ったようにため息をつく。冗談でもなんでもなく、スザクは本気でそう思っているらしかった。
「俺もスザクはしなくてもいいと思う」
そう返すと、スザクは不思議そうに首を傾げた。
「そっ、そういえばかな姉! そのイヤリングどうしたの?」
スザクが何かを言おうとする前に、愛果が半ば強引に話題を変える。安堵する結希の目の前に座る歌七星は、スプーンを持っていた手を止めてそれをつけている耳朶に触れた。
「これですか?」
「そうそう! さっきまではしてなかったじゃん!」
「ほんとだ! かな姉きれい!」
身を乗り出す月夜の服を引っ張って、愛果は月夜を座らせる。それでも、月夜はもっと間近で見たいのか顔を思い切り突き出した。
「これは弟からの贈り物です」
そんな二人に、歌七星は作り笑顔で答えた。
「弟?」
「って……お兄ちゃん?」
月夜と愛果は揃って結希へと視線を向ける。が、スザクは不思議そうな表情のままだった。
「……アンタ、かな姉に何してんの?」
ぼきぼきと指の関節を鳴らす愛果は、先ほどの月夜のように身を乗り出す。さすが不良。迫力が違う。男の結希でも肝が冷えるが、それはほんの一瞬で──すぐさま冷静に答えを告げた。
「何って、今日は歌七星さんの誕生日だろ」
真実かどうかはわからないが、家族の誕生日を覚えていなかった愛果に対する怒りが少しはあったのかもしれない。あまりにも冷静に答えられた愛果は、面を食らって指を鳴らすのを思わず止めた。
「あっ、そっか! 今日はかな姉の誕生日だ!」
「歌七星様、お誕生日なのですか? おめでとうございますっ!」
「はい。ありがとうございます、スザクさん」
歌七星は結希以上に他人行儀な態度になって、スザクに軽く頭を下げる。
「……か、かな姉。忘れててごめん。お誕生日おめでとう。で? なんでアンタはかな姉の誕生日を知ってんのさ!」
そんな歌七星に対して初めはしょんぼりと、最後は怒りを顕にして愛果は結希を指差した。
「麻露さんから聞いたんだ。月夜ちゃんと幸茶羽ちゃんは六月六日で、愛果は十一月二十九日だろ?」
「お兄ちゃんすごーい! だいせいかい!」
「きっ、キモい! なんで聞いただけで覚えてられんの?!」
「口が悪いですよ、愛果」
歌七星はお茶を一口飲んだ。涼しい顔だ。対照的に愛果は焦ったように結希の表情を一瞥する。
瞬間、ベランダから不自然なノック音がした。一ヶ月も一緒に暮らしているとわかるその音の正体は──。
「月夜」
「はいはーい!」
歌七星に名前を呼ばれた月夜は、スキップをしながらベランダの鍵を開けた。
「…………ただいま」
「おかえり鈴姉!」
ベランダを玄関代わりにしているのは姉妹の中で一人しかいない。そこから入ってきたのは、一反木綿の半妖の──鈴歌だった。
「おかえりなさい、鈴歌。シロ姉たちはどうしたんですか?」
「…………無事。すぐ帰ってくる」
「そうですか。カレー食べます?」
「…………いい」
鈴歌はソファの方に歩み寄り、倒れるように眠りについた。
歌七星はそんな鈴歌を相手にため息をつき、自らの食器を片づける。結希も歌七星に続いて食器を片づけ、役目を終えたスザクが消えて家に帰るのをたった一人で見届けた。
*
あの後、鈴歌の言う通りすぐに帰ってきた麻露たちは夕飯を食べて何人かは部屋へと戻っていった。鈴歌を上手く避けてソファでテレビを見ていた結希と愛果は、なんとなく一緒になって食器を洗う麻露を手伝う。
「じゃ、ウチもそろそろ部屋に戻るわ」
何もすることがなくなって、すぐに愛果はそう言った。
「そうか。おやすみ」
「おやすみ愛果」
「ん。二人ともおやすみー」
愛果はひらひらと手を振って、軽やかな足取りでリビングから出ていく。
リビングには、麻露と結希、眠っている鈴歌だけが取り残された。掛け時計を見ると午後十一時を回っており、「もうこんな時間か」と麻露が声を漏らす。
「俺もそろそろ部屋に戻りますけど、他に何か手伝うことはありますか?」
「本当なら洗濯物を……と言いたいところだが、さすがに無理だろう? だから少し、キミと話がしたい」
見ると、麻露は深い青目で結希の瞳を見つめていた。
「真璃絵のことだ」
息を呑む。いや、なんとなくそんな気はしていた。結希の方も、真璃絵について麻露と話したいことがたくさんある。
麻露は椅子を手で示し、結希に座るよう促した。
「キミは真璃絵に会って、どう思った?」
椅子に座った途端、前置きもなくそう尋ねる。そんな麻露のことが嫌いではなくて、結希は思わず笑みを漏らした。
「何を笑っている」
「すっ、すみません」
「まぁいい。キミの笑ってる顔は嫌いじゃない」
「えぇー、ほんとですか?」
他愛もない話でほんの少しだけはぐらかしたが、麻露はこういうことを嫌っている。
「俺は……」
真面目に答えようとして、何故か言葉が詰まってしまった。
──どう思った?
それはきっと、一言では言い表せない。それくらい大切な相手なのだと思い知る。
「キミは六年前、真璃絵の命を救ってくれた。その代償として、キミは記憶を失った。真璃絵の姉として──キミの姉として知っておきたいんだ。だから、聞かせてほしい」
麻露は椅子を一つ空け、結希の隣に腰を下ろした。その距離が自分たちの心の距離だ。縮まることは決してない。何故なら本当の家族ではないから。
「……何かを思い出したりはしませんでした」
「他には?」
「人形のようだと。それだけです。期待に応えられなくてすみません」
すると、麻露は「いや」と首を横に振った。
「……そうだよな、結希。私の考えが甘かった。この世界は私が思っているほどご都合主義ではないようだ」
「…………」
「でも、何もなかったわけではないだろう? 真璃絵がほんの少しでも動いた。これは奇跡だ」
「だといいんですけどね」
そんな慰めは要らない。ただ惨めになるだけだ。
俯いて、拳を握り締め、無言で落ち込む結希に「話はこれだけだ」と麻露は告げる。彼女は意外と優しい人だった。必ずしも氷の女というわけではない。
それは、麻露が長女──結希の姉であるが故の愛だと思った。
「では、俺はこれで。おやすみなさい」
「あぁ。おやすみ」
立ち上がってリビングを出る。麻露の愛に溺れてしまう前に逃げ出せて良かった。これ以上は、本当に危ない。
心臓の真上に拳を当てた。きちんと動いていることを確かめて安堵し、髪を勢い良く掻き毟った。……まだ、風呂に入っていない。
姉妹と重ならないように大幅にずらしてこの時間帯に入る結希は、階段を上がらずにそのまま下りた。
麻露に尋ねられたことに関しては本当のことを言った。だが、言わなければならないことには口を噤んだ。
(……あの裏切り者の半妖、またあの場所に現れたな)
朝日が出した警告と合わせて考える。だから、どうしても銀狐の少女が無関係だとは思えなかった。
六年前に起こった百鬼夜行と、これから起こるかもしれない百鬼夜行。その二つに少女は強く関係している。いや、最早ないとは言い切れない。
それを誰にも言わずに、一人──いや、スザクと一緒に背負う覚悟を持ち始めていた。
今日のスザクはいつも通りを装っていたが、心の奥底には秘められた覚悟があることを主の結希は気づいていた。




