十七 『振り絞る懺悔』
瘴気が全身を包み込む。目の前が真っ暗な闇に染まっているのは理解できたが、紅葉の札が結希の触れる世界に光をもたらしていた。
見える。ヒナギクの顔も、火影の顔も、樒御前の体さえも。
百メートルもある樒御前の体は、名のある妖怪である時点で少し考えれば当然のことだったのかもしれないが──紅椿と同じように人の体のように見える。
身に纏う着物の色は青。紅椿の赤とは違う青い女性だが、腰までありそうな髪の色は血を抜いたような雪の色だ。その二色はヒナギクの人間姿を彷彿とさせるが、樒御前はヒナギクではない。ヒナギクは樒御前ではない。
『ユル、サ……ナイ』
泣いてしまいそうになるほどに何かを悲しみ誰かを憎むその声は、やはり樒御前のものだった。
「火影! まず足首を狙う!」
「そうですね──止まっている間に潰しましょう」
火影は勢いを殺さない。この勢いのままヒナギクを離して樒御前の足首を断たせるつもりのようだ。
そうすれば、集まっている《十八名家》たちが作った罠にも確かな効果が生まれるだろう。その一撃は無駄な一撃にはならないはずだ。
淡い期待を抱きながら、樒御前の腕の真横を通り過ぎる。紅椿と違い元々巨大な鬼だったのか、傷一つない綺麗な青い着物に違和感を感じ──すぐに視界に入った、呪いの色のように濁った手に言葉を失った。
腐っている。人の体のように見えるからこそ、腐敗したその手が、様々な色を混ぜて黒に見えるようになったようなその爪が、さらに不快感を煽る。紅葉の札がなければ強烈な腐乱臭に襲われていただろう。
「…………」
その手が視界に入っていたヒナギクと火影は、膝丈の着物の下から覗く足を見ても驚かなかった。だが、その足は手よりも腐っていない。封印された地から陽陰町まで来れたその足は、しっかりと大地に立つ自らの体を支えている。斬ろうと思えば──必ず斬れる。
「ご武運を!」
ヒナギクが火影の手によって投げられた。落ちていくヒナギクは振り返らない。呪いの色の足首に向かって進んでいく。
「あっ」
その足に群がる妖怪がいた。樒御前の瘴気は周りの妖怪を狂わせるだけではなく、妖怪も生み出しているのだろうか。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前ッ!」
躊躇いはなかった。ヒナギクを守る為ならば信念だって曲げられる。式神や半妖の攻撃がない以上は動きを鈍らせることしかできないが、火影が放った紅葉の札が、足に群がる妖怪を引き剥がしていった。
「紅葉……!」
やはり紅葉は神童だ。式神と半妖の力に匹敵するほどの威力を出せる札を生み出せるのは、陰陽師の中で紅葉しかいない。その場にいないのにそこに存在しているかのような戦い方ができる紅葉が自分の従妹で本当に良かった。ここにいる陰陽師は──一人ではない。
「──ハッ!」
空気と肉が斬れる音がした。斬ったばかりのヒナギクがその体勢のままさらに遠ざかっていった。
「ヒナギクッ!」
それ以上落ちると大地を這う妖怪に喰われてしまう。思わず手を伸ばした結希の爪くらいしかない小さなヒナギクが、光が届かない真っ暗な闇の中に消えていく。
「ヒナギクッ! 死ぬなッ!」
「誰が死ぬか」
直後に真横に姿を現したヒナギクは、結希にしがみついたまま離れなかった。
「紛らわしいことするな!」
「片方だけ重いとバランス取りづらいんですけど」
「貴様に掴まれてるよりもこっちの方が動きやすいんだ我慢しろ。一回出るぞ」
「……人使いが荒い」
火影は溜息を吐くが、ヒナギクよりも紅葉の方が人使いが荒かったはずだ。ヒナギクは火影に対しても他人と変わらない態度で接し始めているが、火影にとってのヒナギクは一生唯一無二の距離感の相手になるのだろう。結希にとってのヒナギクもそうだ。
どれほど近くにいても、その体に触れることは決してなかった。触れられることもなかった。だからか触れられた部分が熱い。ずっと触れられると困ってしまうほどに、むず痒かった。
瘴気の外の世界は眩しく感じるが、空の色はさらに濁っていた。それは雨が降りそうな濁り方ではない。世界が終わりそうな濁り方だ。
樒御前という現代唯一の大妖怪の目覚めが、世界を滅ぼす引き金になっている。千年前の陰陽師が倒せなかった大妖怪を倒すという目的は無謀なのだと改めて突きつけられているようだった。
「あっ」
だが、なんとかなるのではないかとも思うのだ。根拠はないが、目の前の空に箒に跨った魔女がいる。
「ティアナさん!」
ティアナは無言で真下を指差した。そうされなくてもわかる。この陰陽師の気配は末森と本庄、ステラと花のものだ。
「てことは……アリアさんとアイラも」
その二人も間違いなくいた。乾や真や星乃の妖力も近くにある。陰陽師と人工半妖を除いた《カラス隊》と《コネコ隊》の全隊員が行動を共にしているようで、樒御前に二つの隊の主戦力がすべて注ぎ込まれていることを知る。
「ヒナギク」
あまりにも近くて視界に入れることさえできなかったが、ヒナギクが息を呑んで彼女たちを見つめていることが空気でわかる。半妖の家に生まれた半妖のことはわかっても、人工的に生み出された半妖たちのことはわからなかったようだ。
ヒナギクにはまだ仲間がいる。予期せぬ援軍の視線が一瞬だけヒナギクと結希を捉えたが、すぐに地上の妖怪との戦闘に戻っていった。
「妖怪が……いつの間にこんなにも……」
「姫様の札を貼る前からいましたよ」
それに気づけないくらい、樒御前の気配の方が強かった。
彼女たちは力を合わせて樒御前が侵入できない側にいる妖怪と戦っている。多分、樒御前に近ければ近いほど強力で凶暴な妖怪がいるのだろう。遠ければ遠いほどにあまり強くない妖怪がいてくれないと、陰陽師でも半妖でもない他の隊員たちの安否をどうしても気にしてしまう。
「こんなにも……」
震えるヒナギクの声が耳元から聞こえてきた。唇から漏れた息が結希の耳を撫でる。
「っ」
「……こんなにも、たくさんの命を背負っていたんだな」
強ばりかけた結希の体を解したのは、ヒナギクの嗚咽だった。
「ど、どうしたんだよ」
あまりにも突然のことで戸惑う。火影が傍にいるにも関わらず涙を流すヒナギクは、今この場にいる誰よりも〝少女〟だった。
「六年前、私は、戦えなかったんだ」
ヒナギクは懺悔のつもりで告白したのだろう。六年前に戦って百鬼夜行を終焉へと導いた結希から責められる、嫌われると思っているかのような怯えが滲んでいる。
だが、そんなことで結希がヒナギクを責めることはない。嫌うことも絶対にない。謝ってもほしくなかった。ヒナギクは何も悪くない。
結希の一つ年上の愛果も戦場には出なかったはずだ。結希とヒナギクと同い年の亜紅里もあの時は暗躍できなかったはずだ。十二歳で半妖の力をようやく使いこなせるようになった月夜と幸茶羽を間近で見ている結希が、六年前十一歳だったヒナギクが戦えなかったと懺悔したところでヒナギクを見捨てるはずがないのに。
「……戦えたのに、戦えなかったんだ」
ヒナギクの触れてはいけない部分に触れてしまったようで、それ以上の懺悔を聞くことが怖くなった。
「え」
「白院家に生まれた半妖は、物心ついた時から力が使えるんだよ。私が百妖家に預けられなかったのは、私が百妖家の人間になることを拒んだ母様の意思でもあったが……私の存在が百妖家の義姉妹たちに良くない影響を与えるかもしれないという、他の《十八名家》の頭首たちの意思でもあったんだ」
ヒナギクが白院家の半妖でなかったら百妖家の一員になれていただろう。結希はそう思っていたが、白院家の半妖で総大将だったとしても預けられる未来があったことに戸惑う。その未来が大人たちの意思で潰された事実に胸を痛める。
「頭首たちは、自分たちよりも先に力を使いこなせていた母様に劣等感を抱いていたんだろうな。他人だったから我慢できたことも、家族だったら我慢できなくなることなんて山ほどある。それを娘たちに味合わせたくなかったんだろう」
ヒナギクの涙はなかったかもしれない涙だった。その代わりに義姉妹たちの誰かが流す涙かもしれなかったのだろう。
「なのに、私は……戦えなかったんだ。戦場に出るよりも先に流れ込んできたあの人たちの恐怖と痛みが、肌を刺して……内蔵が暴れ狂って、動けなかったんだ。私一人だけが無傷だったんだ、この手で守れた命がたくさんあったはずなのに、貴様はそれでも動いてこの町と人を救ったのにっ」
自分にしがみつくヒナギクの手に触れた。そうしなければどこか遠くに行ってしまいそうだった。一人で樒御前に立ち向かわない為にもそうしたいと自然と体が動いていた。
「……貴様の存在を知った時、吐いたよ。自分がどれだけ情けなくて愚かだったのか嫌というほどに思い知った。馬鹿なのか? 化け物なのか? って、思ってた。貴様は……馬鹿だったけど、化け物じゃなかった。たくさんの命を背負って戦った英雄だったよ」
六年前のことは覚えていない。想像することはできるが、どういうつもりで戦っていたのかは何一つとして思い出せない。
「同い年だから、同じ年の生徒会役員になることはわかってたんだ。私の〝右腕〟が務まるのが貴様しかいなかったのは本当だが、貴様に私が相応しくない……相応しくなれるように頑張ってみたが、どうしても届かない。触れられたと思っても、貴様は遠い。こいつらが今ここにいるのは、貴様がいるからだろう? あの日貴様が繋いだ命で、貴様に感化された命で、貴様が戦っているから駆けつけてくれた命なんだろう?」
触れるヒナギクの手は震えている。紅蓮の瞳には涙が溜まっている。
「…………私は、私が恥ずかしい」
その手を強く握り締めた。
「…………大丈夫なのか?」
自分の予想が当たっていなければいいと思った。
「何がだ」
「自分が今言ったんだろ。六年前、恐怖と痛みが肌を刺したって。内蔵がって」
ヒナギクは義姉妹たちの安否を知っている。居場所も知っている。それは血が教えてくれているのかと思ったが、今のその言い方は、感覚の共有に近い。義姉妹たちが瀕死に近いことを言ったのもヒナギクだ。ならば、今のヒナギクは瀕死に近い義姉妹たちの痛みを一身に受けている状態だ。義姉妹たちが瀕死で済んでいる理由が、ヒナギクが義姉妹たちの痛みを代わりに受けているからだと言われても驚かないくらいのことを──ヒナギクは今言ったのだ。
「大丈夫だ」
「なら俺の目を見て言えよ。今がそうじゃないなら俺の目を見てくれよ」
結希の声も震えてしまう。
ヒナギクは義姉妹たちの総大将だ。そう呼ばれてもおかしくない強さがあって、そう呼ばれてもおかしくないくらいに幼い頃から能力に目覚め、そう呼ばれることが相応しいくらいに堂々としている。
ヒナギクを総大将たらしめる義姉妹たちがいて本来の力を発揮するならば、義姉妹たちと深く繋がっていることを明かされても驚かない。いつまでも結希の目を見ないヒナギクが、結希の予想が外れていないことを告げている。
「……本当に大丈夫だ」
「そんなわけないだろ!」
「大丈夫なんだよ。六年前から今日まで何度、あいつらが傷ついてきたと思ってるんだ」
「……ッ」
凛々しい見た目をしているのに、人形のように儚い見た目をしている人間の姿の頃には決して見せなかった優しい瞳だけはしないでほしかった。そんな風に──我が子を愛しいと思い抱き締めた朝羽のような瞳で自分の目を見てほしくなかった。
大丈夫じゃないと涙を流されたら結希はヒナギクの為に頑張れるのに。結希が義姉妹を守らなかったからずっと痛かったと怒られたら、生涯をかけて償ったのに。そんなにも優しい瞳をされたら、赦されたと思ってしまう。
「隠しごと、すんなよ」
諦めたわけではない。彼女は慣れてしまったのだ。六年前にほとんどの半妖が瀕死になったあの日、彼女の痛覚は壊れたのだ。ヒナギクはまだ十一歳の少女だったのに。……何歳だったとしても、ヒナギクは女性なのに。
「してないよ。……というか、話を逸らすな」
話を逸らされた。
「私は貴様に相応しくない。相応しくないから、貴様に従う」
ヒナギクの瞳が悲しみで濁る。
「……私の王は、貴様なんだろう?」
そんな風に王だと言ってほしかったわけではない。頼ってほしかっただけなのに、頼られた気はしなかった。




