十六 『守ってくれ』
数百年前、陰陽師の手によって描かれたぬらりひょんは、特徴的な頭部の形をしていた。それはその末裔であるヒナギクの半妖姿にも表れており、誰よりも美しい銀色の髪は重力に逆らうように尖っていた。
半妖の総大将として樒御前に立ち向かうヒナギクの今の髪はすべて綺麗に編み込まれており、激しく動き回っていても未だに乱れていない。
尖った耳や紅蓮の瞳は覚醒前と変わっておらず、人間の姿をしている時の人形のように儚いヒナギクを静の美しさと例えるならば、半妖の姿をしている時のすべてを喰らい尽くす獣のようなヒナギクは、動の美しさだと思う。
胸元が開いた真っ白な着物も、Aラインのウエディングドレスのように広がった紅蓮のスカートも、覚醒前と大きく異なっているかと問われたらそうではないと答えるだろう。それらは早くも汚れ始めており、樒御前の異次元の強さを物語っていた。
だが、ヒナギクはいつまで経っても倒れることはなかった。
結希と式神たちの援護があるとはいえ、ほとんど一人で戦っているのに──ヒナギクは大きな傷をつけることはなくとも大きな傷をつけられることもなかったのだ。
ヒナギクの命の輝きが眩しい。攻撃の手を一度も止めない彼女は、樒御前をたった一人で足止めすることに成功している。
それは多分、義姉妹たちにはできなかったことだ。ヒナギクができるということは、ヒナギクが半妖の総大将であるという一つの大きな証拠だった。
樒御前の両腕は動き続ける。セイリュウ、ビャッコ、ゲンブ、オウリュウが二手に分かれて攻撃をすべて引き受けているが、時折全員を吹き飛ばしてヒナギクを守る結界に当たる。
だが、安心することはできなかった。結希の結界はカグラの手によって一度完全に破られている。力をつけてきているとはいえ、長くは持たないだろう。
「──ッ?!」
背筋が凍った。樒御前がそれを理解したかのように結希を見た気がしたのだ。
瘴気の塊である樒御前に目だと思われる場所は見当たらない。それでも異様な視線を感じる。これは、結希を陰陽師だと理解した視線なのだろうか。
今この瞬間も結希を支えているのは千里だ。生まれた時から結希の傍にいるスザクは、結希を抱えるには小さ過ぎる。もどかしそうにしながらも結希と千里の傍から離れないスザクのみが、現状一番自由な式神だ。結希を目指して伸ばされた樒御前の左手は全員にとって予想外の行動ではない。ヒナギクを除いた全員が瞬間移動で結希の元へと下がってくるが、誰よりも先にその手に触れたのはスザクだった。
「スザクッ!」
悲鳴に近い声が出る。
「任せてください、結希様!」
「信じて、結希君!」
だが、二人は本当に結希の式神なのかと思うほどに勝利を疑っていなかった。真っ直ぐに前だけを見つめるその姿は、義姉妹たちが戻ってくることを信じ切っている結希自身の姿と重なっていく。そこに樒御前が纏うような穢れはなかった。
結希は千里にしがみついたまま、かつてのヒナギクのように本営から援護することしかできない。だから、結希の式神である二人にはどうしても指示を出すことができなかった。でも。
「ッ……! 頼む!」
どれほど目の前が真っ暗な闇に染まっていても、歩いてきた〝今まで〟がある。
「千里! 前へ!」
ここまで来たのだ。ヒナギクと千里と力を合わせれば、樒御前の腹に風穴を開けることも夢ではないと信じたい。
「はい!!」
勇ましい声だった。あっという間にヒナギクの隣へと飛んだ結希は、ヒナギクへと伸びる右手を視界に入れて息を呑む。
樒御前は、左手で結希を狙って右手でヒナギクを狙っていたのだ。
「ヒナギク避けろッ!」
式神たちが一度も防いでいないその手が結希の結界を握り潰していく。ヒナギクも自分を覆う影に気づいてはいたが、何故か、その手を避けなかった。それどころか結希と千里を一瞥し、顎を引く。
それは、瘴気の中に飲み込まれる覚悟を決めたような──かつて天狐に飲み込まれた、亜紅里のような。
「ヒナ、ギク……?」
声が掠れる。そんなヒナギクが信じられなかったのか、声が出ないほどに叫び続けたのか。わからなくて伸ばした手で、九字を切って、ヒナギクを守りたかった。
「──行くならお供しますよ、いとこの人」
思い切り背中を叩かれて我に返る。この状況には似合わないほどに冷静な声、叩かれた瞬間にしやすくなった呼吸、すべてが結希の心を救う欠片だ。
「火影?!」
黒翼を広げ、紫の双眸で結希を見つめているのは、紅葉と共に行動していたはずの火影だった。
「……私には従わないんじゃなかったのか」
ヒナギクは驚いていない。ヒナギクは総大将として、火影が無事であることもここに向かっていることもわかっていたのだ。それでも戸惑いはあるらしく、火影に尋ねて確かめる。火影の主は、一体誰なのだと。
「姫様が『行け』と」
それが一番納得できる答えだった。ヒナギクは口を閉ざすが、火影の視線はヒナギクを捉えている。歴代の半妖の中で唯一総大将に従っていない彼女の中に宿る熱が、若くて未熟なヒナギクに──まだ、伝えたいことがあると訴えていた。
「勘違いしないでください。火影は、姫様の命令がなくても貴方たちの下に馳せ参じてましたよ」
空を飛ぶ彼女は瞬間移動をしない限り落下してしまうヒナギクと千里の腕を掴み、空高くへと飛んでいく。樒御前を見下ろすほど、高く高く飛んでいく。
「この鬼は、陰陽師を、姫様の命を狙っています。ならば火影は姫様の元ですべてが終わるのを待つのではなく、ここで貴方たちと共に戦いたい。火影はずっと、貴方たちと──いとこの人と共に戦いたかったから」
火影は鈴歌と同じく空を飛べる貴重な半妖だ。巨大な樒御前と戦うならば、彼女の存在は必要不可欠だろう。
「総大将の人、火影は鴉貴エリスの娘です。六年前貴方の母様の命令で死んだ鴉貴エリスが、罪を犯してでも守りたかった命です」
瞬間、目に見えてわかるほどにヒナギクの体が強ばった。
「貴方に命は捧げたくない。でも、それ以上に貴方にもいとこの人にも亡くなってほしくない」
そんなヒナギクを火影の言葉が包み込んでいるような気がした。
「鬼の足元に、姫様の退魔の札を貼りました。いとこの人にも、身を守る札を貼っています。そして火影は、貴方たちをどこにでも連れていくことができます。……行くのなら、お供します」
ヒナギクも、火影も、そして亜紅里も、何かが違っていたら家族になれていたかもしれない三人だった。なれていたら、それぞれを形作っていた人生が変わる。それぞれの性格も、背負うものも、また違ったものになっていただろう。
だからヒナギクと亜紅里は手を取り合えたのだ。二人は同じ孤独を抱えている。総大将の末裔と、神の末裔という立ち位置も似ている。母親から受け継ぐ、現頭首とは違う役目もあった。二人には二人にしかわからないことがたくさんある。そしてその中には、火影や──千里がわかることもあるはずだ。四人が幼少期に感じていた寂しさは、この先何があっても癒えることのない傷なのだから。例え目の前に溝があっても、亜紅里以外の三人は飛んでいけるはずだから。
「…………連れて行ってくれ」
ヒナギクが願った。
「瘴気が濃過ぎて薙刀では届かないんだ。瘴気の中に入って、奴の体を捉える必要がある。……ただ、私の薙刀では奴の力を削ぐことができない。陰陽師の攻撃が一回で終わるほどに弱らせることは難しいんだ」
「…………じゃあ、私がみなさんを連れてきます」
「え?」
「私はヒナちゃんに『行け』って言って、私はみなさんに『行け』って言われました。みなさんを月夜ちゃんと幸茶羽ちゃんのところに連れて行って、鈴歌さんに頼んで、必ずここに連れてきます。戦場がここじゃなくなっても、私なら結希君の居場所がわかります。だから、火影ちゃん。私の大切な二人を……どうかよろしくお願いします」
千里はこんな時でも優しく微笑む。
「私の大切な主で、大切な総大将で、大切な……友達なんです」
そのラベンダーの双眸から涙が溢れると、結希の胸も締めつけられた。
「任せてください、いとこの人の式神の人」
顎を引く火影は嫌な顔一つしなかった。兄の蒼生や従兄の輝司によく似ている。彼女の中にも、正義感という名の熱とすべてを守るという強欲が眠っているのだ。多分それは、翡翠の中にも眠っている。でなければ彼女は《コネコ隊》にはいないだろう。
「結希君、火影ちゃんをよろしくお願いします」
「あぁ。火影のことは俺が守るよ」
罪を犯してでも娘を守りたい。娘だけは無事でいてほしい。娘だけは他の半妖と同じ道を歩ませない。そんな、この町で誰よりも欲深かったエリスの娘である火影のことを、六年前から知っている。そんな彼女のことを、守りたかったことを覚えている。
「行きましょう」
火影に腕を鷲掴まれた。それを見届けた千里は消え、ヒナギクと共に残される。
「副会長」
「ん?」
「中に入ったら、私のことを……」
「なんだよ」
言い淀むヒナギクは珍しい。だが、言い淀めば言い淀むほどに、大切なことを伝えようとしていることだけは伝わってくる。
「……守って、くれ」
麻露や鈴歌と同じくらいに綺麗な雪色の肌を持つヒナギクの顔は、結希まで照れてしまうほどに真っ赤だった。
「っ」
当たり前だ。ヒナギクのことも守る、というかずっと守っていたのに何故今になってそれを言うのか。
言いたいことが山ほどあって言葉にすることができない。わざとなのかいきなり下降した火影のせいで喋る余裕もなくなってしまった。
近づいてきた樒御前は、式神たちを相手にしているようで自分たちには気づいていない。紅葉の札が効果を発揮しているのだろうか。一番重要な退魔の札は効果を発揮しており、ヒナギクが攻撃をしなくなっても一歩も前に進んでいなかった。
「右肩から中に入るぞ!」
火影が位置を調整する。ヒナギクと結希の腕を離して腰に腕を回すと、ヒナギクはすぐに薙刀を手元に出現させる。
この一撃で決まるとは思っていない。義姉妹たちや千里がすぐに来るとも思っていない。だが、もう、迷いはなかった。




