五 『翠玉の細流』
百妖家に辿り着いて、車から下りる。見ると、依檻の車はまだ駐車場に止まっていなかった。
「ここが百妖家ですか……。こんな外見をしているんですね」
スザクは結希のジャケットの裾を握り締めながら、五階建ての百妖家を見上げる。その様子に気づき、結希はあることを思い出した。
「あぁ。そういえば、外から百妖家を見るのは初めてだったな」
「そうですよ。結希様がなかなか私を呼び出してくださらないせいですっ」
頬を膨らましたスザクは、ぷいっと愛らしくそっぽを向く。その様は本当に愛らしいが、子供のように拗ねられると主の自分もそうであると明言されているようであまりいい気はしなかった。
「スーちゃんの言う通りだよ、お兄ちゃん! つきはもーっともーっとスーちゃんと一緒にいたいのに!」
月夜に抱きつかれたスザクは、結希を離して月夜にされるがままになる。結希の式神のスザクは、結希と同じように月夜にだけは甘かった。
「はいはい。ほら、今からお風呂に入るよ」
「ほぇ? お風呂?」
「汗もかいたしさ、日本人なら裸のつき合いって言うじゃん? 一緒にサッパリするのも悪くないでしょ」
愛果は人差し指を立ててにやっと笑う。その様はなんだか依檻に似ていて、姉という年上の人間らしくもあった。
「……確かに、あの風呂場は一気に八人くらい入れそうだもんな」
「っだ! だからってアンタは一緒に入んないんだからな!」
ぶんっと大袈裟に回し蹴りをし、愛果は月夜とスザクを連れて玄関の方へと足を向ける。そして顔だけを振り向かせ、「かな姉は? どうするの?」と尋ねた。
「わたくしは遠慮します。汗なんてかいてませんから」
歌七星はいつもの真顔で答える。人魚の半妖である歌七星は、熱を帯びない体を持っていた。
「あっそ。わかった」
愛果は玄関の鍵を開け、月夜とスザクと一緒に中へと戻った。車の鍵をかけた歌七星と、歌七星を待っていた結希も遅れて後に続く。
玄関の傍にある脱衣場に入っていった三人とは違い、二人は二階のリビングに上がった。時間が時間というのもあるが、朝から家を出ていた結希はキッチンの方へと足を向けた。
「お腹が空きましたか?」
そんな結希を見た歌七星は、結希を追い越して冷蔵庫の扉を開ける。
「……あ、はい」
「夕御飯を食べずに妖怪退治をさせられましたからね。ここにシロ姉が作ったカレーがあります。温めて食べましょうか」
「わかりました。お皿はこれでいいんですよね?」
「そうですよ。ありがとうございます、気が利きますね」
歌七星は冷蔵庫から鍋を取り出し、お玉でカレーをかき混ぜた。結希は炊飯器の方へと向かい、二人分の白米をよそう。
「この量だとまだ全員食べてませんね」
歌七星の呟きを聞いて掛け時計を見上げると、時刻は八時を回っていた。
「食べずにお見舞いに行ったっぽいなら、愛果たちの分も作っておきますか?」
「えぇ。そうしましょうか」
歌七星は鍋を火にかけて、溶かすようにかき混ぜる。そんな歌七星は、結希が普段見てきた歌七星だった。
会話が途切れ、気まずくなり、暇になった結希はキッチンから出てテレビをつける。バラエティーなのか、テレビからは賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「あ、歌七星さん」
「はい?」
顔を上げた歌七星は、結希の指差す方向に視線を移した。その先のテレビ画面では、和穂が満面の笑みを浮かべてる。
「泡魚飛さん、バラエティーにも出てるんですね」
「そうみたいですね。仕事を選ばないことが彼女の美点なのですが……」
歌七星はそこで言葉を切った。代わりにかき混ぜるのをやめて味見をする。
不自然な切り方だと一瞬思った。だが、働いている歌七星を他所に遊んでいる場合ではない。結希はすぐさまキッチンに戻り、スプーンを取り出して長テーブルに適当に並べた。
一ヶ月前の自分だったら、こんなことしようとも思わなかっただろう。いや、することさえ知らなかった。それをしている姉妹たちを見ていたから、そうするものなのだと結希は思った。
よそったご飯の上にカレーを乗せる歌七星を見て、手を伸ばす。
「これ、持っていきますね」
「あぁ、ありがとうございます」
そんな会話が擽ったかった。食器を持ち上げ、結希は逃げるようにキッチンから離れる。
テーブルの上に並べて座ると、歌七星も同時に腰を下ろした。
「…………」
「…………」
四女の歌七星と新しくこの家の住人になった結希の席はあまりにも遠く、ここに来てまた会話が途切れてしまう。……いや、遠くても会話が続く姉妹はいる。続かないのは、多忙な日々を過ごす歌七星とあまり会わないせいだった。
結希が就寝した後に帰宅し、結希が起床する前に出勤する歌七星。一体いつ休んでいるのかと思うほどに、歌七星はあまり家にいない。十人以上の姉妹が集うと賑やかだが、そこに歌七星がいないと気づく度に妙な寂寥を感じるのも確かだった。
「……俺、百妖家に来て誰かと二人きりで食事をするのは初めてですよ。それが歌七星さんだなんて思いもしませんでした」
結希は気まずさを消す為に、思ったことを口にした。歌七星は「そうですね」と相槌を打って、リビングを見回す。
「ここに来れば、必ずと言っていいほど誰かがいますから……。結希くん、遠いのでわたくしの目の前に来てください」
歌七星は結希を見つめて紫色の髪を耳にかけた。
結希は歌七星の目の前の席に視線を移して、目を細める。
「でも、その席は……」
「真璃絵姉さんがよく座っていた席ですよ」
三女の真璃絵は六年前の百鬼夜行で重症を負って以来、意識不明のまま妖目総合病院に入院している。その真璃絵の席は、六年経った今でも空席のままだった。
「……いいんですか?」
「何を言っているんですか。そもそも、どこの席に座らなければならないという決まりはありません。結希くんの場合は末の月夜や幸茶羽よりも席が埋まっていただけなので、必然的にそこになっただけです」
結希の席から見た歌七星の横顔は、どこか寂しそうだった。そんな横顔を見せられた結希は、食器を持って歌七星の目の前に移動する。
歌七星は視線を結希に戻して、わずかに微笑んだ。
「……久しぶりです。その席に誰かが座って、一緒に食事をするのは」
他人行儀だと思った。だが、歌七星は元から本当の家族に対しても敬語を使っている。が、結希に対してだとそこにさらなる壁を作っているように感じた。
「……歌七星さん」
「今度はなんですか?」
「言う機会が今しかないと思ったので」
歌七星はいつの間にか真顔に戻っていた。結希はスザクを呼び出す為の紙切れも入れていたジャケットのポケットに手を突っ込み、そこから小さな紙袋を取り出して歌七星に差し出す。
「これは?」
紙袋を手のひらに乗せた歌七星は、紫色の瞳でそれを見つめた。
「──お誕生日おめでとうございます」
刹那、歌七星の紫色の瞳が見開かれた。
「誕生日、ですか」
「五月十日は歌七星さんの誕生日ですよね? ……あ、麻露さんから聞いたんですけど。誕生日会って、本当にやらないんですね」
先月、椿と一緒に誕生日会をしてもらった結希は覚えていた。
『いつもなら誕生日会なんてやらないじゃん!』
喜びよりも驚きを最優先させて、椿がそう言ったことを。
これだけ家族がいるのにと思って、すぐにこれだけ家族がいるからかと思い直した結希は、毎年してもらえなかった分じわじわと喜びを感じていた。
「やりませんよ。小さい頃は朝日さんが毎月のようにしていたのですが、辞めてからは今日みたいな日もあったので」
いつも騒がしいリビングは、真夜中のように静かだった。その分、テレビから聞こえてくる和穂の笑い声が日常を保とうとしている。
「プレゼント、ありがとうございます。誕生日プレゼントを貰ったのは何年ぶりでしょうか……」
自分が嬉しかったから、他の姉妹の誕生日も祝ってあげたかった。勿論、あの数日後に椿にも誕生日プレゼントを渡している。
「開けてみてください」
「えぇ」
歌七星はテープを丁寧に剥がし、指先を器用に使って中身を出した。歌七星の細い指が摘んでいるものはエメラルドのイヤリングで、それは、リビングの照明に照らされて煌々と輝いていた。
「エメラルドは五月十日の誕生日石らしいですよ。歌七星さんならご存じかもしれませんが」
「いいえ、知りませんでした。でも結希くん、エメラルドのイヤリングなんてお高かったのでは?」
「…………すみません、安物です」
「ふふふっ、正直者ですね。ですが謝らないでください。弟からの贈り物は安物の方が嬉しいですから」
失笑した歌七星は、嬉しそうにイヤリングを指先で転がした。そしてふと指を止め、自分の耳につけている星形のイヤリングを取り外す。代わりにエメラルドのイヤリングをつけて、落ちてきた紫色の髪を再び耳にかけた。
「どうですか?」
「似合ってますよ」
「えぇ。ありがとうございます」
結希は本当のことを言ったが、アイドルとして過ごしていた日々が長いせいか、歌七星は笑顔を作っていた。
しようと思ってそうしていたわけではなく、無意識のうちにそうしていた歌七星は、紙袋を脇に寄せて合掌する。
「では、冷めないうちに食べてしまいましょう。……いただきます」
「いただきます」
結希も歌七星に倣うと、リビングの扉が大きく開いた。




