十四 『隠しごと』
「副会長」
今日も名前は呼ばれない。それでもヒナギクが自分を求めている。自分に伝えようとしている何かがある。
生徒会長で総大将であるヒナギクがこれから何をしようとしているのか──それはきっと、結希でなくてもわかってしまうことだろう。そう思うくらいにたった一つしかない白院家の宿命が、ヒナギクの心と体を縛っている。
山の頂上から見え隠れする瘴気はまだ全体を見せていなかった。実際にはかなりの距離があるのだろうが、ヒナギクは多分、もう待たない。ヒナギクも結希も、充分過ぎるほどに待ったのだから。
「風丸は任せた」
止める間もなく義姉妹と共に京都へと向かったあの日のように、ヒナギクは今日も行ってしまう。
『行きたい』
それが本音だった。
『行けよ!』
背中を押された。
一歩足を前に出し、本当に背中を押されてたたらを踏む。結希の背中を押せる人間はたった一人しかいない。振り返ることなくヒナギクの元へと走っていく。
宿命のせいですべてをたった一人で抱えてしまうヒナギクを、包み込むように抱き締めた。自分よりも小さくて、自分よりも柔らかくて、自分よりも強いヒナギクと共に町役場から姿を消す。
「なっ──?!」
空中で驚くヒナギクはすぐに結希から逃れようとしたが、離れ離れになった瞬間に結希が落下することに気づいて動きを止める。
「馬鹿!」
代わりに力強く罵られた。普段のヒナギクならば他にも色々と言えたはずだが、ただひたすらにそれだけを告げた。
「馬鹿でもいい!」
この行動が馬鹿だと言うのなら、馬鹿になりたいとさえ思った。元から頭が良くないのだ。ヒナギクに呆れられるような右腕で左腕なのだ。それでいい。それでヒナギクを救えるのなら、結希は喜んで馬鹿になれた。
「私も馬鹿なんだ! 副会長だけは死なせたくない!」
ヒナギクが馬鹿になったことなんて一度もなかった。だが、そう言わせてしまうくらいの出来事が今目の前で起きている。
一望できた瘴気の塊は、山と同じくらいに巨大だった。百メートルはあるだろうか。視力が良い結希の双眸でも、その塊を止めようとする義姉妹たちはおらず──半妖の妖力も、感じない。
「姉さんたちが死んだような言い方するなよ!」
それでも結希は信じていた。
「でも……っ、もう……っ」
結希と同じように鬼を視界に入れたヒナギクは、信じることができなかった。
「俺たちは家族だ!」
震え出したヒナギクの肩をさらに強く抱き締める。思い出す一人一人の笑顔が愛しくて、その笑顔をヒナギクは知らないだろうと言い切って、自分は馬鹿なのだと改めて思う。
「家族だから……っ、あの日俺も一緒に行くべきだったんだ……!」
溢れ出したのは後悔の涙だ。アリアと乾の言葉が結希の心に深く刺さる。
『今度の百鬼夜行は、家族で一緒に乗り越えよう?』
『私はその子を守りきれなかった。けど涙は、自分は兄貴で陰陽師だからってやたらと人工半妖の私たちを守りたがる。んで、バカみたいに愛してた家族を守れなかったって後悔してる。その家族の中には、千羽も、紅葉も、お前もちゃんといる。だから、お前を見てると自分と涙を見てる気になってムカつくんだよ。私らが通った道をなぞったって幸せになんてなれねぇのに』
二人は、全員が共に在ることを誰よりも強く望んでいた。離れ離れになってはならないことを知っていて、同じ悲劇を繰り返さないように願って──忠告してくれていた。
「姉さんたちのことは信じてる、でもっ、俺がどんな状態だったとしても一緒に戦わなきゃいけなかったんだ!」
共に在る為に出逢ったのに。
「これ以上後悔はしたくないっ!」
肝心な時に傍にいることができなかった。
『お前は、そうならねぇって誓えるか?』
今でもよく覚えている。
『私が救えなかったモノをお前は救えるか?』
悲しみの中に埋もれているすべてに向かって救うと誓ったあの日のことを。なのに──。
「あいつらはそれを望んでいない」
頬に触れたのは、ヒナギクの柔らかな指先だった。
口調も雰囲気も長女の麻露によく似ているが、頬を撫でる指先はヒナギクの方が温かい。
「あいつらはずっと、副会長の心配ばかりしていた。副会長があの時あいつらの傍にいたら、あいつらは副会長を守る為に、本当に死ぬ気で戦っただろう」
紅蓮の瞳が涙を流す直前のように揺れる。悲しそうに笑うヒナギクは、結希が知らない何かを知っているようだった。
「今思い出した。あいつらは本気を出していたが、生きることを最優先に考えていたんだ。副会長が待つこの地に必ず帰ろうとしていたんだろうな……だから到着も早かったんだろう」
身を捩らせて結希を正面から抱き締めているヒナギクは、さらに強く抱き締めて互いの顔を自然と隠す。
「私はあいつらの総大将だから、わかる。あいつらの力が消えかかっているが──死ぬわけではないと、信じるよ。副会長のように」
「…………」
ヒナギクは結希と違って知っていたのだ。全員が死にかかっていることに気づいていて、顔には出さずに耐え切って、総大将として最後の最後に飛び出したのだ。全員の〝希望〟を背負って、たった一人で──。
「……前に、言ったよな」
ヒナギクはいつもたった一人だ。そのことに気づいて、小さな小さな約束を今になって思い出す。
「何を」
ヒナギクが結希の服を握り締めた。それがあまりにも生徒会長や総大将としてのヒナギクからかけ離れていたが、驚くことはなかった。
ヒナギク自身はずっと覚えていたのかもしれない。ヒナギクが結希を〝右腕〟として欲し、真名を明かした日のことなのだから。
「『私に隠しごとをしたら調教だ』って。ヒナギク……それを今、お前にも言うよ」
世界が歪む。ヒナギクがもう一度瞬間移動をして鬼に一歩近づいたのだ。
鬼が手を伸ばせば届くかもしれない位置で、落下するように飛びながら未来を想う。ヒナギクが耳元で啜り泣いていることに気づいていない振りをして、ヒナギクも笑顔になれる未来を想う。
「お前に全部背負わせた俺を赦してほしい。だから全部曝け出せ──何を言われても赦すから」
何を言われても赦す気だった。赦されないのは自分だとわかっていた。
「義理じゃ、ないんだ」
震える声でヒナギクが告げる。
「でも、この気持ちに愛という名はつかない。それはあまりにもあいつらに失礼だと思うから……言えなかった」
何を言われたのかわからず、何を告げたいのかもわからず、ヒナギクの表情を見てはいけないような気がして鬼を見つめる。
「でも」
ヒナギクが動く。ずっと頬に触れていた手で顔の向きを変えられた。
「──私は絶対に貴様が欲しい」
涙を流すヒナギクと目が合った。
「六年も待ったんだ。これ以上は、待てない」
唇と唇が触れる。ヒナギクの全身が変化する。覚醒していないのは千里を除けばヒナギクと椿だけだった。
強く気高く美しく、ぬらりひょんの末裔として覚醒したヒナギクの言う〝欲しい〟は、どういう意味の〝欲しい〟なのだろう。
彼女は結希を抱いて鬼を見据える。
そんな二人を守るように、千里とスザク──間宮家の式神全員が周囲に集結した。




