五 『残酷な沈黙』
妖怪との距離感は現状維持で良い。問題は、天狐のように人間と妖怪の間に諍いを起こそうとする者がいることだった。
「真菊ッ!」
雅臣は妖怪を守りたかった。悪いのは人間だと言っていた。芦屋義姉弟たちが退院したその日から暮らしているのは百妖家の別宅で、結希は慌てて家に帰る。
『妖怪は殺すべきだと思う? それとも──救うべきだと思う?』
そう言っていたことも知っていた。傷つきながらも教えてくれた朝日が今何を思っているのか知りたかった。
百妖義姉妹たちも、火影も、亜紅里も、ヒナギクも、涙もついて来たが、狭いとは思わなかった。このリビングにそれだけの人数が集まることがあまりにも久しぶりで、懐かしいと思ってしまうくらいに結希は孤独を忘れていた。
「な……」
大人数が押しかけてきたことに驚きを隠せない様子の真菊は、慌てて自分の背後に隠れるモモの背中に手を置いて冷静さを取り戻す。
「なんかあったのか」
真っ先に尋ねたのはソファに座っていた紫苑で、その隣には春が座っている。美歩は椅子に座っており、ベランダで遊んでいた多翼が戻ってきた瞬間に口を開いた。
「母さんが行方不明になった。ククリに会いに行ったイザナミが負傷して、父さんも行方不明になった」
一気に告げ、芦屋義姉弟の反応を伺う。一人も欠けずにこの場にいることが奇跡だと思ったが、誰も追いかけないように──誰のことも巻き込まないように消えたようにも思えて唇を噛み締める。
「…………私は、何も知らない」
傷ついた表情を誰にも見せないように視線を伏せた真菊は本当に何も知らないようで、疑っていたわけではない結希はすぐに否定した。
「心当たりとか何をしようとしているのかとか、なんでもいいから教えてほしいんだ。俺は何も知らないから」
再会したばかりの父親との記憶でさえ、結希にはほとんどないのだ。人柄はなんとなくわかっていたが、その裏の顔はわからない。六年共に過ごしてきた彼らでないとわからないことが必ずあるはずなのだ。
「何を、って」
真菊は泣きそうだった。
「そんなの、私の方が知りたいわよ。結界を壊して、それで終わりだと思っていたのに……」
真菊だって、ずっと苦しんでいたのだ。雅臣を追いかけたかったのではない。泣きそうな顔で真菊を抱き締めるモモがすべてを物語っている。真菊は自分の家族を置いていつ戻れるかもわからない旅に出ることができなかったのだ。
「……どうしてまだ、終わらないの? 行方不明って、何、イザナミが負傷したって、なんで……」
真菊は泣き崩れない。自分の両足で立ったまま、頬を伝う涙を拭っている。
「……何かあったとしか思えない」
姪の美歩は、真菊よりも近い場所で雅臣のことを見つめていた。
「父さんが町の結界を壊すことに固執していたことも、それで妖怪が幸せになると信じていたのも、本当。だから、父さんがそうせざるを得なかった何かがあるのかもしれない」
「……そうせざるを、って、ククリを使ってイザナミを追い払うほどの何かがあったってことでしょ? あの短時間でそんな何かが起こるとは思わないんだけど、美歩はあの時どこにいたの?」
「地上。町の北側だよ」
「は?! なんでそんなとこにいたんだよ!」
「紫苑兄さんも見ただろ。私には式神がいない、だから式神を手に入れに行ったんだ」
「……義彦か」
「そう。だから、父さんと叔母さんのところにはいなかった」
「僕も美歩ね〜ちゃんについて行ったから二人のことは見てないけど……」
多翼は誰のことも見ていなかったが、真菊、春、紫苑が結希と共に行動し、美歩と多翼が町の北側にいたのなら──残りは一人しかいない。だが、家族以外に怯えた態度を取ってしまうその一人に尋ねる気にはならなかった。
明日菜が行方不明になって、明日菜を見つけ、結希が外に出ると決め、天狐を倒したあの時間は多分半日もない。ならば、答えは必然と出てくる。
「あそこには……」
半日も要らない。一秒あれば充分だと言っても過言ではない。
拳を握り締める結希に、この場にいる全員が視線を向けた。全員が結希の我儘でここにいる。その全員を振り回したのだから言わなければならないと思う。
「……母さんがいる」
それがすべてだと思った。朝日を視界に入れた雅臣と雅臣を視界に入れた朝日。ただそれだけで充分な何かが生まれてしまうと気づいてしまった。実際、朝日も行方不明になっているのだから。
「それだと、叔母さんと再会して、何かがあって、叔母さんと行方を眩ませて、追いかけてきたイザナミを追い払ったってことになるけど?」
「別に何も不思議じゃない」
結希は朝日を見ている。雅臣のことも見ている。共有する記憶は少なくても、そこだけは断言できてしまう。
あまりにも普通の感情で離婚したわけではない、様々な──飲み込めない感情を押し殺して別れた二人だけは知っているから。
「じゃ。ありがとう」
芦屋義姉弟たちも何も知らないなら、自分は去らなければならない。ここは自分の帰る場所だが、彼らの楽園を土足で踏み潰すつもりはない。
「……待っ、て」
それは小さな声だったが、聞き逃しはしなかった。
「……あの」
それは、モモの声だ。真菊の背後から顔だけを出し、視線だけは伏せたまま、何かを伝えようとしている。
「モモ」
そんなモモを見るのは初めてだとでも言うような芦屋義姉弟たちの表情が、幼いモモの精一杯の勇気を表していた。
「……お父さんと、お母さん、ね、お姉ちゃんとお兄ちゃんたちを、助けようと、してたの」
モモにとっての雅臣は二人目の父親で、朝日は二人目の母親なのだろう。偽りとはいえ共に過ごした日々はモモの中からも消えていなかったらしく、かつての心春のような怯えた瞳を向けられる。
「……モモのことは連れて行けないから、お母さんの家族の人に預けるって言って、そこまで行って、それで、お、陰陽師の人たちに会って、たくさん、酷いこと、言われてて、モモのこと、預けて、どこかに、行っちゃった」
その双眸から涙が溢れる。空色の瞳から流れる雨のような涙を、真菊が優しい手つきで拭っていく。
この一年でたくさんの人々と出逢った結希だが、モモよりも年下の誰かには会ったことがなかった。百妖義姉妹と芦屋義姉弟を合わせても最年少となるモモは、ずっと独りで自分が見た光景を抱えていたらしい。
雅臣と朝日が浴びる陰陽師の言葉は、結希でさえ耳を塞ぎたくなるほどの罵詈雑言で。誰よりも人間に恐怖心を抱いてもいるモモが聞いて、耐えられるものでもなくて。モモにつられて泣き出した多翼と同じように泣きたくなってしまう。
「……ご、ごめんなさ、モモ、止めれば、良かった、モモのせいで」
「モモのせいじゃないよ」
命を奪われないように守ってきたモモだけが、いつも心に傷を負う。モモの両親が亡くならず、雅臣に拾われることもなかったらと想像してしまうくらいに。
「そうよ。モモのせいじゃない。モモは何も悪くない」
だが、真菊に抱き締められて真菊を抱き締め返すモモを見ていると、何がモモの為になるのかわからなくなった。
「内容は?」
そんなモモに心を傾けることなく追及したヒナギクには、モモとの共通点がない。折れることなく戦い続けることができたヒナギクだから、モモの感情が何一つとしてわからないのだろう。彼女の実妹のスズシロも結希が出逢った人々の中では二番目に幼いからこそ、スズシロをずっと傍で見てきたヒナギクにはモモの弱さ理解できていなかった。
「…………」
急に黙ったモモはヒナギクに怯えて真菊の背後に隠れてしまう。ヒナギクとは共に過ごしていない上に淡々と尋ねられたのだから、仕方がないだろう。
「ちょっと」
ヒナギクを睨んだ真菊も、ヒナギクのことが理解できないだろう。互いに過ごしてきた環境が違いすぎる。結希には百妖家の人間として暮らした日々があり、生徒会役員として共に過ごした日々があり、ヒナギクの立場を理解しているからこそ──こんなところで立ち止まっていることができないヒナギクの感情は理解できてしまうが。
「ヒナギク、今は止めた方がいい」
「何故だ。芦屋雅臣がこの町に害をなす唯一無二の人間になったなら、早急に排除しなければならない。あの日からもう二週間が経っているんだ、これ以上は待ってられない──そもそも、そんなに大事なことを何故今の今まで黙っていたんだ」
ヒナギクのコバルトブルーの瞳はモモのことを睨んでいる。火影には効果がなかったその瞳だが、モモには効果がありすぎる瞳だ。ヒナギクからモモを隠すように前に立った結希は、「まだ何も起きてない」と庇う。
「それに、何かあった場合は二人のことを探さなかった俺の方が悪い」
だがそれは庇ったつもりで言ったわけではなかった。それが結希の本心だった。
「……お父さっ、殺されちゃう、の……? おにいちゃが、悪者になっちゃう、の……?」
震える声で尋ねたモモのそれに肯定で返すことは残酷だ。だが、否定すれば嘘になる。モモのことをよく知る真菊や美歩でさえ何も言えなかった。その沈黙が肯定となり、モモの心にまた刺さる。
何か言わなければ──そう思った瞬間にコール音が聞こえてきた。音を出しているのは結希のスマホだ。慌てて取り出して応答すると、明彦の怒声が聞こえてくる。
『今すぐ戻らないと怒るわよぉ!』
既に怒っているという突っ込みはできなかった。結希は通話を切り、熾夏に助けを求める視線を送る。
「弟クンと涙先輩は戻って説教されなさい。二人の式神借りていいよね? 捜索はこっちがやっておくからさ」
そう言って、ヒナギクの首根っこを掴み家から出ようとする熾夏たちにすべてを任せよう。結希は涙と共に腹を括り、病院に戻った。




