四 『中と外』
四月の下旬。ようやく朝日と連絡がついた結希は、怒りと共に疑問をぶつけていた。
『確かに麻露ちゃんたちを育てたのは私よ。三つ子まで育てたのは覚えているわ』
「どうしてそれを最初に言わないんだよ。おかげでどれだけ俺が悩んだと思ってるんだ」
『ごめんねー。色々説明するのすっかり忘れてた!』
今回の件も本当に悪気がなさそうに謝る朝日は悪だ。『で? 他には何を聞きたいの?』と急に真面目な口調になって尋ねてくる。さっさと会話を終わらせたい、そんな魂胆が見え隠れしているような気がしてちっぽけな自分の心が騒いだ。
「……町から出て何をしてるんだ?」
けれど、結希は知らなければならない。それは、結希が朝日に対して一番尋ねたいことだった。朝日が一番大事な時に町にいなかった理由を、結希は朝日の口から聞きたかった。
『妖怪退治よ。なんでか知らないけど、最近外部で妖怪が確認されててね? 私たちが調査に出されているの』
「妖怪が? それってどういうことだよ、そもそもこの町全体に結界が張ってあって、妖怪は外に出られないはずじゃ……」
『だから力のある陰陽師たちが町の外に出なきゃいけなくなって、その間に中では何者かによって学園の結界が破られた。この状況、ここまで言えば結希君はもうわかるでしょう?』
確かに、朝日の言いたいことはわかった。が、結希は返事をしなかった。
朝日は息を零して
『──その何者かによる巨大な陰謀が、陽陰町を襲っているのよ』
結希に言い聞かせるように、厳かに告げた。
「このことに気づいてる人は?」
『陰陽師なら誰でも気づいているけれど、結城家を除く《十八名家》はきっと誰も気づいていないでしょうね。私たちの調査の件だって、結城家しか知らないもの』
結希は内心でため息をついた。
いつの間にか取り返しのつかない場所に来ていることを知っても、もう後戻りはできない。
『それと、セイリュウにはすべてを伝えてあるわ。きっとセイリュウを経由して、ゲンブやビャッコ、スザクも知っているはずよ』
「わかった。……それと母さん、あと一つだけ」
これ以上この話を続けたくなかった。聞いていると頭が痛くなる。それはただの頭痛ではない。
「俺、色々あって名字を百妖にしなくちゃいけなくなったんだけど……どう思う?」
『いいんじゃない? 百妖結希、かっこいいと思う!』
痛みを必死に堪えながら、結希は母親の声に耳を傾けていた。
〝間宮〟は母方の名字だというのに、朝日は実の息子の名字が変わることを聞いてもまったく動じなかった。
『改めて、結希君。間宮家の最後の陰陽師として、新しく家族になった百妖家のみんなを──私の娘たちを、守ってね』
「……わかってるよ」
『えぇ。頑張れ、〝長男〟』
朝日との通話は、そこで切れた。
朝日から〝百妖〟と名乗る許しを得たこと、育ての親だと確認したことを考えるのは、すぐにやめる。
「……ッ!」
結希は片手で頭を抑えた。
この痛みは記憶喪失による痛みで、朝日の言う〝巨大な陰謀〟がなんなのかを教えていた──。
*
結希が目を閉じたのは、一瞬だった。
隣にいる歌七星が狙いを定め終わり、一気に水の槍を放つ。水の槍はまっすぐに飛翔して、餓者髑髏の足の関節部分を貫いた。
耳障りな餓者髑髏の叫びが大地を震わせる。
歌七星は大きく表情を歪ませて、耳を塞いだ。
「歌七星さん、大丈夫ですか?」
「……ッ! す、すみません……!」
その表情はこの場にいる誰よりも辛そうで、結希はすぐさま月夜と同じ結界を自分を含めた全員に張った。歌七星は肩で息をし、聴力が優れているスザクは日本刀を落として未だに耳を塞いでいる。
「あ、ありがとうございます。人魚は聴力がいいんですが、この手の攻撃には弱くてダメですね」
「それを言うなら俺もですよ。結界は張れますが、攻撃にはならないのでダメダメです」
歌七星は苦笑して前髪に触れた。その手で目元を隠して弄っている。
「…………完全無欠ではなくとも、結希くんはヒーローですね」
微かに呟く歌七星の言葉は空気に触れて消えていった。
結希は餓者髑髏を見上げて、歌七星が攻撃した関節の状態を確認する。
「効いてますよ、歌七星さん」
「当たり前です。ところで結希くん、この結界は内部からの攻撃を通しますか?」
「いや、一度結界を解かないと無理です」
「なら解いてください」
結希は振り向いて歌七星の紫色の瞳を見つめた。
「餓者髑髏が消滅するまでやりましょう」
それは、月夜にも感じた意志の強い瞳だった。それでも歌七星は唇を震わせていて、顔色も悪く、拳を握り締めている。
「歌七星さ……」
「かな姉! そんなのウチがやるから無理すんなって!」
駆け寄ってきた愛果の周囲を見ると、妖怪は餓者髑髏以外すべて倒されていた。スザクは刀を消していて、守るように月夜の隣に立っている。
「無理なんてしていません」
「絶対無理してるし! だって、まり姉は餓者髑髏の半妖だったんだから!」
結希の脳裏に、透き通るような白い肌と髪をした真璃絵の姿が浮かんだ。
生命力を感じさせない、百妖家唯一の大型妖怪。そのせいで姉妹の盾となり、瀕死の重症を負った三女は六年もの月日が経った今でも目覚めない。
「だからなんですか。目の前にいる餓者髑髏は真璃絵姉さんではなくただの妖怪です」
「だったらそんな顔しないでよ!」
歌七星は唇を噛み締めた。
涙は流さなくても、結希には歌七星が泣いているように見えた。
「かな姉っ、愛姉……」
月夜に至ってはぼろぼろと涙を零していた。スザクはそんな月夜を戸惑った表情のまま見つめ、黙って傍に寄り添っている。
「……そうですね、愛果。わたくしは姉失格です」
歌七星は深呼吸を繰り返し、結界から下りる餓者髑髏を見据えた。
「ですからどうか、挽回の機会をわたくしにください」
「……かな姉のバカ」
歌七星は愛果の言葉に笑って、結希に目配せをした。
「援護します」
「お願いします。貴方は長男ですものね」
「三、二、一で結界を解きます。──三、二、一!」
目には見えなくても、結界が解かれたと感覚でわかった。既に用意していた水の槍は、動く餓者髑髏に狙いを定める。
結希は右手の人差し指と中指で真一文字に空間を切り、餓者髑髏の行く先に簡易な結界を張った。次第に餓者髑髏は行き場を失い、足を止める。
「今だ!」
愛果の叫びに後押しされるように、歌七星が水の槍を放った。高速で飛翔する水の槍は餓者髑髏の弱点──間接部分を鋭く突く。
餓者髑髏の叫びを予め予期していた結希は、すぐさま歌七星の結界を張り直して九字を切った。歌七星のように半妖の物理攻撃は不可能だが、結希の陰陽師の攻撃は結界を通る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
消滅する餓者髑髏を、歌七星は俯き加減に見つめていた。結希は、餓者髑髏が最期に見せた苦痛に満ちた表情を忘れることができなかった。
「かな姉ー! お兄ちゃーん!」
静まる空間に月夜のはしゃぎ声が響く。
座敷童の半妖と聞いた後だと、月夜の周囲を癒す効果はその血統から来ているような気がした。
「かっこよかったよっ!」
月夜は傍にいた二人を思い切り抱き締めて、楽しそうに笑う。
「わたくしは挽回できたでしょうか」
歌七星は、変化を解いた愛果に尋ねた。愛果は金髪を整えながら、「元から失格じゃないっての」と歌七星を触れるように優しく蹴る。
「結希様ぁ〜!」
月夜に覆い被さるようにして、スザクは結希だけを抱き締めた。そんな中、いつの間にか歌七星も月夜も変化を解く。
「ありがとうございます、愛果。それに、結希くんとスザクさんも」
「かな姉、つきは? つきはっ?」
「月夜もありがとうございます」
歌七星は微笑んで月夜のたんぽぽ色の髪を撫でた。
「では、帰りましょうか。愛果、先に行って車の鍵を開けてください」
「えっ? あぁ、うん」
愛果は歌七星から車のキーを受け取り、月夜を連れて車の方へと向かっていった。スザクは歌七星と結希を交互に見つめた後、愛果たちの後を追う。
歌七星は表情を真顔に戻して、餓者髑髏が消滅した場所へと視線を移した。
「歌七星さん?」
「……わたくしの能力は、水を操ることです。ですが今回、久しぶりに敵わないかもしれないと思ってしまいました」
ぽつぽつと、歌七星が話し始める。
「今回結希くんがいなければ、わたくしは愛果に頼らざるを得なかったと思います」
悔しげに自分の思いを吐露する歌七星は、いつも堂々としている姿から一転して、弱々しく見えた。
数時間前に本人が言っていた自然体ではないが、結希は百妖家の四女でも《Quartz》のセンターでもない歌七星を見た気がした。
「ですが、手はあるんです。いつかわたくしの力が敵わなくなった時、もしも結希くんが傍にいたら、お願いがあります」
「……なんですか?」
「周囲の人々を避難させてください。例えそれが家族であってもです。それは貴方自身も例外ではありませんからね?」
「それは、どうしてですか」
「──〝とっておき〟を見せたくないからですよ」
歌七星は結希に視線を移して、儚げに笑った。
それは作り笑顔ではない歌七星の笑顔で、普段の歌七星からもアイドルの歌七星からも見られない最高の笑顔だった。
結希は先月愛果がやって見せた〝とっておき〟を思い出し
「陰陽師の俺にも見せられないんですか?」
そう尋ねる。
「えぇ。〝とっておき〟ですから」
歌七星は結希に背を向けて、車の方へと戻っていった。結希はしばらくその場に立っていたが、一歩ずつ足を進める。
風が吹いて、瞬間に新たな気配を感じた。
「ッ!」
勢いよく振り返ると、森の中で人影が揺れた。
銀色の髪から伸びる狐耳。銀色が散りばめられた天色の瞳。揺れる狐の尾。大胆に着崩された和服姿は間違いなく、結界を張った日に結希たちの邪魔をした半妖の裏切り者だった。
「お前はっ!」
少女は結希の口調に目を見開き、煙を出して素早く姿を消した。熾夏が少女を逃した理由に納得した結希は、自分を呼ぶスザクの声で再び足を進め始めた。




