四 『命を捧げる場所』
「妖怪に関して問題を見つけることはありませんでしたが、姫様は今でも前線に出て陰陽師の方々を指揮しています。貴方がどのような結論を出そうと、火影は姫様について行きますので」
そんなヒナギクに従わない者が、一人だけいた。ヒナギクよりも紅葉を大切に想い、紅葉にずっと寄り添っている火影だ。
最前線で指揮を執っている紅葉から離れてヒナギクに従っているのが不思議だと思うくらいに、火影の心は紅葉に捧げられている。火影という存在は紅葉と共にいて初めて火影という存在になるくらいに、火影にとって紅葉はすべてだった。
「…………」
そんな火影をヒナギクは快く思っていないようだったが、結希の時のように「調教だ」とは言わない。あの時と今とでは状況が大きく異なっている。そして、相手も大きく異なっている。
結希は何があってもヒナギクを裏切る気はないが、火影は何があっても紅葉を選ぶ。紅葉の身を人質に取られない限り、火影の身も心も紅葉のものだった。
「それでも、貴様の大将はこの私だ」
ヒナギクはただ事実を述べる。産まれた時から背負っている総大将という宿命を否定せず、産まれた時から背負っている総大将に従わなければならないという宿命を否定する火影を見つめる。
「命の捧げ場所を間違えることだけは、許さない」
ヒナギクと火影も水と油なのだろう。幼い頃から総大将として育てられたヒナギクと、幼い頃から蔵の中で育てられた火影の価値観は天と地ほど離れている。何かが一つでも違っていたら、決して交わることのなかった人生でもあったはずだ。
そんな二人は、母親に捨てられた亜紅里と母親を知らなかった千里を除けば、この世界でたった二人だけしかいない百妖義姉妹になれなかった者でもあった。
「火影は生きる。何があっても」
ヒナギクの瞳を真っ直ぐな瞳で見つめ返す火影は間違いなく鴉貴家の現頭首だったが、白院家の現頭首であるヒナギクはたじろぐことも許されない。百妖義姉妹や生徒会役員のように従わない火影を睨み、「当然だ」と吐き捨てた。
「私たちも死ぬつもりはないからな」
そう告げたのは、ヒナギクや結希より十一歳も年上の麻露だ。半妖の最年長者と呼ぶこともできる彼女の意思は義姉妹たちの意思でもあり、人々よりも死と隣り合わせで生きている彼女たちの未来がこれからも続いていくことを結希は願う。
「それも当然だ。貴様ら、私の言葉の本当の意味をわかって発言しているのか」
ヒナギクはたった一人で抱え込んでいる。何を抱え込んでいるのかは、ヒナギクがどんな未来を見ているのかは知らないが──
「私たちは《十八名家》だ。血で家を、力を、職を、言葉を、意志を、継いでいくのが〝私たち〟だ」
──同じことを恵が言っていたことを思い出した。
「分家とは重みが違う。ただの人間である本家とも重みが違う。私たちに半妖の力があるのは、千年という長い間、絶えることなく命を繋いできた先代たちがいるからだ。次世代がいない今この時代に、この場にいる誰かが欠けることは絶対に許されない。欠けるということはその家の終わりだ。鴉貴エリスは、貴様の存在が公になるまでそんな罪に問われていたんだからな」
両目を見開いた火影は心臓も止めてしまったのかと思うほどに動かなかった。
「命を捧げる場所は、未来だ」
義姉妹たちもその発想はなかったらしく、表情を強張らせたままヒナギクの言葉の輪郭を眺める。そんな風に命が繋がれているから今の自分がいると自覚している亜紅里だけが、ヒナギクの言葉を正面から受け止めることができていた。
未来という回答に間違いはなかったが、ヒナギクが願っているのは彼女たち自身の未来ではなく彼女たちから未来が産まれてくることだった。半妖の総大将として、半妖の絶滅だけは避けたいのだろう。そうしなければならないと母親から叩き込まれたのだろう。結希は、彼女たちが幸せであったらそれでいいと思っていた。それでいいわけがないと思っているのが、ずっと《十八名家》として育てられてきた彼女たちの家族でありヒナギクだった。
「もしも……」
《十八名家》として産まれたわけでも、育てられたわけでもない。性別は男性で、子供を産むことはない。
そんな結希にも発言権があるならば、結希が言えることは一つだけある。
「……もしも俺の夢が叶ったら、半妖の力を受け継ぐことが義務だという未来はなくなる」
《十八名家》として生きている人々やヒナギクが異様なまでに血に拘るのは、妖怪と戦わなければならない今があるからだ。
『……だいじょうぶ。みんな忘れちゃったけど、千年前に交わした陰陽師と半妖の約束は……今も生きてる』
『約束って?』
『……『この地に再び百鬼夜行が引き起こされる時。その時は必ず、互いが互いの力になる』、って。星明が、約束してた。その約束は、六年前守れなかったもの。けれど今は、ユーが守ってるもの』
妖怪と戦うという約束があるからだ。
「ここで戦いが終わったら……俺たちの自己犠牲も、きっと終わる」
宿命とは言えない。
『安心しろ、お前がそうなったのは必然だからな。半妖も《十八名家》も宿命だが、陰陽師だけは宿命じゃない。……あの日唯一戦力を落としてると言ったが、仕方ねぇとも思うよ。陰陽師だけが自己犠牲の塊でできてるんだからな』
乾がそう言っていたから。
「…………神様が味方をしてくれているのかもしれませんね」
土地神でさえ信じていない火影が微笑む。
「叶えるなら今だって」
そうだといい。結希は頷き、ヒナギクへと視線を向ける。
「鈴歌、研究はどうなっているんだ」
ヒナギクは誰とも視線を合わせずに尋ねた。綿之瀬家の現頭首である鈴歌は俯き、首を左右に振る。
「…………瘴気がないから、研究はあまり進んでないって」
鈴歌は研究に関わっていないが、二人から報告は受けているらしい。アリアと乾と風、その三人の中に鈴歌が混じっている光景は想像できないが──四人で力を合わせることができるなら何よりだと、思う。
「まぁ、難しいよねぇ。何がどうなったら〝共存〟になるのかもイマイチはっきりしないしさぁ」
「ううむ。現状平和ではあるが、この状況は共存とは言い難いからのぅ」
「ん〜、お家で一緒に暮らすことになったら共存になるのかな〜」
「は?! 何それ絶対嫌なんだけど! 極端過ぎでしょそれは!」
熾夏、朱亜、和夏、愛果の視線が注がれた。最初に言い出したのは確かに結希だ。だが、人間と妖怪が共存している光景をはっきりと想像していたわけではない。
「殺し合わない、ただそれだけでいいんです」
結希は多くを望もうとはしなかった。もう充分過ぎるほどに多くの願いが叶っている。今まで妖怪を殺していた彼女たちから賛同がある時点で、もう充分すぎるほど──恵まれていると思うのだ。
「それは現状維持ということですよ」
歌七星に指摘されて俯いた。
「現状維持でいいならば、調査に向かったまま帰ってこない陰陽師の半数を呼び戻さなければいけません。それで良いですか?」
「…………」
そんな勇気が結希にはない。陰陽師に声をかけることも、それで良いと言い切れる自信も、ない。
胸騒ぎがするのは確かなのだから、現状維持で良いわけがないのだ。だが、何をどうしたら良いのかは──わからない。
瞬間、血が騒いだ。
「結希様ッ!」
視線を上げると、スザクが目の前に立っている。
「スザク……ッ!」
スザクには朝日の居場所を探らせていた。やはり簡単だったのだ。こんなにも早く帰ってきたということは、朝日の居場所は──
「お待たせ致しました! 朝日様は行方不明でございます!」
──それは、スザクだということに目を瞑っても意味がわからない報告だった。
「は」
そんな声を漏らしたのは結希ではない。近くにいた麻露で、依檻はあんぐりと口を開ける。
「行方、不明……?」
それはこの場にいる全員が知っていることだった。だが、スザクを使っても、セイリュウを使っても、行方がわからないなんてことはない。
「それは、どういうことなのかしらぁ」
誰よりも冷静に尋ねる真璃絵の目はまったく笑っていない。
「飛べないんでございますぅ! 私もセイリュウも! ゲンブとビャッコに頼んでも! オウリュウもダメでしたぁ〜!」
「と、飛べない……てことは、式神の家か?」
「はぁう」
「間宮家の式神の家にはいないんだよな?」
スザクのその発想はなかったとでも言うような表情を見、そのまま頷く姿を確認して黙考する。
「ということは、芦屋家とかですか……?」
おずおずと尋ねる心春とまったく同じことを結希も考えていた。
「イザナミは?」
「わからないでございますぅ……」
「ならイザナギ……いや、ククリなら……」
「でも、そちらの家の結界なら破壊したはずでは?」
スザクの言う通りだ。だが、イザナミとイザナギが暮らしている式神の家にいるとは思えない。いたら絶対に結希に告げている。芦屋家の式神とはいえ隠すことはないだろう。
「でもでも、新しい家を造ったなら関係ないんじゃないかな?」
「ささは式神のこと知らないけど、そんなに簡単に造れるの?」
「いえ、家はすぐに造れます。召喚したその日から暮らさなければならない家なので……」
「じゃあ、やっぱりククリだ」
疑うことなくそう思った。他に朝日の身を隠す者がいない、そう断言できてしまうほどに朝日という存在は陰陽師から忌み嫌われている。
「そのククリには、坊っちゃんに協力する気がないみないねぇ……」
振り返ると、全身に刀傷が入ったイザナミがいた。綺麗な着物は斬られており、血は、痛々しいくらいに滲んでいる。
「イザナミッ!?」
「……申し訳ないけど、深追いはしなかったわ。そうするなって坊っちゃんならば言うでしょう?」
「あ、あぁ、帰ってきてくれて本当に良かった」
「坊っちゃん。覚悟はできてる?」
朝日の失踪。雅臣の抵抗。結希は二週間前から二人を探すべきだったらしい。後悔は不思議としていないからか、「できてる」という答えもすぐに出てきた。
「結希……」
亜紅里の声が震えている。結希はそんな亜紅里を見つめた。
母親である天狐を殺した亜紅里の、今にも泣き出してしまいそうなその双眸を見つめていた。




