三 『たったの一歩』
芦屋雅臣と間宮朝日は、亜紅里が天狐を殺すまで互いを未だに生涯のパートナーだと思っていた。それは、亜紅里が見せていた夢のような幻だった。結希がどれほど願っても手に入らないと諦めていた過去と未来だった。
その終わりを見せることなく去った二人を、いい加減探しに行くべきなのだろう。結城家の人間は誰も動けない。結希も退院していない以上は動けないが、手段を選ばなければ捜索は可能だ。
「陰陽師を裏切った者と、陰陽師を裏切ったことがある家の者──か」
乾の呟きを首肯する。
「そうじゃなくても行方不明って大変なことですよ! 探しに行きましょう!」
真は純粋で優しい子だった。朝日に育てられた義姉妹と雅臣に育てられた義姉弟までもが捜索していないという事実がどういう意味なのか、考えていないのだろう。
朝日を愛した麻露と雅臣を愛した真菊までもが何もしないなら、結希も二人に倣って何もしない方がいい。麻露と真菊が何を考えているのかはわからないが、麻露はかつて、朝日のことを秘密主義者だと言っていた。真菊はずっと、雅臣のことを追いかけていた。それでも──二人をよく知る二人が二人の意図を汲んで何もしなくても、結希はだけはやはり探しに行くべきなのだろう。
世界がひっくり返っても、結希が間宮と芦屋の血を継ぐ陰陽師だということに変わりはないのだから。人間と妖怪の共存を望むならば、自分の行く道を阻む確率が最も高い二人を置いて進むことはできないのだから。
朝日と雅臣の意図がこの世界を救うものなのか、この世界を滅ぼすものなのかはわからない。ただ一つ言えることは──
『二人を目覚めさせるのは利点よりも不利点の方が大きい。あの二人が仲睦まじいのは事実であるが、妖怪が関わると水と油になる。結希くんの心労は大きかろう』
──あの二人は、どこまで行っても水と油だということだった。
「結希、進軍ですか」
「進軍だ」
言い方が少しだけ気になったが、あながち間違ってないだろう。動かせるものすべてを使って二人を探す。二人の今までの行いを考えて、単に事件事故に巻き込まれたとは考えにくい。何かを考えている──そういう前提で探し、停滞している今を動かす。
「承知です」
涙が微笑んだ。子供を見守り続けていた親のような微笑みだ。そんな微笑みを知っていたのは朝羽が傍にいてくれたからで、これは朝羽の為だとも思う。
「手伝えることがあったら言ってください! 僕、犬神なので!」
「必要だったら本物の犬神も貸してやろうか?」
「え、本物?!」
「奥の部屋でずっと喧嘩してるぞ。お前の火車や、真の化け猫と」
結希の火車と言えばたった一匹しかいない。そして、真の化け猫もたった一匹しかいない。
「タマ太郎ッ!」
駆け出して奥の部屋の戸を開けると、乾の言う通りそこにはタマ太郎がいた。
『ユウキ!』
化け猫のあんこと犬神らしき黒犬と戯れていたタマ太郎は、嬉しそうに駆け寄ってきて結希にぶつかろうとする。結希はそれを全力で避け、昼間にも関わらず黄昏時と変わらない大きさとなっているタマ太郎を見上げた。
「良かったお前、生きてたんだな……!」
『アタリマエ、ユウキ、アタリマエ』
喉を鳴らして結希に寄ってくるタマ太郎は、攻撃を続けようとする犬神を右前足で黙らせる。化け猫のあんこは普通の猫と変わらない大きさで、犬神は大型犬よりも一回りくらい大きいだろうか。
自分たちを乗せてもビクともしない屋形車を引く火車のタマ太郎は、気を抜けば飲み込まれてしまいそうな大きさで。笑ってしまいそうになるくらい何も変わっていなかった。
「君は、本当にその火車のことが好きなんだね」
いつもの風よりも柔らかい声色が聞こえてきて、結希は思わず振り返る。そこには、初めて会った頃の退屈そうな──何があっても心が揺さぶられることはないような風はいなかった。
「好きです」
伝え、綿之瀬家の本家の娘で鈴歌の実姉である彼女のショッキングピンク色の瞳を見つめ返す。
「……伝わってくるよ」
相槌を打った風の隣に立ったのは乾で、彼女に駆け寄ったのが犬神で。繋がる点と点がある。
「乾さん、その犬神って」
「言っただろ? 私はサトリと暮らしてたって。そいつは犬神と仲良く暮らしてたってさ」
乾と犬神の家族だったサトリを殺したのは、自分たち陰陽師だ。妖怪を殺すことが宿命である自分たちだ。共存していた彼女たちの心を引き裂いたのは、自分たちなのだ。
「陰陽師はクソだ。それでも、お前みたいな奴がいるなら──お前と涙が私たちの世代の陰陽師ならば、変えられるって信じてる。私はお前が望む世界が見たいよ」
結希の夢は乾の夢でもある。
「綿之瀬家の千年の歴史を懸けて、僕は──僕も、君の力になることを誓うよ。リーダー」
結希の夢は風の夢でもある。
『だが、僕たち次の世代は違う。先月一度だけ頭首に選出された者だけの会合を行ったが、誰がリーダーなのかは一目瞭然だった』
それは、かつての風の言葉だった。《十八名家》はすべての家が対等だ。そのリーダーが結希だと言ったのも風だった。
「お願いします」
結希の夢は、二人なしでは叶えることができないだろう。いや、すべての《十八名家》たちの協力があって初めて叶う夢かもしれない。
結希の夢の為に、先月この場所に《十八名家》の面々が集ったこと。一人一人が戦っていること。一人一人に夢があること。それを結希は知っている。叶える為に来てくれた命を守りたい。自分の家族の命も、守りたい。
「捜索は式神を使うので大丈夫です。セイリュウとククリに連絡を取ることができればすぐに見つかるので」
セイリュウとククリに連絡を取る為には、スザクとイザナミに連絡を取る必要がある。何一つとして難しくはない、あまりにも簡単すぎて躊躇ってしまうような方法だったが、結希はその道を選ぶ。
結希はスザクを呼び出して、セイリュウ、もしくは朝日の行方を探すことを頼んだ。次にイザナミを呼び出して、ククリ、もしくは雅臣の行方を探すことを頼む。
「結希。そろそろ時間です」
時計を見ると、明彦がしつこいくらいに強調していた時間が迫っていた。
「もう戻ります。邪魔してすみませんでした」
「お前が邪魔なわけないだろ」
「僕たちも君たちと話がしたかったからね」
「結希お兄さん! 涙お兄さん! 僕にできることがあったらなんでも言ってくださいね!」
両の拳を握り締める真に「ありがとう」と返し、涙と共に研究所を出る。まだ澄み切った青空が広がっている時間帯だが、今の平和がいつまでも続くと信じる心があれば黄昏時を気にする必要はない。
「では、病院に……」
「悪いけど、涙一人で戻っ……」
「俺も進軍です」
「……別にいいけど」
結希を決して一人にはしないとついて来る涙は、結希と千羽を重ねて見ているのだろうか。それとも、結希と──
「桐也さんの夢が叶って良かったな」
──桐也を、重ねて見ているのだろうか。
そんな桐也の夢を結希に話したのはアリアだ。アリアと乾は二人で一人と言っても過言ではないほどに互いが互いを強く求めている家族であり、桐也の義妹である二人が桐也の夢を知っていたのは何もおかしなことではない。二人は桐也の夢の結晶でもあったのだ。
「……はい」
前を向いた涙に未亡人らしさは微塵もない。たったの一歩だが、それでも大きく前に進んだ涙のその表情は晴れやかで眩しい。そんな風になれない少女を結希は知っている。
「結希、どこに?」
「町役場」
「伯父様ですか。承知です」
「いや、その上にいるだろ」
ずっと本営にいた少女が前線に出てきた意味の重さを受け止めなければならなかった。
「……承知です」
涙は結希の意図を汲んで、黙って町役場までついて来る。結希は時々顔を出すが、《十八名家》は他の《十八名家》のテリトリーに赴くことはほとんどない。それでも少女がここに来たのは、ここが町の中心だからだ。
「ヒナギク!」
名前を呼び、屋上の中央にたった一人で立っているヒナギクの元へと歩く。涙は気を使ったのか下の階に待機しており、結希とヒナギクは、久しぶりに二人きりとなった。
「何故、貴様がここにいるんだ?」
驚いた表情をするヒナギクは、上手く状況を飲み込むことができずに混乱する。
「まだ退院ではないだろう? 脱走か? 明彦がそんなこと許すはず……」
「外出だよ」
突っ込んで、たった一人で抱え込んでしまうヒナギクの隣に立った。
風が運んでくる気配は結希を安心させるが、ヒナギクは気を引き締める。次々と姿を現した義姉妹たちも結希の登場に驚いており、熾夏だけが呆れていた。
「まったく。私たちに会いたいからって涙先輩と一緒に無茶しちゃってさ」
「無茶はしてません。約束は破りましたけど」
「はいはい。一緒に怒られてあげるから戻ろうね〜」
「戻りません」
両肩を押してくる熾夏を止めたのは、ヒナギクの言葉だ。麻露、依檻、真璃絵、歌七星、鈴歌、熾夏、朱亜、和夏、愛果、椿、心春、月夜、幸茶羽、亜紅里、火影の視線がヒナギクに注がれる。
《十八名家》はすべての家が対等だ。だが、この場に限ってはそうではない。
ヒナギクが彼女たちの総大将で、ヒナギクだけが抱えているものがある。
桐也はそんなヒナギクのことも助けたかったのだろうとアリアが言った。ヒナギクには頼れる〝誰か〟がいないとスズシロが言った。そんな彼女の為に自分はここに来たのだ。戻るつもりはない。ヒナギクも戻らせるつもりはないようで安心する。
「報告する者は?」
柔らかさがどこにもない、いつも以上に厳しい声色に背筋が伸びる。
「嵐の前の静けさみたいよ。今までなんだったのって思うくらいにね」
笑顔を見せる依檻も、総大将であるヒナギクに従っている。彼女たちは、悲しいくらいに対等ではなかった。




