十九 『お前も、私も』
目を覚ますと、目の前に暗闇が広がっていた。何か恐ろしいものに喰われてしまったのか──その割りには揺り籠の中にいるような感覚で混乱する。
闇に慣れてきた結希の双眸に映ったのは、妖目総合病院の天井だった。
(今、何時だ……?)
体を起こして辺りを見回すが、誰もいない。大部屋にたった一人で眠っていたようだが、大人数に慣れてしまった今孤独であることは寂しくて寂しくて仕方がなかった。
足を外に投げ出して裸足のまま床に触れ、病室の外に顔を出す。そこは、窓がない無機質な廊下だった。
半分妖怪のみが入院できる階で眠っていたらしい。ならば義姉妹たちもここにいるはずだ。気遣いだったのか病室が足りなかったのかは知らないが、結希はほっと息を吐く。そして、一歩ずつ歩き出した。
この階は病室からも外が見えない。エレベーターに乗り、結希は一つ下の階を目指す。そうやって視界に入った外の景色は、星空が広がるいつもの夜空だった。
「…………」
良かった。それ以外の感想が出てこなかった。歩き続けて窓に張りつき、生まれ育った町を眺める。家に無数の明かりがついているだけで目頭がじんわりと熱くなるのに、その家の隙間から覗く黒い影だけが溢れてくる涙の理由だった。
百鬼夜行を終わらせたからか、妖怪は片手で数える程度にしかいない。目を凝らさなければならないほどの小ささではあるが、まだ、生きている。
「……タマ太郎」
いてほしいと願った。綿之瀬家の研究所に残してきたタマ太郎は、百鬼夜行に身を投じていないと信じたかった。
目を閉じて陰陽師の力を使う。妖怪の気配はあるが妖怪を特定することはできず。半妖の気配がすべてここに集っていることを確認して、エレベーターに向かう。涙を拭って一階まで下り、誰もいないロビーを進んで、施錠されていない自動ドアから外に出て──妖目総合病院に結界が張られていることに気がついた。
誰かが守ってくれたのだろう。その誰かはわからないが、信頼できる数少ない陰陽師の誰かであることは断言できた。
結希は前を向き、結界の外に出る。肌で感じた気配に変化はなかったが、冷気が剥き出しの肌に突き刺さる。
全身を抱き締めて背中を丸めた。山々に囲まれた陽陰町独特の風が次々と襲いかかってきたが、全身が冷たくなるだけで決して死ぬようなことではない。まだこのまま、歩いて行ける。
「────」
視線を上げると、九尾の妖狐が目の前に降り立った。結希はその九尾の妖狐の名を知っていた。
「ママッ!」
声を上げ、走り、見慣れたいつもの大きさになっているママを抱き締める。その肉体は驚くほどに柔らかかった。温かな毛に顔を埋めて暖を取ると、体の震えが消えていく。もう二度と離したくない、そんな言葉が出てきてしまいそうになるほどにしがみついて、結希は安堵の息を吐いた。
『アグリハ』
そうだ。ママは妖目総合病院の中に入ることができない。
「中にいる。まだ会ってないけど」
ママと共に妖目総合病院の外観を眺めた。窓のない階──何故かそれはどこを見てもなかったが、あの階の狭さを考えると内部に存在しているのかもしれない。
『〝カンブツ〟ハ』
ママにとって天狐はどういう存在だったのだろう。妖の鋭い目で世界を睨むママは、阿狐家の頭首たちを産み続けた天狐よりも母親だった。
「死んだ」
肉体はないのだからそう説明しても過言ではないだろう。ただ、大地を揺らしたあの地団駄を思い出すと──亜紅里のことが気にかかった。
『キュー!』
瞬間にママの耳の中から飛び出してきたのは、毛の塊だった。顔面に突っ込んできたポチ子のせいで前が見えなくなる。引き剥がすと、掌サイズ以上の毛の塊が動いていた。
「ポチ子……」
気が抜けてしまうような見た目を持つポチ子は、毛玉の肉体から二本の尾を覗かせていた。だが、以前は何も生えていなかったはずだ。もう幼体とはいえないその体をまじまじと眺め、自分はまだ妖怪のことを何も知らないのだと痛感する。だから、生きていてくれて良かったと思う。
「……良かった、二人とも」
また安堵の息が出た。だが、亜紅里をその目で見ていないママは結界の中に入ろうと足を動かした。
「ママ!」
驚いて慌てて足を広げる。踏ん張ってママを止めようとするが、力で負けて引きずられてしまった。
「待て! 待て! ステイ! ママ!」
夜中に一人で叫び続ける。不審者にしか見えないかもしれないが、結希は全力でママを止める。結界に触れたママの体は、電気に撃たれたかのように震え続けた。それでも進み続けるママだと初めて出逢ったあの日からわかっていた。
「呼んでくるから止まれ! ママが傷ついたら亜紅里が悲しむだろ!」
瞬間に足を止めたママは、亜紅里のことを誰よりも大切に想っている。その想いが報われるように、できることはなんでもしてあげたかった。
「ステイだからな!」
釘を刺し、ママとポチ子を置いて中に戻る。全員の正確な位置はわからなかったが、結希が向かった先は半妖の病室だった。
同じ屋根の下で何ヶ月も暮らしていたとはいえ、病室の中に勝手に入ることはできない。ノックのせいで起こしてしまうこともできない。
悩み、自分がいた病室に戻って辺りを見回すと、隣のベッドに置かれている《鬼切国成》が視界に入った。
行方不明にならなくて良かったが、今欲しいものはそれではない。歩き回ってベッドの傍にある床頭台の前で足を止め、引き出しを開けてメモ帳を見つける。その紙を引きちぎって人形に見えるように破き、そのまま外に出て、念で擬人式神を飛ばした。
亜紅里に届くように。亜紅里だけを呼び出すことができるように。
聞こえてくる音は自分の呼吸の音だけだった。届いているはずなのに何も聞こえないということは、亜紅里が深い眠りについているということで。ノックをして全員の無事を確かめた方がいいのではないかと迷う。そうやって歩き出して、開いた病室の扉の動きで心臓が止まってしまうかと思った。
「あ……」
下ろされた茶髪に、星々のない天色の瞳。暗闇のせいで顔色はまったくわからなかったが、その瞳は真っ直ぐに結希のことを捉えている。
「……亜紅里」
ごくりと唾を飲み込んだ。名を呼ばれた亜紅里の表情は変わらなかったが、歩いてきて身を寄せてくる。その雰囲気は、結希が知っているどの亜紅里にもなかった。
「大丈夫か? 天狐は?」
「……大丈夫」
「……何かあったのか?」
「あった」
断言した亜紅里の表情は見えなかったが、代わりに旋毛がよく見える。泣いているわけではないようだが、自分が何度も泣いた以上、泣いていてほしいような気もした。
「お前も、私も、生きて──ここにいるから」
その言葉は結希が思っている以上に重たいのだろう。結希が亜紅里を知る前から亜紅里は結希のことを知っているから。
「本当に大丈夫なのか? ずっと戦ってただろ」
「別にたいしたことしてない」
一ヶ月ほど戦っていたことを〝たいしたことない〟で片付ける亜紅里はやはり弱くはない。だが、強くもないことはしがみついてくるその姿から伝わってくる。
「……ママとポチ子が来てくる」
それだけでどれほどの元気を与えることができるのだろう。顔を上げた亜紅里と目が合った。天色の瞳の中に星々の輝きを認めて息を呑み、それが涙であることに遅れて気づく。
「……行こう」
無言のままの亜紅里の手を取った。亜紅里が手を握り返す。
「……うん」
微笑む亜紅里は幸せを噛み締めていた。そんな亜紅里に敵意を向ける者は、結希の知る限りどこにもいない。例えどこかに潜んでいたとしても、これから先の未来で亜紅里が何かをしたとしても、結希は亜紅里の味方でいるだろう。今だからこそそう言えた。そんな絆で結ばれていた。




