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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第十二章 孤軍の銀狐
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十七 『楽園』

「……衣良いら


 亜紅里あぐりのか細い声が漏れる。人間の姿に戻った亜紅里と亜紅里を抱き締めている衣良は、阿狐あぎつね家の特徴を脈々と受け継いだ天色の瞳で互いのことを求めるように見つめていた。結希ゆうきの瞳に映る二人は間違いなく、血を分けた二人ぼっちの従兄妹かぞくだった。


「あり……がとう」


 震える声も亜紅里の声で。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


 大粒の涙を流したのも、亜紅里だった。


 そんな亜紅里を見たことは今までで一度もない。嘘偽りのない、亜紅里の感情のままに出てきた表情は──幼子のようで愛らしかった。

 そんな顔をいつまでも見ていたい。この世界のどこにも亜紅里を縛る悪はないから、ありのままに生きていてほしい。衣良を操る糸もどこにもないから、ありのままに生きていてほしい。


「亜紅里、衣良さん」


 一歩も動けない結希は二人に声をかける。


「生きて」


 天狐てんこという呪いが消えた今、阿狐家はどの家よりも自由に羽ばたくことができる。阿狐家は二人のものだ。二人がいて、二人が望めば、阿狐家はまたいつか──本当の意味で繁栄する。


「結希……?」


 亜紅里の目が見開かれた。その意味がよくわからなかった。

 結希は辺りを見回して、明日菜あすな風丸かぜまるが倒れていることに気づく。こんなにも空気が澄んだ美しい世界を取り戻したのに、何故二人は倒れているのだろう。助けなければ。自分が。終わらせた者の責務として。


 だが、力が入らなかった。少しずつ、少しずつ、結希の体を蝕むものがあった。


 天狐の呪いは消えていない。亜紅里の中の天狐もまだ消えていない。ならば亜紅里のことも助けなければ。自分が。まだ、倒れるわけには……。


「結希ッ!」


「弟クン!」


「副会長!」


「結希ぃッ!」


 亜紅里と、熾夏しいかと、ヒナギクと、愛果あいかの声がする。その人たちを置いてどこかには行くことはできないのに、地面が迫る。

 頭を強打したはずだが、不思議と体のどこも痛くなかった。倒れているのに微睡みに似たこの感覚はなんなのだろう。目を開けていることに違和感を感じて閉じようとするが、そうすると、もう二度とここに戻れないような気がした。


「しいねぇッ! 結希が! 助かるの?! ねぇ、しい姉ッ!」


「…………っ、…………」


 愛果が熾夏を揺さぶるが、熾夏は唇を噛んで棒立ちするだけだった。


月夜つきよ! 幸茶羽ささは! 早く! 早く来てッ!」


 叫ぶ亜紅里が向いていた方向に義姉妹がいる。夜が明けた瞬間に体の力を抜いて片膝をついた半妖はんようの彼女たちも、式神しきがみたちも、そして陰陽師おんみょうじの義姉弟たちも──呆然と、結希と明日菜と風丸のことを見つめていた。


「副会長……風丸……明日菜……」


 亜紅里は萎れた声でそれぞれの名を呼ぶヒナギクに気づき、彼女の目の前まで駆ける。


「ヒナギク」


「……亜紅里」


「ごめん、私、本当に……」


「言っただろう、この戦いを終わらせることができるのは亜紅里だけだと。亜紅里が謝る必要はない」


「でも」


「誇れ。私は亜紅里が羨ましい、私はいつも……いつもいつも、何もできないんだ」


「そんなことない。ヒナギクの言葉は聞こえてたから、来てくれて嬉しかったから……私のことを最初から信じてくれていたのはヒナギクだから、何もできないなんてことはないから……だから……」


「当たり前だろう。私は貴様らの総大将で、生徒会長なんだから……」


 それ以上の言葉は続かなかった。俯くヒナギクと亜紅里は一度だけ緋色と天色の視線を交わし、ヒナギクは明日菜の元へと、亜紅里は風丸の元へとそれぞれ駆ける。


「熾夏、結希は……」


 エビスに支えられてやって来た涙も、体に亀裂が入っていた。前に進む度に少しずつ皮膚が崩れており、結希と同じ症状が熾夏と愛果の息を止める。桐也きりやによく似た顔を持つエビスは、ずっと声なき涙を流していた。


「瘴気が……瘴気に、やられて……私たちじゃもう助けることができない」


 それは、月夜と幸茶羽では治せない傷だった。涙も、結希も、治すことのできない傷を負ったのだ。


「……涙先輩、なんとかしてよ。涙先輩は結城ゆうき家の偉大な陰陽師でしょ? なんとかならないの? 涙先輩、お願い……治す方法はないの?」


 抱き締めたくても抱き締めることができない。熾夏は泣きながら涙に近づき、触れられないことに傷つき、心で縋り、言葉で願う。縋られた涙は眉を下げ、俯いた。


「不明です」


「じゃあ今すぐ術を作って」


「不可能です。俺は、凡才です」


「涙先輩は陰陽師の王でしょ……」


「肯定です。そして、次の王は紅葉くれはです」


「……次の話をしてるんじゃないの。私には涙先輩と弟クンが生きている未来が視えるの。だから、諦めないで道を探して……。生きてって弟クンが言うんだから、涙先輩も生きることを諦めないで……弟クンの命を諦めないで……」


「熾夏…………承知です」


「……ありがとう、先輩」


 熾夏と涙は、自分たちを囲む陰陽師の気配に気づいていた。結界の中から一歩も出ずに戦っていた芦屋あしや義姉弟は全員無傷で、誰一人として涙のように諦めていなかった。


「王のクセに知らねーのかよ」


「血筋がいいだけみたいだね」


「貴方の言う通り、貴方は本当に凡才よ。泥を舐めて生きていたらもう少しマシになったかもしれないけれど」


「まさか、術が存在ですか?」


 紫苑しおんはる真菊まぎくも頷く。涙は熾夏と視線を交わらせ、愛果は熾夏を抱き締める。


「まぁでも、私たちにこの術を教えてくれたのは父さんだから、私たちも父さんに拾ってもらわなかったら知らないままだったかもしれないわ」


「芦屋……妖怪を祓わない者だけが知る術……」


「穢れを祓う。陰陽師本来の役割を果たし続けた者がだけが知る術よ。紫苑、春、この人をお願い」


「じゃあ、てめぇは……」


「あのバカのところに行くわ」


「……殺すのか」


「助けに行くのよ」


「姉さん、それってつまり……」


 結希の元へと歩いていく真菊の背中は、本当に人を殺す者の背中ではなかった。春と紫苑は視線を交わらせ、この光景が本物であることを互いの頬を引っ張り確かめる。真菊は風丸と結希に寄り添う亜紅里の傍に立ち、亜紅里と同じようにしゃがんで結希の様子を確認した。


「本当に助けるつもりなのか」


「そこまで外道じゃないわよ」


「私が知ってる真菊は外道だ」


「……なら、それは昔の話よ」


 真菊の翡翠色の瞳は嘘を吐いていなかった。亜紅里は唾を飲み込んで、「どういう心境の変化なんだ」とかつてのパートナーに尋ねる。


「あの子たちに嫌われたくないだけよ」


 初めて会ったあの日から、真菊のそんなところは何も変わっていなかった。


「真菊はまだ、結希のこと……」


「大嫌い。クソ、バカ、大嫌い」


 微笑む真菊は手を伸ばし、結希に触れる。亜紅里は真菊に寄りかかり、瞳を閉じてただ祈った。


六根清浄ろっこんしょうじょう──」


 祈る者は亜紅里だけではない。駆けつけてきた義姉妹たちも、祈る。終わりがまだ来ないことを。


「──急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 真菊の声と、春と紫苑の声が重なった。


「六根清浄……急急如律令……?」


 陰陽師の王である涙は惚けた表情で繰り返す。エビスにしがみつく腕も、動かした口元も、両足も、その術によって清められていく。


「眩しいな」


 真菊の耳元で呟いた亜紅里は、そのまま真菊の元へとわざと倒れた。


「重い」


「疲れた」


「知らないわよ。私、貴方のお姉ちゃんじゃないんだけど?」


「なんだかんだ面倒見てくれてただろ」


「貴方があまりにも常識というものを知らなかったからよ。ていうか私、わざと捕まった貴方のこと未だに許してないんだけど? この裏切り者」


「最終的には真菊だって裏切っただろ。お相子お相子」


「何があいこよ。私は父さんについて行っただけで女狐の仲間になったつもりはないわ」


「また父さんかよ……面倒くさ」


「貴方だって初めて会った時は『ママ、ママ』ってうるさかったでしょ」


「うるさい」


 殴り合う二人は仲が良いのか悪いのか。近づいて二人を止めた麻露ましろは微笑み、二人の頭を強く撫でる。


「ありがとう、二人とも」


 涙を流しながら感謝を述べた麻露に返す言葉を二人は持っていなかった。依檻いおりが、真璃絵まりえが、歌七星かなせが、鈴歌れいかが、朱亜しゅあが、和夏わかなが、月夜が、幸茶羽が、二人を囲んで微笑みを浮かべる。


「良くやった」


 全員、亜紅里と過ごした日々は勿論、真菊と過ごした日々のことも覚えていた。

 亜紅里は百妖ひゃくおう家の人間として生き、真菊は彼女たちの妹として生きた。そのことは二人も覚えていた。


「……なんなの貴方、偉そうに」


「偉いに決まっているだろう? 私はキミの姉なんだから」


「……終わった話よ」


「終わったならまた始めればいいじゃない」


 依檻は真菊の肩に手を置いて──


「私は終わったなんて思ってないわよぉ」


 ──真璃絵は真菊の手を握る。


「な、なんなの……なんで……意味わからないわ」


「ならば聞きますが、貴方は何故彼らを愛し守ろうとしたのですか」


 淡々と尋ねた歌七星の声に驚いたのは、真菊が未だに町役場で怒りに震えた歌七星の姿を覚えているからで。ゆっくりと、自分を見つめる春と紫苑の表情を見た。


「……弟、だから」


 それ以外の答えがなかった。自分のことを「姉さん」と呼んで慕ってくれた春のことも、「ババァ」と呼んで反抗していた紫苑のことも、何故だかわからないが愛していた。

 雅臣まさおみの姪である美歩みほのことも、いつだって笑っている多翼たいきのことも、いつだって頼ってくれるモモのことも、愛していた。


 春が虐められて大怪我を負い、不登校になったあの時も。紫苑が《グレン隊》に入隊して、行方を晦ましたあの時も。美歩がすべてに置いて優秀すぎて反感を買い、不登校に追い込まれたあの時も。多翼が協調性のないことばかりをして、不登校になったあの時も。モモが上手く話せず孤立して、不登校になったあの時も。真菊は絶対に五人のことを見限らなかった。その手を離したくなかった。五人が帰ってくるあの家を守りたかった。


「……もう二度と、独りぼっちに……なりたくなかったから……」


 だからずっと、自分たちの楽園を脅かし続ける結希のことが憎かった。


「…………ならないよ。もう二度と」


「こんなに騒がしかったら、なりたくてもなれないよねぇ」


「みんな、家を離れたはずなのにのぅ」


「また巡り会っちゃったね〜」


 鈴歌も、熾夏も、朱亜も、和夏も、そんな運命を笑っている。


「諦めな。ウチの家族、こうなったらしつこいから」


「けど、この家の人間で良かったって思える家だよ」


「つき、お姉ちゃんたちに出逢えて良かったなぁ」


「ささも。……お姉ちゃんがたくさんいて嬉しい」


 愛果も、心春こはるも、月夜も、幸茶羽も、そんな運命を愛していた。


椿つばき火影ほかげ、アンタはどうなの?」


 愛果が声をかけたのは、少し離れた場所に立っている椿で。火影も、結希の様子が確認できる位置に立っていた。


「アタシは……みんなのことも、菊姉きくねぇのことも、大好きだよ」


 椿は笑っているが、どこか寂しそうで。


「なんの話ですか?」


 火影は眉間に皺を寄せた。


「愛の話だよ」


 笑って答える亜紅里の言葉を、目覚めた明日菜と風丸も、その明日菜を支えながら歩いてくるヒナギクも、亜紅里を見守り続ける衣良も、死を免れた涙も、今の今まで真菊の本音を知らなかった春と紫苑も──



「…………」



 ──真菊が救った六人目の命の結希も、聞いていた。

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