十四 『誰もが誰かを』
『ギャアアァアアアアァッ──!!』
脳の奥が抉れてしまいそうな叫びだった。だが、望む断末魔の叫びではない。
まだ、まだ、終わらない。これからも手を緩めることはできなかった。結希の両耳を包み込むように塞いだのは、同じく天狐──かつて人々から殺卑孤と呼ばれた神の声が聞こえている亜紅里で。自分自身を蔑ろにして結希を守ろうとする亜紅里の想いは、無償の愛だった。
視線を上げ、お守りと耳飾りを握って祈る明日菜を見つける。同じくこの声が聞こえている明日菜も、その姉の熾夏も、出てきた結希と亜紅里を見つけて笑顔を見せた。
「結希君ッ! 亜紅里ちゃんッ!」
落ちていく結希の腹部に右腕を回し、左腕で亜紅里ごと抱き締めてきたのは千里だった。主の危機に気づいて真っ先に飛び出してきた千里は、何もない空間を蹴り、二人を抱えて着地する。
「千里ッ!」
「良かったっ、無事で!」
千里も笑顔を浮かべていた。
「ありがと千里! 悪いけど、ここはいいから今すぐ祠を探してほしい! イザナミも!」
「祠?」
「天狐の祠がどこかにあるはずなんだ! それを破壊すれば──」
轟音が全員の脳を揺らす。千里の耳にも届いたそれは何かが落ちてきた音で、戦場の中央にめり込んでいたのは、瓦の屋根──いや、小さな祠に見えなくもない。
「あれは……」
心臓がある位置に手を置いた亜紅里は、何かを感じ取ったのだろう。
「あっ……!」
息を呑んだ千里は、傍らに降り立った二人の式神を指差した。
「カグツチ?!」
「エンマ!」
セイリュウとゲンブが息を呑む。だが、ククリとカグラに驚いている様子はなかった。イヌマルは二人のことを知らないのか訝しむように見ていたが、すぐに攻撃を再開させる。
カグツチとエンマもその場に立っているだけではなかった。刀ではなく拳で祠を破壊して、結希と千里の方へと視線を移す。結希と亜紅里の望みを真っ先に実行した二人は一体誰の式神なのだろう。
「ほほほっ。玉依ぇ、貴方は本当に恐ろしい子を産んだわねぇ」
それは、恍惚に満ちた瞳で笑うイザナミと──
「カグツチ! エンマ!」
──慌てて駆け寄ってきた真菊が知っていることだった。
「どうしてっ! 多翼とモモは……」
「はぁ? あんた、俺に指図するとか何様? 俺に指図できんのは俺の主だけなんだけど?」
腕を組んだ青年の方がカグツチだろうか。カグツチはカグラに負けないほどの長身で、花紺青色の落ち着いた着物がよく似合っている。だが、臙脂色の短髪と言動、顔つきからも幼さが滲み出ており、真菊のことを不機嫌そうに睨んでいた。
そんなカグツチの隣に立つエンマは十歳にも満たない少女で、感情を剥き出しにする真菊を前にしてもニコニコと笑っている。だが、心から笑っているわけではない──それは心がない者が作る不気味な笑顔だった。そんなエンマが着ているのは、刺繍や金箔もない黒留袖で。真っ黒な髪は腰まで伸びていた。
「じゃあ、美歩と多翼とモモは誰が守るのよっ!」
カグツチの言葉から察することしかできないが、多翼とモモは名を聞いた瞬間に式神と契約したのだろう。カグツチとエンマがここにいるのは多翼とモモが望んだからで、そんなつもりではなかった真菊にはそれが受け入れられない。だが、多翼とモモがそう望んだことで、状況が大きく変わっていく。
『ギャアアァアアアアァッ──!!』
宣言通りやったのだ。実行したのはカグツチとエンマだが、結希が殺卑孤の腹を破った瞬間に美歩が殺卑孤の祠を破壊したのだ。
残してきた三人からも託された。激しさが増した殺卑孤の攻撃は突っ込んでいく全員の体を掠めており、傷が消えなくなってもまだ足りないのだと思い知る。
「俺たちで守るんだ! 今ここで終わらせるんだよ!」
全力で叫んだ。今ここで終わらせる、誰の命も犠牲にせずに。それができる一歩手前まで来ていると確信していた。
ツクモとタマモを消された春と紫苑も、イザナギにつき添われながら駆けつけてくる。後ろの方にいてほしかった──それが本音だったが、美歩たちを守ろうとする真菊と同じ思考であることに気づいていたから言えなかった。
誰もが誰かを想っている。全員の全身が悲鳴を上げ、鮮血が飛び散る。
戦力は、一人でも欲しい。
「ババァは美歩を信じろ! で! 言わなかったけどそれ使うなら返せよ《半妖切安光》!」
紫苑は、《鬼切国成》の所有者として最も相応しい人間は結希だと信じているらしい。《鬼切国成》の現在の所有者は紫苑で《半妖切安光》の現在の所有者は結希なのだが、《鬼切国成》の所有権は一切主張しなかった。
そもそも《半妖切安光》は紫苑が町役場から盗ったもので、それを見逃されているだけなのだが。
「千里、式神の家から《半妖切安光》を取ってきてほしい」
「はい!」
姿を消してすぐに戻ってきた千里は《半妖切安光》を紫苑に託し、紫苑は春に下がるよう指示する。
「でも!」
「うるせぇこん中で一番役立たずなのはてめぇだろ!」
春は、自分の前に立って刀を構えた紫苑に何も言えなかった。
「紫苑、交換だ」
「ありがとな、兄さん」
紫苑はもう、前の所有者のように《半妖切安光》で誰かを傷つけない。《鬼切国成》を所有する結希が誰よりもそれを信じている。
「待っ──」
結希と紫苑を呼び止めようとした春は呼吸を止めた。式神以外の全員が息を止めたのは、音もなく現れた青年が壊れた祠の上に立っていたからだった。
青年が纏う雰囲気は、落ちた神である殺卑孤には劣るものの禍々しく。明治時代を彷彿とさせる和洋折衷の服装がこの場の誰よりも異彩を放っている。着物の上に羽織られた角袖外套は黒く、目深に被られた同色の中折れ帽のせいで顔はよく見えなかった。敵か味方かも、わからなかった。
「ッ」
手中の《鬼切国成》が震える。恐れではなく怒りだ。これは──
「義彦」
──声をかけたのは、エンマだった。
「よし、ひこ……」
聞き覚えのある名前だった。
「よぉエンマ。お前は何十年経っても変わらねぇなぁ」
その声は、聞いたことがある声だった。
「エンマは式神なのだ。変わるわけないのだ」
「地獄みたいだなぁ、式神の運命ってのは」
「そうでもないのだ。エンマは義彦の式神で幸せだったのだ。けど、あの娘に負けて悪業罰示式神になった気分は最悪なのだ?」
「当たり前だ。けど、また半妖どもを殺せるなら悪くないなぁ」
義彦の瞳が傍らの亜紅里と千里を射抜く。
「ッ!」
二人を守るように前に出るが、「それは無理なのだ」と告げたエンマに救われた。
「お前はもう芦屋美歩の式神で、エンマはもう土御門モモの式神なのだ」
その顔が、歪められた。
「美歩の? ど、どういうことなの?」
「あら、陰陽師の子なのに知らないのねぇ。悪業罰示式神は、悪行をおこなった霊を打ち負かすことで使役できる式神よ。ほほほっ、あの子も考えたわねぇ。土御門義彦の大罪ならば、あの子の力に耐えられる…………私は御役御免ね」
義彦は、エンマを式神にすることも、紫苑の《半妖切安光》を奪うことも、亜紅里と千里を殺すこともできなかった。義彦の主である美歩がそれを許さない。美歩の命令はそうではない。
「紫苑、絶対それ手放すなよ」
「わーってるよ!」
頷き、空を見上げる。相変わらずの瘴気の空だ。そこに殺卑孤の幻術をたった一人で防いでいる人がいる。
「ティアナさん!」
呼ぶと、《鬼切国成》を持っていない左手首を握られて体が上昇する。
「なんで連れ去るんですか?!」
「呼んだのはそっちなんだからお前が来い」
「そっ……えぇ?!」
納得できるようなできないような。そんなティアナの肩に乗っていた心春を見つけて安堵する。
「俺が話したかったのはティアナさんじゃなくて心春なんで!」
「お兄ちゃん?! どうしたの?!」
「言霊を使って地下にいる人たち全員の記憶を消してほしいんだ!」
「えぇっ?!」
「それか、天狐に関する記憶を!」
「ちょっと待って! ぼく、言霊は……」
「わかってる! そこにいる神から! 殺卑孤から力を奪ってほしいんだ!」
「……そ、そっか! 神様なら誰でも! わかったお兄ちゃん、消してみる! ティアナさん近づいてくれますか?!」
ティアナは「人使いが荒い!」と怒ったが、体を傾けて殺卑孤の方へと向かっていった。
「ティアナさん! ここで下ろしてください!」
瞬間に手首を離された結希は、殺卑孤の首元へと手を伸ばす。そこに未だに刺さっている先祖の刀は想像以上に簡単に抜けた。それを、迷いもなく義彦へと投げた。《半妖切安光》で半妖を斬り、《鬼切国成》に命を斬られ、この世のどこかで彷徨い続け、美歩に負けた義彦は──子供のように輝いた瞳でその刀を見つめて手を伸ばした。
千年も殺卑孤に刺さっていたその刀に名をつけるならば、《殺卑孤》だろう。それを掴んだ義彦は笑みを浮かべ、イザナミに言われた通り自分で渡した結希も似たような表情を見せた。
「『殺卑孤よ、我に力を与えたまえ』──」
落ちていく結希を救うように風が吹く。
「──『人々の記憶から、殺卑孤の名を消し去りたまえ』!」
口に出されて改めて思う。これはとてつもなくおかしな言霊だ、と。誰よりも近くにいたククリに抱き留められた結希は、致命傷にならない傷を全身につけている彼女に気づいて胸を痛める。それももう終わりだと信じたい。考えられるすべての攻撃は出し尽くしたのだから。
セイリュウと、ゲンブと、カグラと、イヌマル。イザナミと、イザナギと、カグツチと、エンマ。八人の刀が殺卑孤の右前足を切り落とす。ぐらりと揺れる殺卑孤に嬉々として突っ込んでいく義彦が左前足を落とすことはできなかったが──稲妻のような傷がつく。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前ッ!」
真菊と春の九字、そして、芦屋義姉弟が出てきたことにより出てきたステラと花の九字も入る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前ッ!」
着地した結希も九字を切った。レオとグリゴレ、エヴァとニコラの蹴りは殺卑孤を地に沈めさせてまた一歩勝利へと近づく。
「はぁ──ッ!」
一瞬だけ、殺卑孤から血が溢れたのだと思った。流星のように現れて殺卑孤の首を斬り落としたのは、真っ赤な血に染ったような少女で。額から二本の角が生えている。
彼女は紅椿でも、梅でもない。
「──椿」
《天狐切丸》を握り締めていたのは、鬼の子の椿だった。
先ほどまでの轟音が嘘のように辺りが静まり返る。ごろごろと転がった殺卑孤の首を誰もが見ていたが、終わったという実感はない。
「まだだッ!」
苦しそうに胸元を抑えて亜紅里が叫ぶ。斬り落とされた殺卑孤の首からしゅうしゅうとこの世に溢れ出てきたのは、戦場を埋め尽くそうとする瘴気だった。




