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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第十二章 孤軍の銀狐
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十三 『始祖と末裔の個』

 銀色の粒が散りばめられた天色の瞳が開かれる。その瞳の中に映る結希ゆうきは、なんとも情けない──締りのない表情をしていた。

 口元を隠した亜紅里あぐりの表情はどうしても読めない。読ませようとしておらず、読ませたくないと思ったから、亜紅里は口元を隠したのだ。


 阿狐あぎつね亜紅里は、妖怪に最も近い半妖はんようである。


 妖怪の血が最も濃い和夏わかなではない。強過ぎる力に苦しむ熾夏しいかでもない。

 妖となって、神となった存在と交合った人間から産まれてきた阿狐家の末裔。妖怪に育てられた世界で唯一の半妖だ。その姿を得る時、肉体の中で最も個を表している顔を隠すことは至極当然だと言える。


 結希はまだ、阿狐亜紅里という名の少女を見つけていなかった。その顔を、彼女が隠し続ける限り永遠に見つけることができなかった。


 見つめ合って動いたのは亜紅里の目元だった。笑うように細くなっている。


「行くぞ」


 その声色は優しくて、温かかった。


「行くってどこに」


「出るんだよここから。私だけだったら諦めることができたが、お前がいるなら話は別だ」


「俺がいなくても諦めるなよ!」


「無理だ」


 断言される。背中を向けた亜紅里が語る言葉を見つけ出そうとして──



「私の半分は、既に奴のものになっている」



 ──絶望に、蝕まれる。


 思い出すのは天狐てんこに喰われたよりだった。頼の変化に気づいたのは──いや、その瞬間を見ていたからこそ騙されなかったのは衣良いらの父親の理樹りきだけだ。

 母親と姉を追った理樹のあの日の行動もまた、始まりだった。理樹のあの日がなければ、亜紅里は完全に飲み込まれていただろう。理樹のあの日があったから、亜紅里はまだ生きている。そのバトンを落とす気はない。


「私には、生きたいっていう願望がない」


 例え亜紅里が手放そうとしていても。


「お前らに出逢って、生きなければならないって思ったけど、死んでもいいとも思ってる」


 自分には生きる価値がないと思っていても。


「俺はお前に死んでほしくない! もう二度と、もう誰も、死んでほしくない!」


「でも、結希は私と幸せになってくれないだろ?」


 口に出さずとも、亜紅里には答えがわかっていた。


「それ、って……」


「私だけを愛してほしい、そう言っても無理だろう?」


 無理だと告げることは簡単ではなかった。

 結希の心は、この世界で生まれて初めて目覚めた時から決まっている。それでも簡単ではないのは、一年未満のつき合いでも同じくらいの特別を亜紅里に感じているからだ。


「なら、死んでもいい」


 はっきりと告げられたわけではないが、それは正しく愛の告白だった。


「死んでもいい、だろ? 死にたいってわけじゃないんだろ?」


 僅かな希望に縋る。情けなくて、締りがない。こんな自分では誰からも好かれないはずなのに。


「死にたいってわけじゃない、だとしても──お前は生きたいか? こんな人生を」


 振り向いた亜紅里の表情はやはり読めない。だが、あまりにも、その目は枯れ果てていた。


 結希はきっと、亜紅里のすべてを理解することができない。同じ裏切り者の子孫として最も痛みを分かち合うことができると思っていた相手でも、こんなに遠い。


「俺は……」


 納刀した《鬼切国成おにきりくになり》の柄を、強く強く握り締めた。


 自分は何がしたかった?

 自分は何を望んでいた?


 その答えは、まだ亜紅里には伝わっていないはずだ。


「……俺は、闇を祓いたい」


 自分を覆う闇を。亜紅里を含めた大切な彼女たちを覆う闇を。祓って未来に行きたいと思えたのは、家族として出逢ったからだ。

 赤の他人として出逢った世界の結希は、自分自身を蔑ろにしただろう。大切なことを誰にも告げずに、たった一人で背負って、どこかの戦いで命を落としていたはずだ。家族だったから、自分も欠けてはならない人間なのだと思えたのだ。


「闇を祓って、俺たちが幸せになれる世界を掴みたい。だから俺は人間の手も妖怪の手も離したくないんだ。それができるって俺に教えてくれたのは、亜紅里、お前なんだぞ。お前がママとポチと一緒に笑ってたから、だから、人と妖怪は一緒に生きることができるって確信することができたんだ。タマ太郎たろうと俺だけだったら、そう思うことも──まことあんこに出逢うこともなかった。俺は共に生きたいんだ」


 亜紅里はまばたき一つしなかった。呼吸することもなく、黙って結希の話を聞いていた。


「だから、お前にも生きてほしい。お前がいなくなったら俺は絶対に大丈夫じゃなくなる。俺が、亜紅里が自分の命を肯定できる世界を創るから──だから、その時まで俺の傍にいてほしい」


 それは決して簡単なことではない。途方もない時間がかかることもわかっている。

 それでも結希は亜紅里に信じてほしかった。妖怪を母と呼び、妖怪と共に生きた亜紅里が信じてくれるならばなんでもできると確信していた。


「……卑怯者」


 酷いことを言っている自覚はあった。亜紅里も結希の言葉に流されず、結希の悪いところを悪いと言って、突く。

 殴られた方が数倍も良かった。心を殴られるのは辛く苦しいが、亜紅里に辛く苦しい思いをさせたのは結希だった。


「愛してくれないくせに」


 ふらりと亜紅里の体が揺れる。伸ばしたその手をしっかりと掴んで結希の体を抱き締めた亜紅里は、「りょーかい」と耳元で囁いた。


「あたしのせいで大丈夫じゃなくなるゆうゆうはすっごく見てみたいけど、二号さんにはなれてるみたいだし、これで許してあげるよ」


 体を離した亜紅里は自ら口元の布を下ろし、再び結希に顔を見せる。それはとても晴れやかな、美しい笑顔だった。

 やっと見つけた。もう二度と、離さない。亜紅里の今までの人生を変えることはできないが、これからの亜紅里の人生は自分の手にかかっている──間違っているが二番目と言われても仕方がない。だが、亜紅里が死を選ばないと決めた時に誰よりも喜ぶのは自分だという自覚はあった。


「──んっ」


 そうやって安心しきった結希の唇に唇が押しつけられる。考えるまでもない。これは亜紅里の唇だ。想像以上に柔らかく、シナモンの味だと錯覚してしまうほどに亜紅里の体が密着している。これは、背中に身を寄せられたあの時の逆だった。


「まっ、あぐ……っ」


「くひひっ。いーよ。ここから先はあたしのルートだから」


 一歩下がって笑った亜紅里の姿は今まで見てきた亜紅里の姿ではなく、自分の陰陽師おんみょうじの力が吸われたことに遅れて気づく。

 亜紅里の全身にぴっちりと張りついていた黒い布が、跡形もなく消え去っていた。銀色の狐の耳と、銀色の狐の尾。それが亜紅里の魅力の一つだが、天狐はそれを美しいと認めなかった。


 白い着物と緋袴は巫女姿の麻露ましろ明日菜あすなを彷彿させ、思わず唾を飲み込む。

 亜紅里は再び「くひひっ」と笑い、「少しでもゆうゆうの好きになれたかな?」と一回転した。


「好きじゃない」


「え〜、傷つくぅ〜」


「お前がそんな言い方するからだろ」


「へぇ。てことはやっぱり好きなんだ」


 亜紅里と共にいると調子が狂う。だが、そんな時に限って亜紅里は楽しそうに笑っている。

 亜紅里には裏の亜紅里と表の亜紅里という二種類の顔があった。裏の亜紅里が素の亜紅里だが、時々、表の亜紅里も素の亜紅里の一部なのだと思う時がある。


「ねぇ。ねぇねぇねぇってば」


 結希は肯定も否定もしなかった。


「ねぇゆうゆう、あたし、他の誰にも負けないよ。だってあたしはゆうゆうの味方だから」


 亜紅里だけが彼女たちの中で唯一の敵だった。その言葉を飲み込んで、外で待つ人々の顔を思い浮かべる。

 どんな時も味方でいてくれた家族と。かつての敵と。見ず知らずの他人であるにも関わらず助けようとしてくれる人々。


『ユウキ、わたしね、この幻は優しい嘘だって思うよ』


 彼女たちの為に、地下で待つ人々の為に、必ず──この勝負に勝たなければ。


「お前は負けないよ」


 何故なら亜紅里は頼の娘だから。


「ありがとな、亜紅里」


「こっちこそありがとうだよ。世界で一番愛してる」


 亜紅里が大人びた笑みを浮かべて礼を返す。今までのどの亜紅里でもない亜紅里が、そこにいた。


「さ、どうする? あたしが覚醒しても天狐の力が強力で、無尽蔵であることは変わりないよ?」


「そもそも最初に言ってた体の半分が天狐のものって大丈夫なのか? 何か俺にできることは……」


「既にやってくれたでしょ。外から天狐の攻撃が入るようになったから、今は拮抗状態で済んでるけど……やっぱ腐っても神だね。天狐を先に潰さないと、あたしが先に潰れる」


「中からは?」


「撃って撃って撃ちまくったよ。あたしの力はこいつのものだから全然効かないし、こいつに飲み込まれないようにってのと術の維持ってことで力を奪って抵抗してたけど、こいつが弱ることはなかったし」


「本当に、腐っても神…………いや、待て」


「何?」


「神ってことは、倒し方が違うんじゃないか?」


 弾が切れた銃をくるくると指で回していた亜紅里が目を見開く。


「妖怪と同じ方法だったら絶対に倒れないってこと?」


「神ならばどこかに祠があるはずだ」


「じゃあそれを壊せばいーんじゃん」


「それだけじゃ駄目だ。誰かが神のことを覚えていて、信じていて、祈って、大切に思っている限り──神の力は永遠だ」


 思い出していたのは、小島の土地神だった。忘れ去られた神の祠は荒れ果てており、そのせいで力を失くしていたのだ。

 あの神の名は誰も知らない。祠を復活させても、誰も神の個である名を知らないならば──その神は永遠に何者にもなれない哀れな神だ。


「じゃあ、今でも天狐は神として誰かに覚えてもらってるってこと? そんなの、地下街にいる全員を殺さない限り無理じゃん」


「いや、今の術をもっと……全員の記憶をすべて奪えば良かったのか……」


 ならば、結希はきっと間違えた。


「言っとくけど、それやったのあたしじゃなくて心春こはるだよ?」


「悪い、俺のせいで心春はもう何もできない」


「精霊から力を借りれないってだけで、心春が戦えないわけじゃないでしょ」


「じゃあ、精霊以外の誰から力を借りれば……」


 聞かなくても答えは出ていた。

 精霊は土地神の加護を受けている。ならば。


「こいつも神だよ」


 亜紅里が両手を広げた。闇の中。無重力の中。ここは神の肚の中だと改めて思えば何も恐ろしくなかった。


「くひひっ。なんだかすごーいことになりそうな予感」


 心春の言霊はまだ生きている。《鬼切国成》は万物を切った刀だ。


 自分たちは、まだ負けてない。


「亜紅里、乗れ」


「喜んでって言いたいけど、何もしてない状態で出れるの?」


「斬る〝モノ〟がわかれば、こいつはなんでも斬る」


「……わかった。ゆうゆうを信じるよ」


 亜紅里をおぶって、結希は再び《鬼切国成》を抜刀した。亜紅里は、結希のことをどこまでも優しく抱き締めていた。



「──殺卑孤やひこ、俺はお前を斬る」



 空間を斬る。

 僅かな隙間から見えたのは、光だった。

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