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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第十二章 孤軍の銀狐
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十二 『歴史の一つ』

 争い傷つく音が世界を支配していても、息を呑む音が聞こえてくる。

 結希ゆうきは全員の目に映るように《鬼切国成おにきりくになり》の切っ先で空を差し、びっしりと並んでいる歯を横目に落ちていった。


 簡易結界を張って自分自身の身を守る。瞬間に天狐てんこが口を閉ざし、結希の身を吐き出そうと舌を動かす。

 あれほど喰らい殺そうとしていたのに、自ら中に入ると拒絶された。やはり中は結希の読み通り弱点なのかもしれない。ならばこのまま突き進む。その先に亜紅里あぐりがいると信じて進む。だが、その道は、口を閉ざされたせいで光が一粒もない道だった。


 夜目が利くとはいえ暗闇の中で戦いにくいことに変わりはなく、瞬間に生まれた仄かな光に感謝する。これは精霊だ。土地神の加護を受け、心春こはるの願いのままに行動する精霊たちだ。

 簡易結界にぶつかった物を排除する機能は備わっていないが、精霊たちから力を借りた心春の言霊が舌を弾いている。傷つけている。心春の言霊に生かされている。


 いつだって、助けてもらっている。


 心春の願いは、天狐の攻撃を複数受けても解けなかった。それは、もう一つの言葉である〝我が姉を救う〟が達成されていないからだろうか。亜紅里はどこにいるのだろう。

 喉を通り過ぎれば食道があると何かの教科書で見た気がするが、結希が見た世界は、分厚い肉と肉がお互いを押しあって道幅を狭くしている世界だった。


「──ッ!」


 結界と、心春の言霊がなければ即死だっただろう。心春の願いが蠢く肉壁を押し返し、結希の進む道をこじ開ける。少しずつ、少しずつ、落ちていく──巡り会える時を待っている時間はない。


 意を決して簡易結界を解いた。一気に距離を縮めてくる肉壁に《鬼切国成》の刀身を当て、進むべき道を切り開く。

 心春の言霊は《鬼切国成》と結希の全身に移ったらしく、窒息で苦しむことも、肉壁で圧迫されることもなかった。体も異様に軽く、《鬼切国成》も異様に軽い。敵の肚の中だというのに今までで最も自由だと感じる。


 大きく息を吸い込んで呼吸を整え、躊躇うことなく肉壁を切り裂いた。《鬼切国成》の柄は、自分の手によく馴染んでいるように思える。千年前のこの刀の所有者は結城星明ゆうきせいめいだというのに──千年も間宮まみや家と共に伝説を生んできたからか、自分の半身のように思えて仕方がなかった。


『叔父様ッ!』


 その半身が怒りに身を震わせる。聞き覚えのある声だったが、結希の周りには誰もいなかった。


『何故その刀を……! その刀は母様を斬──』


『来るな化け物!』


『ッ?!』


『おまえのせいで妻が死んだ! おまえのせいで間宮まみや八条はちじょうも滅んだのだ!』


 それは、怒る──うめの声と嘆く男性の声だった。

 これは間宮家の記憶ではない。《鬼切国成》の中に眠る、《鬼切国成》の歴史の一つだ。


『おまえのせいで人が死んだのだ! わかっているはずだろう!』


 嗚咽する男性の心の声を受けた梅は一言も言葉を発することができなかったのか、無音の瞬間が訪れる。


『自覚があるのならば自刃しろ! その刀はなんの為にある!』


『こ、これは……これは父様から頂いた刀だ! 私を切る為の刀ではない!』


『それはおまえが間宮から奪った刀だろう! おまえのせいで、おまえとあの鬼のせいで、間宮が所有していた刀は二度と我らの元には戻らなくなった! 家宝の喪失だ! おまえたちは間宮の名を穢しただけでなく、間宮の財まで奪ったのだぞ! 自刃せぬと言うのならおれが斬る! おまえは化け物でっ! 罪人なのだから!』


『私は、間宮の人間だ……叔父様が認めてくださらなくても。私は化け物かもしれないが……罪人でもない。私は私の命を誇っている』


 どこを見ても蠢く朱色の不味そうな肉だったが、そう告げた梅の弱さを知らない真っ直ぐな表情は、何故か鮮やかに脳裏の奥底に焼きついていた。


 半妖はんようの母。すべての《十八名家じゅうはちめいか》の始祖。彼女が産まれなければ結希が愛している家族にも、仲間にも──支え見守り求めてくれた人々にも出逢えなかった。


 結希を孤独にした要因の一つは間違いなく梅という存在、梅の父親の過ちだ。間宮家に思い入れはないが、間宮家の人間が傷つけられてきたことは想像に難くない。

 千年前、数々の半分妖怪が誰からも祝福されずに誕生した。彼女たちがこの世に産んだ子孫たちは、望まぬ宿命を背負わされて戦って死んだ。阿狐あぎつね家が命を繋いだ頭首たちは、死ぬ為に産まれてきた。そう断言しても過言ではないほどに世界の歯車を狂わせてしまったたった一人の少女──梅の、その言葉の、一つ一つが泣きたくなるくらいに幸せな言葉で。


 その言葉を忘れたくない。

 迷いなく自分の命を肯定した始祖の梅の言葉を、伝えたい相手が泣いている間は。


 自分の先祖と思われる男性の言いたいことは理解できるが、自分の世界をどこまでも遠くに広げてくれた彼女たちと出逢うことのない世界に価値を見出すことはできなかった。

 だから戦う。《鬼切国成》を握り締める。梅が生まれたこの世界で彼女たちと共に生きたいから。自分と彼女たちを蝕もうとする闇を祓い、望む幸せを掴み取りたいから。その為に力を貸してくれる人たちがいる︎。その人たちに報いたい。


『……自刃したら認めよう』


 どちらにせよ自刃を求めた梅の叔父は、この世界では幸せになれない魂だった。


『間宮の人間としてすべての責を認め腹を切るなら──おまえを間宮の人間だと認めよう。選べ、母親を斬った《鬼切国成》か、その刀……《天狐切丸てんこきりまる》か』


『私は死を選ばないッ!』


 肉が断たれる音がした。梅が《鬼切国成》に斬られた音だった。


「おまえっ……!」


 声が震える。あれは千年前の出来事で、《鬼切国成》の歴史で、自分にはどうすることもできなかった過去なのに、無力感に苛まれる。



『俺を斬るのか』



 苦しんでいる時間はなかった。先ほどの過去の続きではない。新たなる過去が幕を開ける。


 ──誰、だ?


 息を止めた。梅の叔父ではない男性の声だ。嗤っている。人を不快にさせるようなそれに何故だか怒りが湧いてくる。

 《鬼切国成》と間宮家の血の記憶が混ざり合っているのだろう。このまますべての伝説が自分の魂に焼きつくことだけは避けなければならない。


『やはりお前は間宮だな。半妖を殺すことの何が悪いのか言ってみろ』


 その言葉を避けるわけにはいかなかった。


『本気で言っているのか。よく見ろお前が殺したのは人間だぞ』


『お前こそよく見ろよ。この姿形をした化け物が人間だって? 本気でそう言っているのか?』


『本気だ。同じ命なんだぞ、私たちと同じ血が流れているんだぞ、言葉を交わして生きてきただろう、何が──何が化け物だ』


『……俺はさぁ、姿形が違うものを人間って呼ぶ奴が大嫌いなんだよなぁ』


『奇遇だな。私もお前が大嫌いだ』


『じゃあ、斬っていいよな』


『私もお前を斬る。地獄で彼女たちに詫びろ、義彦よしひこ!』


『──土御門つちみかどの名に懸けて、罪人であるお前を殺す』


 《半妖切安光はんようきりやすみつ》は、間宮の命を断つことができなかった。

 《鬼切国成》は──いや、別名《人切国成ひときりくになり》は、土御門義彦の命を断った。


 命を奪うのは、いつだって《鬼切国成》だった。


 《鬼切国成》は、奪った命を数えることも、奪った命を想うことも、奪った命に償うこともない。それをしなければならないのは《鬼切国成》を振るう者、即ち結希で。それが《鬼切国成》を振るう者の責任なのだと思った。それを記憶が教えているのだと思った。


 《鬼切国成》は襲いかかってくる物を淡々と切り続けていく。結希を潰そうとしている肉壁は動いていても命ではない。こうして何度傷つけても、天狐に直接影響しているとは思えなかった。この肉は肉そのものであって神経が通った肉ではないのだ。これは天狐の本体ではない。

 切り開かれた道の奥底には胃があると思っていた。だが、着地した肉の地面に液体はない。胃酸がないならば胃ではない。天狐は妖であり神でもある。中は中でも、人間の中身とは大きく異なっているようだ。


 だが、胃のような場所であることに違いはない。結希は辺りを見回して動かない肉壁を見つめ、道がないことに気づく。落ちてきた場所を見上げると、肉で塞がれていた。進むことも戻ることもできないようだ。

 もう少しだけ辺りの様子を確認したい衝動に駆られるが、亜紅里のことも気にかかる。飲み込まれたならこの場所にいると思ったが、亜紅里本人も、亜紅里の持ち物が落ちていることもなかった。


「亜紅里ッ! 亜紅里ーッ!」


 声の限り叫んで走り回った。いないはずはない。亜紅里は絶対に自分のことを待っている。絶対に行くと告げたから。

 立ち止まり、亜紅里の気配を再び探る。微かだが、天狐の気配に混じった亜紅里の気配がした。その気配がした方向は、肉壁の中だった。


「この中、か……?」


 尋ねても亜紅里は答えない。どこにも行けない結希は迷うことなく肉壁を削ぐ。だが、これで亜紅里の元に本当に辿り着けるのだろうか。


「…………」


 自分は陰陽師おんみょうじだ。間宮と芦屋あしやの血を引いた陰陽師だ。ならば。


りん──」


 人差し指と中指を立てた。


「──ぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん


 空中に四縦五横の格子を描く。九字くじを切り終わると、結希を包む肉の壁にヒビが入った。


「なっ?!」


 通常肉にヒビは入らない。あまりにも突然の出来事だったが、九字を切らなければ何も始まらなかった。


「亜紅里ッ!」


 始めたのだ。誰が最初だったのかは断言できないが、この物語は始まっている。ここで諦めるわけにはいかない。


「俺は絶対にお前を助ける! だからお前も俺を助けてくれ!」


 肉壁は闇に呑まれていった。肉壁の方が幻だったようだ。投げ出された闇の中、手も足もどこにも触れていない無重力の中、結希は為す術もなくただ漂う。


「赤ちゃんみたいだね」


 それは、記憶の声ではない。目を見張るとうっすらと姿を現したのは、半妖姿の亜紅里だった。


「あぐ、亜紅里……ッ!」


「どうしてゆうゆうが泣くの? 本当に赤ちゃん?」


 笑顔を見せた亜紅里は、天色の瞳に涙を溜めていた。触れようとして右手を伸ばすと、包み込むように握り締められる。


「ありがとう、ゆうゆう」


「はえーよ」


「そんなことない。じゅーぶんありがとうだよ」


「まだだ。俺はまだお前を助けてないし、お前を助けようとしている姉さんたちや、明日菜あすな風丸かぜまるにも、同じことを言わせたいし──」


 左手を伸ばして亜紅里の背中に触れた。亜紅里の両手も、背中も、きちんと温かい。目の前にいる亜紅里は幻ではない。体を引き寄せて間近で告げる。



「──お前には幸せになってほしい」



 今でもそう願っている。結希が見た過去は天狐の記憶であって亜紅里の記憶ではない。結希は亜紅里のすべてを知っているわけではないが、願わずにはいられない。


「あたしは…………私は」


 素の亜紅里が顔を出す。亜紅里は笑っていなかった。口元から下ろしていた黒い布を口元に戻し、表情を隠して瞳を閉じる。



「私は、お前と幸せになりたい」



 握り締められた右手に力が込められた。告げられた想いを、その感情の意味を、結希は知らない。

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