十 『命だけは』
「りょーかい!」
併走する愛果が確かに応えた。全身全霊、初めて出逢ったあの日から積み重ねてきた確かな絆、そして信頼が胸を打つ。
「四人のことはウチが守る! ついて来て!」
ようやく会えた愛果が言葉通りに前に出た。言いたいことをすべて言ったわけではない。彼女が本当に生きているのか確かめたくてどうしようもなく触れたいのに、彼女の金色の髪も、金色の尾も、掴むことができない。
「愛果ッ!」
ただ名前を呼ぶことしかできなかった。それでも目を見てほしい。その中に魂があるのを確認したい。
振り向いた愛果の碧眼には、望み通り自分が映っていた。
「絶対に死ぬなッ!」
今日までずっと生き残っていてくれた愛果にかける言葉ではなかったかもしれない。だが、自分が来たことによって命を捨てる覚悟をしてしまったら──自分は明日を生きることができない。
「わかってる!」
愛果が嬉しそうに相好を崩した。
「ウチは、アンタと一緒に生きたいから!」
そう言われる未来が来るなんて、一年前は想像することもできなかった。
「アンタらのことは絶対に助ける! 絶対に守る!」
明日菜と口論をしたのは愛果だったらしい。昨年初めて怪我をしたあの日からずっと、愛果は結希のことを守ってくれていた。
『も〜っ! 結希っ! 今回ウチは傍にはいられないけど、一緒に戦ってるってことだけは絶対に忘れないでよね!』
傍にいようとしてくれていた。その愛が嬉しかった。
「素敵なお姉さんですね」
背後を走る千里の声が温かい。
「自慢の姉の一人だよ」
胸を張ってそう言った。両隣の風丸と明日菜は、そんな結希の返答に安心したような笑みを浮かべた。
立て続けに地面が揺れる。天狐が近い、はっきりと感じられるようになった天狐の妖力もそのことを結希に告げている。
視界が開けた。数々の木々が根元から折れて倒れている。中心にいる天狐に向かって絶え間なく攻撃を続けているのは愛しい式神たちで、セイリュウ、ゲンブ、ビャッコ、ククリ、カグラ、ツクモ、タマモという様々な色が舞っていた。
「心春は?!」
天狐の背に乗り続けていたら確実に巻き込まれる。式神がそのような失敗をするとは思えないが、彼女のことが気がかりだった。
「しい姉と一緒!」
その熾夏は、天狐から遠く離れた場所で片膝を立てていた。
「熾夏さんッ!」
「大丈夫! 心春が回復させてるだけだから!」
愛果の言う通り、結希に気づいた熾夏は片手を上げてひらひらと呑気に振っていた。ここに来ることは千里眼で把握していたのだろうか。ならば愛果のあの反応も頷ける。
自分は、自分の家族に拒まれていない。拒んでいるのは──
「亜紅里は?!」
──自分の汚い部分を知ってくれている、理解してくれる、大切な人だった。
愛果は唇をぎゅっと結ぶ。亜紅里のことを忘れたわけではないようだ。覚えていて、ずっとここにいて、彼女を見ていたからこそ黙っている。
「愛果! 亜紅里が乗っ取られかけていることも俺たちを拒んでいることも知ってる! 何があって今どうなってるんだ?!」
「亜紅里が天狐に飲み込まれた!」
それは、自分を責めているような声だった。
「そして、みんなを操って地下に閉じ込めた」
あっという間にここまで来て合流した熾夏は結希と明日菜の頭を撫で、肩に乗っていた心春を結希の頭の上に移す。
「嘘吐いて阿狐頼を含めた私たち全員を騙したつもりなんだろうけど、私たちには効かないからねぇ」
熾夏と目が合った。
「あぐちゃんはずっと、内側から阿狐頼を攻撃して抗ってる。私たちは阿狐頼が弱るように外側から攻撃し続けていたけれど、今、やっと弱った」
熾夏の目は、まだ、腐っていない。
「弟クン──結希クン、君が私の弟で本当に良かった。私は、君と同じ世代に生まれたことが誇らしい」
熾夏の心は、まだ、折れていない。そんな彼女と同じ世代で良かったと結希だって思っている。彼女が明日菜の姉で良かった、彼女が自分の姉で良かった──彼女も曙の意志を継いでいる。
「生まれてきてくれてありがとう」
自分は間宮宗隆ではない。熾夏と明日菜も、曙ではない。だから同じ道には進まない、同じ災いに苦しめられても。
「お兄ちゃん来るよ!」
後頭部にいる心春が叫んだ。天狐の動きを止めていた式神全員が振り払われたらしい、一直線にこちらに向かってくる天狐の手がある。
夜明けを掴むように手を上げた。この場にいる全員に見えるように堂々と。それでも天狐は怯まなかった。現代の陰陽師は弱いと思っているのか、戦い続けて思考が鈍っているのかはわからないが──すぐに結界と手がぶつかり合う。
一度だけ聞いたことがある轟音が耳を劈いた。あまりにも強い衝撃が走って右腕が折れそうになるが、そうはさせない言霊が結希のすべてを守っていた。
「ありがとう、心春」
「こっちこそありがとうだよ、お兄ちゃん」
礼を言われるようなことは何もしていない。心春のおかげで──そして、遠くの方から助けてくれた真菊と春と紫苑のおかげでなんとかなったことは一生忘れない。
やはり陰陽師は弱くなったのだ。天狐の力が当時と何も変わらないからこそ余計にそう思う。近づいた夜明けと数々の攻撃により弱ったとしても、その差がたった数分で埋まることはなかった。
『コシャクナ』
天狐が苛立つ。だが、結希の両隣に立っていた人物に気づいたらしく──大きく口を開けた。
『デテキタ、デテキタ、オマエヲコロス』
咄嗟に明日菜の前に立つ。神にも妖怪にもなれない化け物に、理不尽に奪われないように。
「弟クンと風丸クンは明日菜ちゃんとここにいて」
明日菜が出て行かなかったら、熾夏が殺されていたのだろう。なのに熾夏は行こうとする。自分たち二人の姉として。
「それだと何も変わりませんよ」
愛果も心春も行こうとしていた。三人にはもう、立ち止まってほしかった。
「俺はもう、姉さんたちが知ってる俺じゃない」
《鬼切国成》に触れる。抜刀し、恍惚と自分たちを見ていた天狐に向ける。
芦屋清行の刀は見えなかったが、あの日を見ていた結希はその居場所を知っていた。
「明日菜、これ」
お守りと耳飾りを真後ろに突き出し、明日菜が受け取るのを待つ。
「持ってろ」
それを形見にはさせない。そういう願掛けだった。
「ゆう吉ッ!」
手の伸ばした明日菜を一瞥して走り出す。結界を張って、そこから出られないようにして、ついて来た千里に目配せをする。
顎を引いた千里は離れていった。遠くから見守っていたイザナミがついて行ったことを確認し、思案する。
「弱点は?」
「んなもんわかってたらとっくのとうに倒してるっつーの!」
「いやー、なんかよくわかんないんだけど謎に強いんだよねーこいつ」
「亜紅里お姉ちゃんが中に入って戦ってるから、幻術を消すこともできなくて……」
そういうことだったのか。心春は一度世界から幻術を消しているが、その時は熾夏も使えなくなって文句を言っていた記憶がある。乗っ取りは幻術ではない。亜紅里が戦えなくなった瞬間、亜紅里は死に熾夏と共に明日菜も死ぬ。そうして結希の世界は壊れる。
『シネ、シネ』
天狐が次に狙ったのは結希だった。この状況をひっくり返す可能性を秘めている陰陽師──間宮家と芦屋家の血を世界で唯一受け継ぐ陰陽師をいつまでも生かしておく天狐ではない。結希は天狐の天敵と言っても過言ではなかった。《鬼切国成》を強く握る。天狐が幻術を使う為に妖力を大幅に消費したのだ。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前ッ!」
九字を切った。一瞬だけ周囲に転がった家族の遺体が胸を抉る。タイミングを間違えたら結希は一歩も動けなくなるだろう。暴れる天狐には近づけない。近づける式神の刃は天狐には効いていないようだ。化け物過ぎる。奴はなんだ。いや、その正体を結希は知っている。
「天狐!」
ぐにゃりと天狐の肉体が歪んだ。ぼとぼとと上から落ちてきたのは真っ黒い泥のような肉体で、それに触れられた木々がしゅうしゅうと音を立て焼かれていく。
「全員離れろ!」
天狐を囲むように結界を張った。空中にいた式神たちはそれを使って天狐から離れる。熾夏に抱き抱えられた結希は姿を変える天狐から視線を逸らさなかった。
ずっと、亜紅里の姿を探していた。
どこだ。どこにいる。飲み込まれたのなら肉の中から出てきてほしい、それとも肉に焼かれて死んだのだろうか。そんな未来は受け入れ難い。結希は声の限り叫び続ける。
「亜紅里! 返事しろよ! 亜紅里! お前の名前は阿狐亜紅里で! お前を喰ったのは阿狐頼じゃなくて天狐だ! わかるだろ! 亜紅里! お前の母親はお前が生まれる前に死んだ! 亜紅里! お前が見てきた母親はお前の母親じゃない! そんな奴と一緒にいてやる義理はないだろ! 帰ってこい! 亜紅里! 断ち切れ! 阿狐家の運命を変えろ! いつか生まれるかもしれないお前の娘の為にも頑張れ! 亜紅里!」
阿狐頼だと思われていた妖狐の中からすべての元凶である悪しき天狐が姿を現す。正体を言い当てたこちらが有利になる──その考えは甘かったらしく、阿狐頼として暴れていた妖狐よりも一回り大きな天狐が大地を割った。
「何してんのアンタ?!」
「いや違っ……あっ!」
不利な戦いに持ち込むつもりはなかった。だが、結希が阿狐頼の正体を言い当てたことにより、首筋に芦屋清行の刀が出現する。
「あれ!」
「何あれ……刀?!」
「多分これで式神の攻撃も通る! はず!」
「〝肉ぼろ〟は終わったみたい! 足元気をつけて行くよ!」
結希──そして結希の動きに合わせてまた結界を張ってくれた真菊と春と紫苑の早めの行動により、肉のほとんどが天狐の周辺に落ちていた。しゅうしゅうと焼いているのは天狐の足元で、怒り狂った天狐の牙が明日菜と風丸の結界に向く。
「行けッ!」
誰よりも早く動いたのは千里だった。主である結希の命令だったのだ、それは式神として当然で──彼女は明日菜と風丸を守るように真下から天狐の顎を貫く。
『ギィアアアアアアアアッ!』
明日菜と風丸だけでなく、熾夏と結希も耳を塞いでしまうほどの声。
「効いてる!」
だが、熾夏の声は嬉しそうに弾けていた。次々と攻撃を仕掛ける式神の攻撃はすべて効いているようで、暴れる天狐に誰も近づけなくなる。
「動きを止めよう!」
「春ちゃんいける?!」
「いけるけどこれで最後になるよ?!」
「最後って?!」
「これ以上精霊から力を借りたら精霊が死んじゃう! そうなったら陽陰町は人が住めない町になっちゃう!」
「ウチがやる! それでいいでしょ?! しい姉!」
「命だけは……!」
「捨てる気なんてないっつーの!」
たった一人で駆ける愛果は、薙ぎ倒された木々とどす黒い色の肉片を器用に避けて、勢いを増す天狐の命を狙う。
何週間もこの場で戦い続けていたのだ。それでもまだ戦えるのは、戦おうという意志があるのは、天狐の中に亜紅里がいるからだろう。攻撃の手を緩めない式神がいて、熾夏の千里眼があって、心春の言霊で食の確保と疲労回復があったとしても、普通はこれほど長期間戦うことはできない。
張り詰めていた糸。それが解けた時、すべてが崩れる──。
暴れる天狐は藻掻き苦しんでいるようで、式神も迂闊には近づけないようだった。いや、本能でわかるのだろう。あれは九字の影響だ。真菊たちがやったのだ。
天狐が何かを吐き出した。人だった。愛果の意識がそちらに向く。全員が真っ逆さまに落ちていく衣良を見ていた。愛果が手を伸ばす。天狐が嗤う。
「愛果ッ!」
瘴気が戦場を包み込んだ。相手は千年前の大妖怪、天狐。陽陰町にずっといた天狐が瘴気をまったく帯びていなかったことが今の今までおかしかったのだ。何も見えない。
「愛果──ッ!」
声が嗄れるほどに叫ぶ。自分を抱く熾夏の腕の力が強くなった。耳元で、心春が「愛姉」と掠れた声を漏らした。




