序幕 『優しい嘘』
小倉風丸は幻である。そう断言したティアナの右目には紋章のようなものが浮かび上がっており、偽りでないことを直感する。この世界を壊さなければならないと強く思う。
『じゃあ、俺はどこにいるんだよ……』
風丸の今にも泣きそうな震えた声が、結希の心を抉っていた。
『風丸神社だ。妖怪が近づけない本殿の中にいる』
その日から一週間が経過して。二月になった今でも、風丸は学校に来なかった。
「……あ」
一週間も続いている作戦会議をする為に生徒会室の扉を開けると、ラムネ菓子を口内に流し込むステラと目が合う。リラックスしていたのだろう、慌てて背筋を伸ばし袋を隠す彼女は可愛らしく──照れ臭そうなその顔は血縁があるアイラに似ていた。
「ステラちゃんって、アイラちゃんのこと何か聞いてるの?」
「聞いてるって……どういうこと? アイラに何かあったの?」
「いや、血縁があるって知ってるのかなって」
「あぁ……良かった。うん、アイラはわたしの姪」
と言っても彼女たちは二歳しか離れていない。髪の色もシルエットも話し方もそっくりで、並んで歩いている姿が見たくて見たくて堪らなくなる。
「けど、あの子にも魔法がかかってるからわたしはあの子には会わないよ」
「あ……そうだよな」
アイラもアリアも、乾でさえ偽りの世界には気づいていなかった。それほどまでに強力な幻を見せることができるなんて恐ろしい。覚醒したという事実だけでは説明することができなくて、阿狐頼のことを四六時中考えてしまう。
彼女が強者である理由も、彼女がこのような事件を起こす理由も、手がかり一つない現状では何もわからなかった。
阿狐頼は半分妖怪ではないのかもしれない。彼女の正体はティアナでさえわからないようだった。
『半妖の阿狐頼? いや、それらしい人物は町のどこにもいなかったが……どういう姿をしているんだ?』
『和夏さんみたいな感じです。人の姿で、狐耳が生えていて……』
『いいえ、ちょっと違うわぁ』
『え』
『頼さん、貴方が気絶した後にまた姿を変えたのよぉ。狐の妖怪みたいになっていたわぁ』
『なら紛れている可能性が高いな』
『けど、この中にはいないわ。私たちが女狐を最後に見たのは森の中、そっちを映してくれる?』
『あぁ』
中央に置かれた水晶を凝視する真菊は結希の方を一度も見なかった。百妖義姉妹とは言葉を交わすが、結希はいない者として扱われている。
だが、今はそれで構わなかった。同じ空間にいてくれること。それが奇跡だと思っている、これ以上は何も望まなかった。
『あ!』
真っ先に阿狐頼を見つけたのは紫苑で、春と共に身を乗り出す。
『こ、こいつだ……!』
『うん。間違いないと思う』
美歩が双子を肯定した。映し出されていた妖怪は、尾を一つしか持たない──五メートルはありそうな巨大な狐だった。周囲の木々から顔を出して悠然と歩み、身体を掻く度に木々を薙ぎ倒している。そんな妖狐を見ても誰も顔色を変えなかった。
「なんだ。まだお前たちしかいないのか」
今回も窓から侵入し、部屋の隅に箒を立ててティアナが不満そうな表情をする。
「危機感があるのか? 危機感が。何も決まらないまま一週間が経っているぞ」
「ありますよ。けど、この〝日常〟を守ることも大切なんです」
「はぁ?」
「ティアナ、みんなが急に変な行動したら逆に行動できなくなるんだよ」
「悪目立ちすることを気にしてる場合か日本人」
「場合じゃないかもしれないですけど、俺たちが気づいたことを気づかれたくもないですし……」
「はぁ? できない理由ばかり口にするな。できることもしくはやることをさっさと口にしろ」
「……すみません」
ティアナの言葉は胸に刺さる。麻露のようだ、本人もそろそろ来るはずだが。
「それに、私が来た時点で気づいていないとおかしいだろう」
「え」
「防いでいるんだから。私が、私たちと、お前たちに向けられた呪いを」
「てことは……感知できていない?」
「そうだ。術者が気づかないのはおかしいだろう? 気づかないままだったら自分の力で自分を殺すことが可能になる、それは本能的に避けたいことだろうしな」
「なら、阿狐頼は術者本人じゃない?」
「ほぼ確実にそうだろうな」
「ティアナ最初から複数人の仕業かもって言ってたもんね。わたしも、なんか変だなって思ってたし」
ステラはそう言うが、結希は一つもおかしいとは思わなかった。ずっとこの町で暮らしていたからだろうか。外からどう見えているのか想像もつかない。
「だって、ユウキが生きているから」
今まで気にもしなかったが、自分の心音が聞こえた気がした。どくんっどくんっと自分の存在を主張して、まだ生きていることを告げていた。
「ねぇ、どうしてユウキは殺されてないの? ユウキはどうして自分が今でも生きてると思う?」
「へ……いや……」
「ヨリはみんなのことを殺したい。殺したいから攻撃した、なのにどうしてみんなはまだ生きているの? どうしてヨリはみんなのことを無視して歩いてるの? おかしいよ、矛盾してる」
「…………」
言葉を返すことができなかった。言葉が心から出てこなかった。
「わたしね、ユウキを見た時、幸せそうだなって思ったの。それは夢を見てたからだよね? けど、じゃあどうしてヨリはユウキに幸せな夢を見せたの? 怖い夢じゃなかったのはどうして?」
「……多分、その後に絶望に突き落とす為だと思う」
「だとしても遅いよ。百鬼夜行から一ヶ月が経ちそうだもん、そんなに待てる? ヨリって人、他人の脳をいじって数年分の記憶を見せることもできそうなのに」
「えっ、それはさすがに」
「ティアナならできるよ」
「え?!」
「あぁ。幻を脳にぶち込んでな」
「ぎょえっ」
えぐすぎる。できたとしてもしたくないが、阿狐頼ならば迷うことなくするだろう。いや、迷うことなくするのなら──阿狐頼は何故それをしないのか。
「ユウキ、目を覚まして」
「っ」
「ユウキは多分、まだ夢の中にいる」
「そんなわけない、幻は風丸だけだったんだろ?」
「そういうことじゃないよ、ユウキ」
「そう。逆を言うと、小倉風丸ただ一人だけが幻だったということ」
「まさか」
「私はまだお前らを救えてないのかもしれない。お前は──というかお前らは、多分誰かのことを忘れてる」
知りたくなかった。そんな夢は見たくなかった。
自分は百妖義姉妹たちと過ごしたこの一年を取り戻したはずなのに、まだ何かが欠けていると言うのか。あんなにも大切な日々だったのに、欠けてしまった誰かのことをまったく思い出せないなんて──そんな残酷な話があるのだろうか。
「いないのは一人かも」
「複数人かもしれない」
「ユウキ、わたしね、この幻は優しい嘘だって思うよ」
「同時にかなり悪質だ。残される者の気持ちをまったく考えていない、自分勝手な愛情だよ」
その愛には、覚えがあった。
震える両手を大きく広げて凝視する。指の数は合わせて十本。それを改めて確認して、深呼吸をした。
麻露、依檻、真璃絵、歌七星、鈴歌。そして、朱亜、和夏、椿、月夜、幸茶羽──顔を思い浮かべる度に指を折って数えていく。全員で〝十人〟。自分を入れて〝十一人〟。他に誰がいると言う?
麻露と依檻と歌七星が年長者として夜遅くまで話し合っていたあの後ろ姿を覚えている。長女の麻露。次女の依檻。三女の真璃絵の代わりだった四女の歌七星。彼女たちのことをずっと見ていた。欠けているなんてあり得ない。
鈴歌と朱亜がそれぞれの部屋に籠って朝から晩までゲームをしていたことを知っている。五女の鈴歌。六女の朱亜。引きこもりではあるが二人が並んで立っている姿を何度も何度もこの目で見てきた。欠けているなんてあり得ない。
マイペースに生きていた七女の和夏。上とも下とも歳が離れているせいで特定の誰かと仲が良かったわけではない八女の椿。色々あったが以前のように仲良く話す九女の月夜と十女の幸茶羽。
……本当に、それだけなのだろうか。
強烈な違和感が脳内を駆け巡ったが、その答えを出すことはできなかった。
「思い出すことができないのは、それくらい思い出してほしくないんだろうな」
「ねぇティアナ、どうしてそれだけ解けないの?」
「まぁ……私ができないということはダンタリオンができないということだから」
「じゃあ、幻じゃないってこと?」
詳しくは聞いていないが、ティアナは悪魔ダンタリオンと契約した魔女らしい。幻を主力としている悪魔に幻関連でできないことはない、そう言いたいのだろうか。阿狐頼の仕業ではないような気がしてきて、幻を使わない誰かを思う。
「幻を使わないそいつは敵か、味方か──。どっちだろうな」
ティアナの群青色の双眸は、普段よりも透き通っていた。直後に再び右目に浮かび上がってきたのは例の紋章だったが、それで何を見ているのかはわからなかった。
「それで何見てるの?」
「え? いや、何も」
「何も?!」
「クセになってるね」
「……だな」
「何が見えた?」
「埃」
「なんなんですか?! その目って一体なんなんですか?!」
「ダンタリオンのシジルだよ。肉眼で見えないものが見えるだけだが……」
「えっ、それだけなんですか?!」
「……いや、ちょっと待て」
「え?」
口元に手を置いて黙考するティアナは、軽く手を振って水晶を出す。映し出されたのは阿狐頼だった妖狐だ。今日も変わらず森の中を歩いているが、彼女に目的地はあるのだろうか。
「あれは……ゴミじゃないのか?」
「ゴミってなんですか」
「ゴミだと思っていたが、よく見ると乗ってるんだよ。妖狐の背に。異様に小さな人間が」
「はい?」
改めて妖狐に視線を移すが、何かが乗っているようには見えない。
「異様に小さな人間って……」
「半妖かもな」
「……確かに、そうかもしれないです」
「思い出したか?」
「いえ、そういうわけじゃないですけど……それが一番有力な説かと」
「聞いてみるか、あいつらに」
「あいつら?」
「いるんだろ? 早く入ってこいよ」
生徒会室の扉が開く。顔を出して入ってきたのはヒナギク、真菊、千里、椿、春、紫苑、美歩、多翼、モモ、和夏。学生全員が揃っていた。
「それって多分、小人だよな」
俯いてぽつりと尋ねた椿の表情は、無表情だった。そんな椿は見たことがない、見たくなかった。
「アタシ、なんか、知ってる気がするんだ」
「ワタシも……どうしてかな。心のどっかに引っかかってるのがあるの」
「俺もすごい違和感があるんです。どうしてかわからないんですけど……」
「それを言うなら私だって違和感があるわ」
口を挟んだのは、意外なことに真菊だった。
「私は陽陰学園の生徒じゃない。この制服を着ているのはおかしいし、サイズも全然合ってないのよ」
「今年の生徒会は六人フルメンバーだったはずだ。私、副会長、風丸、明日菜、八千代。残りの一人が真菊ではないなら、あと一人は誰だ?」
小人だったら一人。小人でないなら二人。自分たちは一体誰のことをなくしたのだろう、目の前が霧で覆われていくのを感じていた。




