八 『誤算』
帰ってきてすぐにリビングに顔を突き出すと、紫苑と亜紅里、そして椿の全員がいた。芦屋家の一員である紫苑の様子だけ伺うと、その視線が死ぬほど嫌だったのか「なんだよ」と久々に刺々しい声が返ってくる。
「紫苑、今不機嫌?」
「てめぇがそんな面で見てくるから不機嫌だよ」
ならば春たちと顔を合わせるのは危険かもしれない。他の義兄弟たちのことは知らないが、紫苑はとにかく春のことを嫌っている。その理由はわからないが、その度合いが並ではないことはわかっていた。
春たちは一応家の中に入れていて一階に待機させているが、家を出た姉妹たちの部屋にそれぞれ押し込んで紫苑に会わせないように努力する道しかないのだろうか。結希の実父で紫苑の養父である雅臣と、紫苑の義姉である真菊の危機がある以上芦屋義兄弟が全員集まらなければならないと感じているのに。
「……まぁ、真璃絵を上げる為の人手が欲しいなら手伝うけどさ」
そう言ってソファから腰を上げた紫苑はなんだかんだでいい子だった。真菊の六年間の教えが良かったのだろうか。それとも《グレン隊》で学んだのだろうか。それとも、春と紫苑の両親の教育が良かったのだろうか。
「いや、そういうことじゃなくて……」
言葉を濁して、視線をありとあらゆる方向にさ迷わせる。真璃絵は既に二階に上がっていた。振り向くと、車椅子に乗っている真璃絵が結希を不思議そうに見上げている。
春を頼って車椅子だけを二階に上げてもらっていた結希は、そんな真璃絵をリビングの中に入れてソファの横に止めた。
「は? なんだよ一人でできんのかよ」
「うーん、ゆうゆうどったの? なんか連れて帰ってきたっぽいけどさ、道端で一体何を拾ってきたのさ」
「拾う? 美歩じゃないのか?」
「いや、複数人の気配がする。バッキーも半妖なら人の気配に敏感になった方がいいよー?」
瞬間、びくっと体を震わせた紫苑がソファに上がる。何かの気配を感じたのだろう、陰陽師なのに気づけたのは陰陽師同士の力のおかげなのか、《グレン隊》で培ったものなのか。
「てめぇ、マジで何連れて帰ってきたんだよ……」
「聞いてくれ、紫苑。亜紅里」
そして椿にも視線を向ける。椿はごくりと唾を飲み込み、結希のただならぬ気配を感じて拳をきつく握り締めた。
「父さんと真菊が、阿狐頼の家に行ってから帰ってきてない」
刹那に紫苑の目が見開かれる。紫苑色の瞳とその顔は本当に春にそっくりで、似ていないのは金色に染められている髪だけだ。
「美歩、春」
一階に声をかけ、彼女たちを呼ぶ。上がってきた美歩と春、そして多翼とモモを視界に入れ、紫苑は体を強ばらせた。
「なんで……」
声が震えている。数ヶ月ぶりの再会を果たした彼女たちはしばらくの間無言だったが、亜紅里は黙っていなかった。
「どういうことだ」
彼女もまた腰を上げ、いつもの低い声を出す。震えてはいなかった。その顔は険しく、戦うという強い意志を何よりも感じる。
「今朝の会でも言ったけど、妖怪が阿狐頼に操られてるかもしれない。それを昨日確認しに行ってから帰ってきたのは、父さんの式神の幻術だった」
「あの女……ッ!」
『〝カンブツ〟ガマタナニカシタノカ』
「あぁ。けど結希、なんでお前の父さんがあの女の家に行ったんだ? 真菊と一緒に行ったらしいが、それはどういうことなんだ?」
結希はまだ、自分の父親が阿狐頼に関わっていることを誰にも話せていなかった。
芦屋義兄弟のことは真璃絵を除いた百妖義姉妹たち全員が知っているが、芦屋義兄弟たちも結希の家族だと判明した時の彼女たちの反応が怖かった。史上最悪の裏切り者の両家の末裔として吊るし上げられることが怖いのではない。芦屋義兄弟たちに遠慮して今までの関係が壊れてしまうことが怖かった。
結希は、どうしてもこの関係を壊したくないのだ。
麻露が何も言ってこないから今まで通りに同じ時を過ごすことができているが、家族としての〝好き〟が変化してしまったら。この関係が壊れてしまったら。そう考えただけで怖くて怖くて泣きそうになる。
彼女たちはようやく手に入れた大切な家族なのだ。実母と実父から愛された記憶がない自分を家族として愛してくれたかけがえのない人たちなのだ。芦屋義兄弟が家族になっても、百妖義姉妹たちがくれたものは絶対に忘れない。忘れたくなかった。
朝日の実子と知っていたのに愛してくれた彼女たちを何があっても失いたくない。
雅臣の実子と知っていたから憎んでいた彼らのことをだからと言って見て見ぬふりをしたくない。
〝十九人分〟は受け止めきれないが、最早誰の手も離したくなかった。
「俺の父さんは芦屋雅臣だ」
結希と同じように亜紅里も知らなかったらしい。この町を、人々を、世界中のすべてを裏切るように育てられた彼女は阿狐頼の傍らに立っていた男が結希の父親であることに今の今まで気づけなかった。あんぐりと開いた口が彼女を年相応に見せていて、その意味に遅れて気がついた椿は声を漏らす。椿はたった今、百妖義姉妹の中で誰よりも先に結希が裏切り者同士の家の子孫であることを知った。そんな彼女が涙を流した様を、結希は正面から見ることができなかった。
真璃絵にはまだ何も教えていないから、彼女は一つも知らなかった。結希が陰陽師の裏切り者の子孫であることを。前回の百鬼夜行の元凶である阿狐頼と、その娘の亜紅里のことを。ただ、この町にまた百鬼夜行が起ころうとしていることだけは知っている。いや、彼女の中で百鬼夜行は終わっていないのだろう。目を閉ざす前から目を開けた後も、彼女の中では百鬼夜行が続いている──それは何よりも恐ろしい地獄だった。
「だから、阿狐頼の家がどこにあるのか教えてほしい」
「……いいや。私は何も知らない、これは本当だ」
「じゃああんたは今までどこにいたんだ! あんたは女狐の娘だろ!」
「美歩!」
激昂した美歩をすぐに抑えようとした紫苑はやはり彼女の義兄だ。そんな大切なことを美歩と過ごした記憶がない従兄の結希は咄嗟に発することができなかった。
『アグリハ〝カンブツ〟ニサラワレタ。ソコカラニゲダスコトガデキナカッタンダゾ』
「……そう。私は去年、阿狐頼に攫われた。産みの親だって聞かされて、そこから自分が何をすべきなのか洗脳に近いくらいのやり方で叩き込んできて、結希が味方になってくれるからと、この世界を裏切ることを強要された。その家の場所は知らないし、出ようと何度試みても無駄だった。どうしてだか出られなくて、諦めた」
亜紅里は涙を流さなかった。捨てられて、攫われて、監禁されて、世界の敵になった彼女のことを守ろうとしたヒナギクのあの時の判断は何も間違っていなかった。そのことを改めて突きつけられた気がした。
「亜紅里……」
それ以上の言葉が出てこない。もしも阿狐頼が亜紅里のことを捨てずに自分の手元に置き続けたら、亜紅里はあんなにあっさりと寝返らなかっただろう。そこだけは阿狐頼の唯一の誤算と言えるかもしれない。
『……お前が名を変えず、裏切り者の間宮のままでいてくれれば良かったのにな』
今思えば、あの言葉は亜紅里の最初で最後の救いを求める声だった。
百妖家に行く道を選ばず間宮家で暮らしていたままだったら、結希は阿狐頼に攫われて芦屋義兄弟の一員として彼らと同じように働かされていたのだろうか。
拒絶して、「殺してやる」とまで発言した彼らの中にい続けてたら、自分の心は無事でいられただろうか。
百妖家で愛されたから芦屋家を愛したいと思った自分はいなかったのだろうか。
「その時初めて教えられたよ。私が捨てられたのは疎ましかったからじゃないって。半妖だってわかったから、山に捨てて妖に育てさせた。その方が強い子に育つからって」
亜紅里の人生は阿狐頼のものではない。亜紅里だけのものだ。彼女の体も、心も、亜紅里だけのものなのだ。そのことを彼女に伝えたかった。自分の意思でここにいてくれてありがとうと言いたくなった。
そんな数々の偶然と奇跡が重なって、自分たちは今ここにいる。結希は椿と同じようにごくりと唾を飲み込んで、「それって」と声に出した。
「周りの景色は?」
「森だった。山の中かもしれない」
「家の外観と内装は?」
「その辺にある日本家屋と一緒だよ」
「なんで出られなかったんだ?」
「体が弾き返されて……あぁ、あれだ。多分退魔の札が貼られていたんだろうな」
「それって、まさか……」
「その〝まさか〟かもしれない」
美歩の言葉を肯定する。
「確かに、〝そこ〟しかないかも」
「じゃあなんであん時俺らんち使ったんだよ……」
春と紫苑も勘づいたらしい。
「え?! どこ?! と〜ちゃんと真菊ね〜ちゃんどこにいるの?!」
「もったいぶらずに教えてくれよ! アタシ絶対力になるから!」
多翼は式神を持っていないからか気づかなかった。椿は陰陽師ではないから、亜紅里同様に気づけないのだろう。
「……式神の、家」
ぽつりと呟いたのはモモだった。結希は思わず彼女を見つめ、慌てて春の影に隠れた彼女の態度に地味に傷つく。
「まさか」
「芦屋家の、って考えてほぼほぼ間違いはないと思う」
モモの言葉に補足して答える。もし本当にそうだったら、雅臣が美歩に「式神を持たないで」と願った意味の半分ほどが理解できるから。
「じゃあ、美歩ね〜ちゃん式神持ちになるの?!」
「いや、式神を持つか持たないかはさっき保留にしたから……話すべき問題は行ってどうするか、だな」
「そもそもでごめんだけど、式神の家ってなんだ? スザクとかが住んでるのか?」
「式神の家っていうのは、同じ陰陽師の一族の式神たちが暮らす隠れ家みたいなとこなんだ。スザクとオウリュウは間宮家の式神の家で暮らしていて、そこには間宮家の式神の案内がないと絶対に行けない。芦屋家の式神の家にいるってことは、芦屋家の式神の力を借りないと絶対に行けないってことなんだよ」
「え?! じゃあマズいじゃん! どうすんだ?!」
「っていうのが今までの話なんだけど、美歩、芦屋家の式神ってククリしか残ってないのか?」
「聞いてない……けど、いたとしてもあと二三人くらいだと思う」
「……そうか」
また無言の時間が流れた。もし野良の式神がそこにいるなら、式神の名前を呼べば今すぐにでも主従関係を結べるだろう。産まれたばかりの式神よりもそちらの方が頼もしい。
ただ、美歩が召喚者になって彼女が初代主を務めるのなら、イヌマルのような強力な式神が産まれる可能性も充分高い。
もしも式神を生み出すのなら、これは賭けだ。結希は不安そうな美歩を見つめ、何が正しいのかを必死になって考える。
そして、救いを求める声を上げればいいのだと──生まれて初めて気がついた。




