七 『女狐の家』
強く強く唇を噛む。いつの間にかククリに情が湧いていたのだろうか。彼女のことも大切に思っていた結希は阿狐頼をさらに憎む。
阿狐頼は十六年ほど前に亜紅里を山に捨てた。阿狐頼は六年ほど前に百鬼夜行を引き起こした。
そして今日、ククリに大怪我を負わせた。
雅臣と真菊を庇ってできたであろう傷は、式神ならば簡単に治る。それでも、式神がこんな状態だと、主に深い影響を及ぼす。
雅臣が無傷だと言われても、安心はまったくできなかった。
「結希様」
初めてククリからそう呼ばれた気がする。
「美歩様」
「……何?」
ククリは芦屋家の式神だ。彼女は芦屋家の血が流れている二人を──芦屋家の最後の子孫である二人を心底愛おしそうに眺め、ぽろぽろと大粒の涙を流す。
「お願い、します」
彼女の願いならばなんでも聞こう。そう心から思う日が来るなんて思わなかった。
「真菊様を、助けてください」
そして、彼女のことを助けたいと思う日が来るなんて──思わなかった。
「姉さんに何かあったの?!」
「私よりも、カグラの方が重傷なんです」
それはつまり、雅臣よりも真菊の方が重症ということだった。
結希は完全に治りきったわけではないあの痛々しい火傷の痕を思い出す。それは未だに華奢な真菊の体に残っており、多分、一生治らないのではないだろうかとさえ思わせる。
「真菊姉さんは?! 父さんは?!」
「芦屋家です」
それを聞いた美歩はすぐに結希に視線を移した。
「結希……!」
ククリと同じくぽろぽろと大粒の涙を流し、今すぐにでもそこに行きたいと訴える。
美歩は身柄を拘束されている身だ。勝手なことをすれば命がないことがわかっているから、結希の為に死ぬわけにはいかないから、だから結希に許可を求める。
「お願いします、カグラはもう、ダメかもしれなくて、真菊様は、今……」
途切れ途切れに訴えるククリの願いも、ずっと蔑ろにし続けていた美歩の願いも、聞いてあげたいと思う。だから──。
瞬間、撫子色が視界に入った。撫子色はククリから美歩を引き剥がし、支えをなくしたククリは真後ろに倒れて呻き声を上げる。
「ツクモ?!」
その撫子色を、結希も美歩も知っていた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
九字を切った陰陽師の声も知っている。ツクモの主で紫苑の双子の兄の春は、駅の方向から駆けてきてククリのことを倒そうとしていた。
「春兄さん?! ツクモ! 離して!」
「二人ともククリから離れて!」
真璃絵を脇に抱え、美歩を担ぐツクモと共にククリから退避する。
意味がわからなかった。だが、何故か言うことを聞いてしまった。反射的に動いた結希はククリを見据え、九字を切られた彼女の体が歪むのを見る。
「あれ、は……」
真璃絵の声が掠れて震えた。真璃絵は初めて見たのだろうが、結希はそうではない。あれは──
「──幻術?!」
霧散したククリを呆然と眺め、気づけなかった自分を責める。美歩を地面に下ろしたツクモは春と合流を果たし、そんな春を追いかけてきた多翼とモモへと視線を移した。
多翼はモモの手を離して、嬉しそうに「結希に〜ちゃん! 美歩ね〜ちゃん!」と名前を呼ぶ。それほどの愛を向けられるほど彼に何かをしたわけではないのに、多翼は義理の姉と同じくらい結希のことを慕っていた。
「良かった〜! ちゃんと会えた〜!」
「…………」
多翼の後ろに隠れたモモは落ち着かなさそうに辺りを見回す。結希は真璃絵を抱えたままそんな四人に近づいて、真菊以外の芦屋義兄弟が全員この町に集ったことに気がついた。
「どういうことだ……ククリは……」
尋ねたが、なんとなく自分の中で答えは出ていた。
「帰ってきてない」
そうだろう。でなければ多翼とモモを連れてこんな危険な町には来ない。
「父さんも、姉さんも、カグラも、誰一人として帰ってこなかった」
家族のことを待ち続けた春は悔しそうに顔を歪めた。家族が次々といなくなるあの家でずっと帰りを待っていた彼の心中を察し、心臓が握り潰される。
最年長者として多翼とモモを守らなければならなかった彼は、義理の姉も双子の弟も義理の妹もいないあの家でずっと耐えていた。それがわかるから辛くなった。
「悪い……」
「なんであんたが謝るの」
「……俺が、父さんを止めなかったから」
「謝らないで、本当に。これ以上あんたのこと父さんの実子だって思いたくない」
それさえも春は辛いと言う。そんな春からこれ以上家族を奪いたくなかった。
「春兄さん、なんでククリが幻術だってわかったの」
陰陽師として強い力を持つ美歩でさえ気づけなかった阿狐頼の幻術を春が見破れたことが信じられなくて、結希も美歩と共に身を乗り出す。
「俺じゃなくてモモだよ。今朝ククリが帰ってきたんだけど、なんでかモモが近づきたがらなくてさ。阿狐頼のとこに行ってたなら、もしかしたら……って九字を切ったら大当たり。嫌な予感がしてこっちに来たら、やっぱり二人に接触してたし」
「ありがとう、春。助かった」
完全に信じていた。春が来なかったら、モモが気づかなかったら、自分たちの身は危なかっただろう。また、真璃絵に酷い怪我を負わせてしまったかもしれない。そう考えたらゾッとした。
「礼も言わないで、気持ち悪い」
結希のやることすべてが気に入らないかのような春は改めて美歩に視線を移し、無事であることを喜ぶ。態度が雲泥の差だ。仕方がない部分しかないが、それが少しだけ寂しかった。
「とりあえず家に戻ろう。ここは危ない」
真璃絵を膝の上に乗せて車椅子を起こそうとすると、代わりに多翼がそれを起こす。
「結希に〜ちゃん、僕やるよ!」
満面の笑みで言われた言葉の意味がわからなかった。
「少しは人のことを頼れ」
そう言われてようやく理解するくらい、結希は何も知らなかった。
「え」
「車椅子を起こすことくらい誰だってできる。真璃絵を支えることはあんたしかできないけど」
腕を組んだ美歩は何が不満だったのか。自分の荷物が入った鞄が投げ出されていたことがそんなに嫌だったのだろうか。人の感情がいまいちわからなくて戸惑う。
「そーだよ!」
瞬間にそう同意する多翼に押し潰された。真璃絵は楽しそうにのしかかってきた多翼とじゃれる。モモは春の後ろに隠れており、春は完全に呆れた表情で結希のことを見下ろしている。
「…………」
紫苑だけではなかったのかもしれない。結希は、誰かに頼ることがそもそもできない人間なのかもしれない。
なんでもかんでも一人でしようとしていた自覚はないし、ちゃんと頼ったから今日の会議があったのだと思っているが、そういうことではなかったのかもしれない。
ずっと紅葉と生きていた。あの頃は紅葉に頼っていた気がするが、頼ろうという意志を持って頼っていたわけではない。
兄弟もずっといなかった結希だ。年下ばかり多くのものを背負っているから頼ってほしいと思っていたのに、肝心の自分が頼り方を知らなかったなんて滑稽だ。
人としての大事なことも、命も、親も、愛し方も。
自分には、何もない。
「ごめ、ね」
視線を下ろすと、申し訳なさそうな表情をする真璃絵と目が合った。真璃絵にそんな顔をさせたくなくて、謝らないでほしいと思って、春が思ったことはこういうことだったのかと思う。
「わた……し」
真璃絵の細い指が結希の頬に触れた。あまりにも冷たくて体が一瞬びくっとなるが、真璃絵のことを思って我慢する。その指にゆっくりと撫でられて、時々触れる自分の髪が心地良さを感じていた。
「めー、わくなら、わたし」
その指が離れる。迷惑ならば、離れる。その意味だけはすぐにわかった。
「……真璃絵さん」
名前を呼ぶ。彼女は恩人で義姉だ。だからどうしても逆らえない、彼女の意志を尊重したいと思う。それでも彼女の手首を掴んだ。
「迷惑とか思ってないんで!」
彼女が六年眠っていたのは自分の術のせい。彼女に術をかけなければならなかったのは自分を庇って怪我を負ったせい。
そうでなくても迷惑だなんて思っていない。
それを伝えたくて思わず掴んだその手首は、六年眠っていたからか想像以上に細かった。
真璃絵は何故驚いたように目を見開くのだろう。ほとんど目と鼻の先にある彼女の顔をまじまじと見つめてそう思う。この気持ちは伝わっただろうか。多翼に車椅子を抑えてもらい、真璃絵を再び抱き上げてそこに乗せる。
羽のように軽いとまでは言わないが、筋肉がかなりついているわけではない結希でも簡単に抱き上げることができるのが真璃絵だった。
「よし。帰ろう!」
「帰るってどこに? 百妖家?」
「そうだけど?」
「そこに俺たちも来いってこと?」
何故そんなことをわざわざ聞くのだろう。当たり前だ、瘴気が蔓延したこの町の外に三人を置いてけぼりにするわけがない。
「そうだけど?」
「……紫苑、嫌がったりしない?」
なんだ。そんなことを気にしていたのか。いや、春にとってはそんなことではないのだろう。紫苑は世界でたった一人しかいない双子の弟なのだから。
「多分大丈夫だと思うけど」
「ほんと?! 紫苑に〜ちゃんに会えるの?!」
「会えるよ」
「やった〜!」
両手を上げて喜ぶ多翼に早く会わせたくて車椅子を押す。目指すのは駅前のバス停だ。それで百妖家に向かって、美歩と出会う瞬間を待っている三人の元気な姿が見たい。
帰る家がない亜紅里と紫苑、そして何故か未だに家に残る選択をしている椿を思い浮かべて逸る足を抑えた。
「誰か阿狐頼の家の場所わかる?」
芦屋義兄弟の再会も気になるが、このことも決して忘れていない。
春も、美歩も、多翼も、モモも、黙ったまま俯いた。それでもきちんとついて来る。町を襲う瘴気から逃げるように。
「女狐の家には父さんと姉さんしか行ったことがないから、紫苑兄さんに聞いてもわからないと思う」
「ツクモ。カグラかククリのところに行くことは?」
「ひぇっ?! む、無理です! あの人たちと私は血が繋がってないので! ですっ!」
ならばタマモもダメということになる。
「真菊がどこの家出身かは?」
「聞いたことない……っていうか、そういう話はしたことがない」
「美歩、式神って持ってる?」
「持ってない。父さんが持たないでって言ってきたから、作る気もなかったけど……」
「そっか」
「……どうしたらいい?」
「『持たないで』の意図がわからないからなんとも言えないな。仮に作って向こうに行っても、行けるのは式神一人だけ」
「……それで向こうで何かあったら水の泡だね」
沈黙が下りる。何もできない。それでもきっと、何かしなければいけないと思う。
「他に手がないか姉さんたちにも相談してみよう」
「女狐の娘……亜紅里も何かわかるかもしれない」
まだ希望を捨てるには早すぎる。辿り着いたバス停でバスを待ち続ける時間は長く、その間も真璃絵を含めた全員で話し合う。
ククリの幻術が飛んできたということは、阿狐頼に接触することはできたのだろう。
その場所で一体何をされたのか。まだ失いたくない、もっとたくさん話しがしたい二人を思って結希は黄昏時になる空を見上げた。




