一 『母の行く道』
「真璃絵さん!」
思わず駆け出す。ずっと会いたいと思って目覚めさせる方法を探していた結希にとって、今日という日は誰がなんと言おうと特別な日だ。
真璃絵を囲んでいた義姉妹たちは道を開け、足を止めた麻露は振り向く。真璃絵は、動かしにくいであろう体を動かして結希の瞳を不思議そうに見つめ返した。
「っ、はぁっ、はぁ……!」
追いついて、息を整え。ついて来た月夜と幸茶羽はそんな自分の両隣に立ち、変化を解く。
「まりちゃん、覚えてる?」
優しい声、依檻の声だ。真璃絵は真朱色の瞳を丸くして、可憐な唇から息を漏らす。
「…………ぁ」
掠れた声。初めて聞いた。他の誰でもない真璃絵の声だった。
「彼は百妖結希だ」
「まりちゃんが助けて、まりちゃんを助けてくれた」
「わたくしたちの──かけがえのない弟です」
「そして、私の息子よ。真璃絵ちゃん」
同じく追いかけてきた朝日は微笑む。月夜の背後に立って結希と並んだ彼女にとって、真璃絵は大切な娘の一人だ。
『改めて、結希君。間宮家の最後の陰陽師として、新しく家族になった百妖家のみんなを──私の娘たちを、守ってね』
そして、真璃絵にとって彼女は母だった。
結希と朝日、月夜と幸茶羽、瞳を動かしてそれぞれが誰であるかを理解した彼女のそれが涙で煌めく。自然と頬を伝った涙は一粒目であるにも関わらず大粒で、目頭に力を入れた途端に堰を切ったように溢れ出す。ひくひくと動く鼻は自分ではどうすることもできないらしく、唇を引き締め、一度目を閉じて涙を流し切ろうとしても止まらない。
「真璃絵さん……」
真璃絵を前にした結希は、彼女の名前しか呼べなかった。
肩を震わせて俯いた真璃絵は、車椅子に座っている普段の彼女よりも小さく見え、そんな彼女に誰もが一度は守ってもらったことを思い出す。
『あの子は三女で唯一の大型妖怪だったから、私たちの盾になってしまうことが多くてな……。『妹たちを守れるなら大丈夫だ』と、よく笑っていたんだよ』
そんな真璃絵の近くに行きたかった。膝を折り、近づけるところまで近づいて、旋毛しか見せてくれない彼女の髪に隠された頬を両手で包む。
「……真璃絵、姉さん」
温かかった。生きている、ただそれだけでたった今真璃絵と本当の意味で出逢った結希の体が喜びで震える。それが真璃絵にも伝わったのか、ぴくっと彼女の指先が動いた。
もう一度真璃絵に見てほしくて、ゆっくりと自分の指先を動かす。顔を上げさせられた真璃絵は、綺麗とはほど遠い──涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった真っ赤な顔になっていた。それでも、今まで見てきた真璃絵の寝顔よりかは数倍価値のある美しい表情だった。
「ありがとう……ございます」
言い忘れないようにしようと思っていたせいか、何もかもを追い抜かしてそう告げた。
「……?」
ぽかんとした表情。そんな表情をする人なのだと思って、もっともっと真璃絵のことを知りたいと願う。
「…………ありがとう」
今度は自分の方が俯いた。真璃絵につられて泣きそうだ、そんな姿はこの場にいる誰にも見せられない。
冷えきった体を熱が触れる。両頬に添えられただけの細く白く骨のように見える手は、真璃絵のものだった。
「…………」
にこ、と、微笑む。真璃絵の笑顔を間近で見つめる。
「ず、と」
たどたどしく声に出した真璃絵の言葉を聞き逃すまいと、義姉妹全員が何かを話したくて開けていた口をぎゅっと閉ざす。
「まっ……て」
近くまで来ていた生徒会の仲間も、紫苑も、紅葉も、耳を澄ませる。
「あいた、か、た」
体重を前に傾けた。それだけであっさりと落ちてきた真璃絵は結希に覆い被さって、多分無理矢理抱きついてきた。
それを支えられないわけではなかったが、あまりにも突然のことだったせいで真璃絵のことを自分の体からも落としかけた。それを咄嗟に片手で支えて難を逃れる。
危なかった。心臓が一瞬止まるかと思った。
自分をこの世界に繋ぎ止めてくれた真璃絵を、自分がこの世界に繋ぎ止めることができて本当に良かった。この手から零れ落とさなくて本当に良かった。
安堵したら疲れが出る。この後すぐに会議が始まるというのに。
抱き締めた真璃絵は当然のように痩せ細っていた。想像以上にふわふわな──ずっと義姉妹たちが代わる代わる手入れをしていた髪は動物の毛のようで、撫でていると癒される。
だが、義姉相手にずっとそうしているわけにもいかなかった。
*
雪崩るように小倉家に駆けつけてきた麗夜とアイラに真璃絵を任せ、一旦彼女から離れた結希は別室で朝日に髪を整えられていた。
しなくていいと突っぱねたが、ちゃんとしなさいと怒られて肩まで伸びて一つに結んでいた髪を後頭部まで上げてワックスで固められる。
傍らにかけられているのは束帯で、戦闘時に着る狩衣でも儀式の時に着る直衣でもなく、新年会で着る予定だった結希の新しい正装だ。
今まで会という会を無視していたせいで正装を持っていなかったが、いつの間にか用意されていたそれは千年前からこの世界にあるもので──あの間宮宗隆が着ていたものと同じ形をしていた。
「……本当に着なきゃ駄目なのか?」
「着なさい。せっかく買ってあげたんだから着ないと勿体ないでしょ?」
「でも、生徒会でこれ着るの俺だけだろ」
「別に恥ずかしくないでしょう? これが私たちの正装なんだから」
朝日は何もわかっていない。六人の中で一人だけこんな仰々しいものを着て、それを陰陽師ではない全員に見せるのが恥ずかしいのだ。
「髪だってまだ切ってないんだし、いいじゃない」
「終わったら絶対切ってやる」
「そしたらまた伸ばさなきゃね」
「……そうだな」
来年──それが結希たちにあるのだろうか。それを守る為にこれから集まるというのに時々考えては不安になる。消えた千羽が脳裏からまったく離れない。
「母さん」
「なぁに?」
「父さんの、話なんだけど」
「どうしたの急に。改まって」
会って話がしたい、そう思ったのは事実だが、いざ話すとなるとどう話していいのかがわからなくなる。
「出てった五日後に百鬼夜行が起こったって……言ったっけ?」
「……そうよ」
「なんで元凶だって思ったんだ?」
「なんでって……」
父親は騙されていた。元凶は阿狐頼だった。だから朝日のその考えは間違っている。
「……あの人は、人が悪いって言っていた。だから、人を、って」
愛した人間が人殺しだということを断言したくないのだろう。その気持ちはわかる、痛いほどに。
「私はあの人のことが許せない。許すつもりは全然ないわ……どんな理由があったとしても…………人を、殺すなんて、許されない」
それでも嫌いになれないのは、雅臣が人を殺せる人間ではないと朝日が一番わかっているからだろうか。雅臣が起こした事件の結果多くの人が亡くなったという認識でいるから、彼のことを愛し抜くことも恨み切ることもできないのだろうか。
「阿狐頼に騙されてた」
ぽろりと言葉が落ちた。
「父さんは、騙されてたことに気づいて阿狐頼に会いに行った」
考えることをやめて告げる。真実を隠すことなく伝えないと、母親はこのまま死ぬまで苦しみ続けるだろう。それは悪いことだと知っている。
「なんで……」
手が止まった。朝日の声は震えていた。
「……なんで、結希君がそのこと知ってるの……? ねぇ、まさか」
「続きは会議で話す」
「ねぇ! 貴方、あの人の味方をするって言わないわよね?!」
「母さん」
視線を上げて鏡を見つめると、何か少しでも言葉を間違えたら発狂してしまいそうなほど取り乱した朝日がいた。
「それはないよ」
だからか逆に冷静になって、抑揚のない声で告げる。嘘ではないが、安堵する朝日と同じ道を行くとは一言も言っていないことを理解しているのだろうか。
「そうよね、良かった……。私たち間宮家の人間は、誰よりも妖怪を殺さないといけないもの……。最後の子孫の貴方が、この町を救った貴方が、誰よりも妖怪を殺さないと……私たちの汚名は一生消えないわ」
「母さんはやっぱり、汚名を消したい?」
「当たり前よ。貴方だってそうでしょう?」
「…………」
視界に入ったのは、束帯だった。六年前に着ていた束帯は、新年会があったその日に結希が鋏で切り裂いた。
「……もう、あんな思いはしたくないでしょう?」
凝りもせずに足を運んだ定例会ですぐに逃げ出し、ずっと、母親と伯母のみに行かせていた。
「あの人も、殺すなら間宮宗隆を殺してくれればいいのに」
自分たちは間宮宗隆の直系ではない。鬼の血が入っていないから、彼の子ではない。
なのに間宮家というだけで忌み嫌われる。蔑まれる。そのせいで一族全員が壊れてしまった。鏡に映った朝日は、一瞬だけ──本当に一瞬だけ、妖怪と大差ない悪意の塊の表情を見せた。
「結希君、お願いね」
背後から抱き締められる。固めた髪を崩さないようにそっとそうしただけだったが、振り解きたいほどに様々か感情が溢れ出したが故の行為だった。
「最後の最後、間宮の名前が途絶える前に──また、この世界を救ってね」
朝日は完全に忘れている。自分が誰との間にできた子供なのかを。
そんな両親の願いを叶えることができるだろうか。互いに多くの子供がいるのに、その願いを叶えることができるのは実子である結希ただ一人だけ。そんな二人の願いを叶えることができたとしても、結希が望む世界は二人が望んだ世界ではない──。
この世界を平和なものにする。思い描いた結末は三人とも同じなのに、過程が違うと世界の姿もがわりと変わる。
どの道に進むとしてもある程度の犠牲が出るだろう。目を閉じた結希が想うのは、今もまだ千羽ただ一人だけだった。
彼との思い出なんてほとんどないのに、彼が結希に味わわせた感情があまりにも大きすぎて戸惑う。誰かを亡くすということはこういうことなのだろう。これに耐えた涙という存在が化け物すぎて恐れてしまう。
妖怪を救ってこの世界を平和にしても、人を救ってこの世界を平和にしても、共存という形でこの世界を平和にしても、千羽のような犠牲は必ず出てしまう。
どうしても耐えられそうになかった。この会で自分が示した道が進むことができる道だと判断されても、瘴気を消す度に人を犠牲にすることはできない。
「わかってるよ、母さん」
拳を強く握り締めた。
「〝最後〟の俺が、なんとかするから」
いちいちそれを強調していた母親の言葉の本質を受け取った。




