十九 『土地神の自覚』
「風丸!」
小倉家が眼下に見えた瞬間、夜目が効く結希の目は隣接する神社の参道に立つ風丸を捉える。日が暮れた外の世界に出て冷たい夜風に当たっていた風丸は、ただ黙って結希とヒナギクを見上げていた。
「下りるぞ」
「おっ、ちょっ、あぁっ?!」
瞬間に腕を掴まれてヒナギクと共に落下した結希は、彼女に担がれて着地する。今まで何度も危険な目に遭ってきたが、これほど心臓が早鐘を打ったのは初めてだった。
「風丸、起きていて平気なのか?」
半妖のヒナギクが真っ先に尋ねる。人間の結希は体が正常に戻らないせいで何も言えない。
「……ん、一応」
返答した風丸は、結希が知る小倉風丸ではなかった。
「曖昧な返事をするな。貴様は土地神なんだろう、はっきりと答えろ」
「土地神として、なら何も問題はねぇと思う」
「つまり?」
「俺が俺じゃねぇみてぇだ。そんな感覚がして気持ち悪ぃ」
髪の半分までプリンと化した風丸のそれは、この一年間ずっと彼が髪を放置してきた証だ。無造作に伸びた前髪の隙間から見えるあの深海色の瞳は、また人ならざる〝何か〟に乗っ取られたかのように見えて息を止める。
いや、人ならざる〝何か〟ではない。結希はその正体をもう知っている。
「──俺って、土地神だったんだな」
その呟きは、唇の動きを注視しなければ読み取れなかった。風に掻き消されてしまったのだ。まるでわざと風を発生させたかのように、風丸は風と同じタイミングで呟いたのだ。
「……土地神じゃない」
声が震える。
「お前は、小倉風丸だ」
断言する。
「お前は、五年前、明日菜と一緒に俺につき纏っていた小倉風丸だ。俺の手を離さずにいてくれて、派手なことや祭りが好きで、バカなのにバカじゃなくて、ヒナギクや亜紅里の尻に敷かれていて、八千代を時々女子扱いする小倉風丸だ」
まだ見失いたくない。例え風丸の魂が完全に土地神のものになったとしても、最初にできたかけがえのない友をそう簡単に手離したくない。
「……結希」
刹那に宿った魂は、誰が否定しようとも風丸のものだと結希は信じて疑わなかった。
「ありがとな」
照れくさくて言えないかもしれない、そう危惧していたが案外すんなりと口に出た。風丸は、ぽかんと口を開いてその言葉の意図を汲もうとしていた。
今夜は風が強い。一反木綿が飛ばされないように早々に下りてくるほどに、自分たちにとって悪い方向に働いている。
夜中の神社に明かりと呼べるようなものはほとんどなく、小倉家から漏れる光と月明かりだけが頼りだった。そんな月明かりが照らす風丸の表情は未だ変わらず、彼はごくりと唾を飲み込む。
「それを言うのは俺の方だっての」
にかっと歯を見せて笑ったのは、陰りはあれど小倉風丸だった。
「ありがとな。俺を苦しみから解放してくれて」
「まだ解放できたわけじゃねぇけど、良くなって良かったな」
「本当にそうだな。貴様が話もまともにできない状態だと知った時はこの世の終わりかと思ったが」
「へぇ〜。ヒーちゃんでもこの世の終わり〜とか思うんだぁ?」
ひょっこりと顔を出した亜紅里はこんな状況でもニヒヒッと笑い、揶揄うように三人の間を縫うように歩く。
「止まれ、握り潰すぞ」
「んぎゃっ?!」
顔を鷲掴みにされた亜紅里は既に握り潰されたようだったが、半妖姿だったおかげかたいしたダメージはないように見えた。
「ていうか、ヒナギク?」
「ん?」
「そんであっちゃん?」
「え?」
二人と同じく結希も一瞬首を傾げる。だが、風丸の疑問はもっともだった。
何故なら二人は、未だに半妖姿をしていたのだから。
「そういえば、この姿を見せたのは初めてだったな」
「話は聞いてたし声でなんとなくそうかな〜とは思ってたけど……なんていうか厳ついな」
「だよねわかるぅ。ヒーちゃん全体的にとんがってるしぃ」
「いやお前もだよ。全身タイツか?」
「はぁ?!」
「亜紅里、素の声出てるぞ」
「黙れ! 私は全身タイツなんか着ていない、よく見ろ風丸!」
「ぐぇっ、引っ張るなよ亜紅里……!」
普段の二人と変わらないやり取りだったが、普段の二人とは大きく異なる。土地神であることを自覚した風丸と、素の亜紅里。そんな二人を引き剥がした。
「風丸。とりあえず貴様から話が聞きたい。小倉家の中に入れてもらっても?」
「それはもちろんいいけどさ、話って?」
「阿呆か。貴様が土地神ならば我々に話さなければならないことが多々あるだろう」
「うーん、そんなこと言われても何も話せないと思うけどなー」
「貴様はどこまで役立たずなんだ。務めを果たせ」
「ぐぇっ。務めを果たせって言われても、俺は半妖でもなけりゃ陰陽師でもないし、そもそも覚えてることなんてあんま……」
「何を言っている。貴様は陽陰学園生徒会執行部、別名《百鬼夜行迎撃部隊》の一員なんだぞ?」
「……何それ?」
ぽかんと口を開いた風丸の言うことは、もっともだった。亜紅里も顔の半分だけ隠れてるとはいえ不思議そうな目をしている。
「あぁ、貴様らには話したことがなかったな」
「貴様ら、ってことは結希には話したのか?」
「あぁ」
「マジか……って言っても、今より前に話されたって意味わかんないしな」
「そうだな。だから話さなかった、だから話した、だから話してほしいんだ」
「なるほどな。どうなんだ? 風丸」
「どうなんだって、そんなことよりお前の態度にびっくりだよ」
「気にするところは私じゃないだろ」
亜紅里は肩を竦めた。ヒナギクは顎を引き、風丸はそんな二人を交互に見つめて困ったように眉を顰める。
「風丸?」
「お前らが言いたいことはわかったけど、本当にわからないことが多いんだよ。土地神としての自覚はまぁ出てきたんだけど、五年よりも前のことなんてマジで何も覚えてないしな」
「それって……」
「俺もお前と同じ記憶喪失ってこと。いや、ちょっと違うか」
「……いや、どうだろうな」
「土地神としての記憶がないならそうだろうな。それでも貴様の存在自体が不可解すぎる、その点についての説明義務はあるだろう」
「そうそうそうそう。吐き出しんしゃい吐き出しんしゃい」
「えぇー、あっちゃん急に元に戻るじゃん。とりあえずわかるとこだけ話すから、お前らも俺が知らないこと話してくれよな」
亜紅里に尻を叩かれて小倉家へと足を向ける風丸の背中は、寒さ故か丸くなる。その後ろを三人揃ってついて行く。
振り返ると、そんな自分たちを見送る義姉妹たちの姿があった。邪魔しないように風丸の視界に入らない場所で待機していた彼女たちは、頷いて結希の背中を押す。
「風丸」
「ん? 今度は何?」
「あの人たちも入れてほしいんだけど」
「あの人たち……って、あ」
ようやく彼女たちを視認した風丸は、彼女たちそれぞれの半妖姿を一気に見たせいか絶句した。
椿と月夜と幸茶羽以外の全員は──当然のように麻露も覚醒後の姿をしており、通常の半妖よりも強力で怖気づいてしまいそうな禍々しい力を内包している。それに気圧されたのだろうか、瘴気を好まない風丸はしばらく思考を停止させていた。
「別に断る理由なんかないだろ。早く呼んでやれよ」
だというのに了承する。変化を解いて結界の中に入ってきた十二人は、風丸から片時も目を離さなかった。
「そんなに見つめられると困るんだけどな……」
本気で参ったように髪を掻く。こういう注目のされ方を嫌う風丸らしい。仕方がないと言えば仕方がないが。
「風丸! どこに行っていたんですか!」
瞬間に小倉家から飛び出してきた雷雲は、珍しく血相を変えていた。よっぽどいなくなって焦っていたのだろう。自分たちを視界に入れてようやくほっと息を吐く。
「良かった、皆さんもご一緒だったんですね」
「一緒というか、なんか来るような気がしてさ」
「瘴気が薄くなったおかげで立てるようになったんですね。結希さん、ありがとうございました」
「あっ、いや……」
何かを感じ取ったのだろう。雷雲は一瞬口を閉ざす。
「みんな中に入れるから、そういうことで」
「わかってますよ。皆さん、どうぞ。冷えるでしょう」
玄関の戸を開け、明かりがついた中へと進む。陽縁は休んでいるのだろう、姿を見せないまま居間へと辿り着く。
「話すのはいいけどさ、生徒会ってことならやっぱ六人揃わないとな」
振り向いた風丸は笑っていた。その笑顔はまさしく、小倉風丸の笑顔だった。
「生徒会もそうなんだけど、俺は一回全員で話し合いたいんだ」
「全員? 副会長、その全員というのは?」
「陰陽師も半妖も《十八名家》も関係ない。六年前の百鬼夜行に関わり、これからの百鬼夜行に関わらなきゃいけない全員で」
「確かに、我々の間で共有しなければならない情報はいくつかあるだろうな。今までは半妖は半妖、陰陽師は陰陽師としてでしか話し合わなかったが、これからは全体的に共有しなければならない案件が増えるだろう」
「なら、明日早くに招集するか」
「……そうだな。各家に伝達を頼む」
口を挟んだ麻露を顔には出さないが敵視するような視線で答え、ヒナギクはスマホを取り出して距離を開ける義姉妹たちを眺める。
彼女たちは、ほんの少しでも何かが違っていたらヒナギクの義姉妹になったかもしれない人たちだった。そんな彼女たちの中にいたら、きっと麻露を敵視することはなかっただろう。
半妖としての最年長者と、半妖の総大将。
ヒナギクが一方的に作っている溝は多分この戦いの間で埋まるものではない。共に過ごせなかった彼女たちの十七年間は、そう簡単に埋まるものではない。それは逆も然りだった。
「ねぇゆうゆう。陰陽師の方はどうするの?」
「結城家には先に伝えてたから、明日になったって言えばすぐに集めてくれるかもしれない」
「ふぅん。あ、そういや紅葉、すっごい荒れてたけどあれ大丈夫なの?」
「……どうだろうな」
結希の中にも悲しみが沈殿していたが、風丸の件で無理矢理奮い立たされたせいで感情が上手く処理できていなかった。元々顔に出ない性格だからか今は心配されていないが、先ほどの件で充分に心配されたとは思う。それでも未だに傷は癒えない。
「大丈夫じゃないんだぁ」
おどけていたわけではないが、亜紅里はそう呟いた。
「ゆうゆうもさ、大丈夫じゃないならちゃんと言ってね」
そして、彼女もまた月夜や幸茶羽と似たようなことを言うのだった。
「お兄ちゃん」
そんな月夜に声をかけられる。
「ん?」
「八千代お兄ちゃんに連絡してくれる?」
「あ、そっか。ごめん今やる」
「んーん。ありがと」
微笑む彼女は、どういう意図だったのか、「良かったね」と呟いた。




