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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第十章 佳月の幸福
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十八 『痛いの痛いの飛んでけ』

「『土地神の加護を受けた精霊よ、彼に力を与えたまえ』」


 彼女の声が優しい掌のように両耳を覆う。他の音が何も聞こえなくなるくらい、優しくて恐ろしい、彼女だけが持つ言霊の力だ。

 その力を使って自分の中に精霊の力を流し込む。前代未聞。褒められたやり方ではないはずなのに、不思議と力が身に馴染む。


 なんで──その疑問は一瞬にして尽きた。


 土地神が陰陽師おんみょうじに力を貸し、その力を使い果たしてこの世界に堕ちて来たのなら、その時から結希ゆうき風丸かぜまるは見えない糸で繋がっていたのだ。結希は風丸で、風丸は結希だったのだ。

 結希に引きずり落とされた風丸が性格の異なる結希の傍に居続けたのは何も不思議ではなく、町民から過剰に愛されていたのも不思議ではなく。今となっては些細な疑問となっていたことさえ風丸の正体は解決していき、今もこうして間接的とはいえ解決する為に力を貸してくれている。


 ありがとう。不意に、それを言い忘れていたことを思い出した。

 六年前に力を貸してくれたことではない。風丸が傍にいて明日菜あすなと共に手を引っ張ってくれていたから、結希は今日まで生きることができたのだ。誇張でもなんでもなく、それが真実なのだ。結希の傍にいた理由が友情ではなく使命感や切れない糸のせいだったとしても、結希はやはり、ありがとうと直接言いたい。そして、そんな彼のことも守りたい。


 これは、家族の為の戦いでもあり、仲間の為の戦いでもあり、未来の為の戦いでもある。


 そのことを意識した途端に心が凪いだ。人間と妖怪の戦いよりも、その方が自分の心に正しく当てはまる。

 多くを考えることも大切だが、心のままに動くこともまた大切なことだった。


「お兄ちゃん、大丈夫?!」


「大丈夫」


 掌の心春こはるは不安そうに結希のことを見上げている。数ヶ月前ここで吐いた少女とは思えないくらい結希に心を許している彼女は、結希の表情に何を見たのか、すぐに目を細めて微笑んだ。


「結希くん、準備はいい?」


「大丈夫」


 本当に大丈夫だから内心驚く。千羽せんばは結希の変化に気づいていたのか、念を押さずに下りてきた。


「心春、何が起こるかわからないから離れててくれ」


「わかった」


 人間の姿に戻り、駆け足で離れて結界の手前で足を止めた心春は、固唾を飲んで結希を見守る。それは心春だけではない。足止めをしている義姉妹たちも、結希の一挙一動を横目で視認し続けていた。


「この地を守護する土地神、風之万流命カゼノマルノミコトよ、我に力を貸したまえ」


 その詠唱はしなくていいものだが、すべてを暗記している千羽は最初から唱える。彼が詠唱してもたいした効果は認められない、それでも土地神に願うからか仄かな光の粒が集結する。結希の周辺には、既に呼び寄せていた精霊の力が目に見えずとも集っていた。


「我の名は、結城ゆうき千羽。力を欲する陰陽師である」


 そこまでは結希も把握している。土地神、四神、そして小人こびとだけが通じ合える、精霊。そんな人ならざる者の力を借りなければ成し遂げられない術は千羽のありもしない体を蝕むのか、苦悶の表情を浮かべた千羽の息が乱れた。


「千羽?!」


「……大丈夫、続いて」


 千羽の言う大丈夫は、大丈夫ではなかった。


「にぃっ!」


 随分と長い間そう呼ばれていたのに、今紅葉くれはが呼んでいる相手は結希ではない。


「紅葉ちゃん、大丈夫……大丈夫だから」


「全然大丈夫じゃないじゃんっ! 術はゆぅが唱えるのに、なんでにぃも唱えるの?! にぃは術を唱えなくてもいいから! 何もしなくてもいいからやめてよ!」


「……そういうわけにもいかないでしょ?」


「なんで?!」


「僕は、六年前……結希くんの傍にいてあげられなかった」


「それを言うなら俺も同様です。俺も、千羽と結希と紅葉の傍に不在です。故に、俺は……千羽と、結希と、紅葉を」


「くぅは何もなかったんだからそんなこと言わないでよバカッ! ねぇにぃ! そんなこと言うなら生きて! ねぇ! 死なないで!」


「……もう死んでるよ?」


 るいと紅葉の表情が固まった。一度受け入れたとてつもなく辛い現実が、夢になって、幸せで、それが壊れて、もう一度受け入れなければならないことに気づいてしまった人の顔は見ていられるものではなかった。

 思わず視線を逸らす。きっと、自分もそんな表情をしなければならないのだろう。それができないのは千羽との記憶がないからだ。一番仲が良かったはずの千羽の存在を忘れて、親族に千羽の存在を隠させて、風丸と明日菜に生かされて。何も成さずに死んでしまうのは無責任のように思えて、改めて千羽を正面から見据える。


「……やだ、にぃ」


「千羽、俺は……」


 千羽の行く末を悟った二人のように泣けなかった。結希にとって結城千羽という名の従兄は、最初から最後まで実体を持たない霊だった。


「……あのね、みんな」


 泣きじゃくる紅葉の頭を撫でようとしてすぐにやめ、涙と結希を交互に見て。結希の瞳に吸い込まれ、結希の中に、千羽が滲む。


「六年前のあの日、僕は……結希くんと一緒に、瘴気を消すことができなかった。結希くん一人に任せてしまったから、結希くんは記憶を全部失った。ある意味では、命一つ分だよね」


 義姉の依檻いおりが命を削ってくれたことを告げることはできなかった。真璃絵まりえが命を懸けて守ってくれたことも、告げられなかった。


「肯定です。六年前のあの日、俺は、千羽と結希を死なせました。紅葉のことも、俺は……俺は、兄失格です」


「ダメです、自分を許してあげてください。僕も、結希くんも、君のことは恨んでないから」


「恨んでない」


「くぅも……恨んでないよ」


 何か言わなければ後悔する。なのに「恨んでない」と言うことしかできなくて、涙を拭う紅葉と、唇を強く噛み締める心春を同時に視界に入れる。


『……あの日心春が誘拐されたから、涙は〝にぃ〟を助けられなかった』


 心春はその事実を知らずに生きているような子ではなかった。


『……でも、くぅたち家族を壊したも同然のことをしたのは、心春だもん』


 自覚していたから傷が開く。


「忘れないで。君は僕たちの、最高で最強のお兄ちゃんだってこと」


 血が、溢れる。


「そして、僕は、結希くんのお兄ちゃんでもあるから。だから、あの日できなかったことを……させて?」


 心春の唇から血が流れた。その血を求めて蠢く妖怪がびくんと震える。


「心春!」


 咄嗟に足が動いた。駆けつけて何をすればいいのかわからなかったが、傍に行って、彼女の傷を塞いであげたかった。


「結希くん! 心春!」


 歌七星かなせの声が月が浮かぶ闇夜に響く。いつの間にか妖怪がすぐ傍まで来ている気配がした。麻露ましろの氷壁、熾夏しいか愛果あいかの幻術、鈴歌れいか朱亜しゅあの拘束を潜り抜けて侵入してきた妖怪は、歌七星の水の矢に射抜かれて瘴気を撒き散らす。


「妖怪の数が多すぎる! 消すなら早くしろ!」


 前線に出てきたヒナギクは、この数に慣れていなかった。間髪入れずに千羽は動き、半妖はんよう変化へんげした心春と入れ替わるようにして結希の耳元に口を寄せる。


「ゆうゆう!」


 致命傷を与えてしまうせいで前に出ずに待機していた和夏わかな椿つばきの間から顔を出したのは、亜紅里あぐりだった。母親のよりと同じく妖怪を操ることができる彼女は、瘴気を撒き散らすだけ撒き散らして未だに消滅しない妖怪の足を止める。


 ありがとう。亜紅里にそう言うことさえ今はできなかった。耳は千羽の声を聞き、口は千羽の術を復唱し、目は義姉妹たちを捉える。


「──人を苦しめ妖を狂わせる悪しき気よ、この地から消滅し、人と妖に幸福をもたらせ」


 言われるがままに復唱していた。耳元から口を離した千羽は間近で結希の顔を見て微笑む。その体には最初から熱がなかったが、さらに冷え切った空気が結希の体を突き刺していた。結希を包み込んでいたのは、千羽の半透明な体だった。

 千羽と共に空へと上がった光の柱の核となる。千羽の体が霞んでいく。強烈な光だ。これほどまでに眩しいのに、飛び下りて駆けつけてくる依檻はまったく目を細める様子がない。まるで、これ以上の光を知っているかのように。



「──生きて」



 声が降る。眩しすぎて千羽がどこにいるのかわからない。


「にぃぃぃいいっ!!」


「千羽ッ!」


 柔らかい肉体に抱き締められた。千羽とは異なる、熱いと思うくらいに温かな体に抱き締められた。


「生きて……いるのよね?」


 依檻の声。頷いて答える。


「良かった…………もう、怖がらせないで」


 心からの声だった。依檻の目には千羽が見えない。結希一人だけでまたあの術を唱えたと思っているらしく、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔が首筋に埋められる。


「結希!」


 麻露の声が遠い。


「キミが妖怪を確認したいと言ったんだろう! 早く来い!」


「ッ、いおりさ……」


 離してと声に出す前に飛んでいた。依檻の跳躍で白き一反木綿いったんもめんの上に着地した結希は、義姉妹たちと同じ景色を視界に入れる為に目を開く。だが、光を直視したせいでその景色を目に焼きつけることができなかった。

 その代わりに感じた気配は、突き刺すようなものではない。吐き気がするような、気が滅入るような、そんな気配は一切なく──陽だまりのような気配を感じる。


「お兄ちゃん」


「前を見てろ」


 依檻が離れた。全身を包んでいた温もりも綺麗に離れていく。その代わりにまた新しい温もりが二つ揃って背中に触れた。


「──ッ」


 視力が急速に回復していく。結希の背中を支えているのは、間違いなく月夜つきよ幸茶羽ささはだった。

 前を見ろ、その言葉通りに前だけを向く。眩しさはまだ消えていない、妖怪自身もまだ消えていない。消えていくのは瘴気だけだ。


「六年前、私は同じ柱を見た」


 熾夏がぽつりと声を漏らす。


「光が町全体を覆って、夜が明けて、その時にはもう、瘴気なんてなかった」


 ぽつり、ぽつりと。一歩ずつ、確かめるように、全員に報せるように、声を紡ぐ。


「今は夜中です。夜が明けるなんて、あり得ません」


「あの日は既に、夜が明けた時間帯だったってことよねぇ」


「だが、あの光は町全体を覆っていない」


「そりゃそうでしょ。結希が何も犠牲にしていないんだから」


 それでも壊れる時は一瞬だった。今さら溢れてきた涙が何を表すのかわからない結希ではない。


「って、結希?! アンタなんで泣いてんの?! なんかあった?!」


 ぎょっと驚く愛果を安心させる為に必死で首を左右に振った。それでも、真下で泣き崩れた紅葉がそれを否定する。

 誰も、何も、言わなくなった。涙でさえ紅葉を慰めもせずに放心している現状を見て、全員が何かを察してしまった。


「お兄ちゃん」


 真後ろにいた月夜の頬が涙に濡れた頬に触れる。


「痛いの痛いの飛んでけ〜」


 そして、相変わらずの黄金の光が結希の全身を包み込む。痛いのは体ではなく心だ、そんなことをされても痛みは消えない。


 千羽を亡くした。


 いや、正確には、六年前に亡くなっている彼が成仏してしまった。もう二度と声も手も届かない場所に行ってしまった。


 誰かがこの手から零れ落ちたのは、初めてのことだった。耐え難い痛みが、喪失感が、虚無感が、一斉に襲いかかってくるのは初めてのことだった。

 体は月夜と幸茶羽のおかげで無傷だったが、心が疲れ果てている。月夜に構う余裕がないほどに、失うことを学んだ結希の心は以前の結希に戻ることを拒んでいる。


「笑って、なんて言わないよ」


 彼女は常に願っていた。みんなを笑顔にしたいと。幸せにしたいと。むしろ、しなければならないとさえ思っている。


「でもね、つきはお兄ちゃんのことがだぁい好き。それだけは言わせてね」


 そんな使命感に駆られたいたいけな少女は、本当にそれだけを告げて口を閉ざした。

 背中が重くなる。月夜だけでなく幸茶羽も覆い被さってきたようだ。隣には一歩も離れなかった依檻がいる。微笑んでいる。「私も大好き」、それだけを告げる。


「あたしも好きぃ〜!」


 正面から突進してきた亜紅里は完全にふざけていた。抱き締められ、顔を胸部に押しつけ、足はジタバタと動かすくせに両手はしっかりと服を掴んでいる。


「はいはい! ワタシもユウ好き〜!」


 片手を上げて近づいてくる和夏はニコニコと笑っている。


「…………は? ボクの方が好きだから」


「ふっふ〜ん。わらわも結希が好きじゃし、結希から好かれておるのもわらわじゃよ〜!」


「えぇ〜? お姉ちゃんって呼ばれてるだけなのに生意気〜。弟クンのことを誰よりも大切に思ってるのは私だって弟クン気づいてるよねぇ?」


「アタシも結兄ゆうにぃ好きだぞ! っていうか、みんな結兄のこと大好きだろ!」


「…………人の好意をその次元に落とさないで」


「ぎょえっ?! いだだだだ! なんでだよ鈴姉れいねぇ〜!」


「おっ、お兄ちゃん! ぼくも好きだからね!」


「ちょっ、心春まで?! 裏切り者! なんなのさみんな!」


「あっれ〜? あれあれ〜? あいちゃんとかなちゃんは言わないの〜? じゃあ依檻姉さんが言ってあげようかなぁ〜」


「はぁっ?! やっ、いっ、いきなりそんなこと言われても……いやっ、すっ、好き! はい終わり!」


 人がどれほど悲しい思いをしていても、この義姉妹たちが関わるとその気持ちは長くは続かない。一気に騒がしくなるこの日常を愛していたことを思い出して、思わず笑みが零れてしまう。

 火影は紅葉の体を抱き締めて、黒翼ですべてを包み込んでいた。それが愛だと言うのなら、義姉妹たちのこれも愛だろう。


「結希」


 体が強ばる。近くにいる全員に気づかれないようにゆっくりと解していくが、抱き締めている双子と亜紅里には多分気づかれていた。


「私もキミが好きだよ」


 微笑む麻露の言葉が意外だと思ったのだろうか。ぎょっとする義姉妹全員の視線に気づいてばつが悪そうに唇を引き締める。


「副会長」


「……ヒナギク」


 何を言われるのだろう。


「行こう。風丸が待っているはずだ」


 予想ができなかったがヒナギクはこの流れを切り捨てた。それがヒナギクという人だったことを思い出して、顎を引く。

 義姉妹全員が数歩下がった。このまま小倉おぐら家に向かうことを鈴歌が一反木綿に指示している後ろ姿を眺めていると、歌七星に袖を引っ張られる。


「結希くん。こんなこと……恥ずかしくて公には言えませんが」


 小声で耳元に口を寄せた彼女は息を吸い込む。


「わたくしも、勿論真璃絵姉さんも、貴方のことが好きですよ」


 照れくさそうに微笑んで、背中を向けて端まで逃げた。

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