十一 『なんで』
幸茶羽の様子がおかしいことには気づいていたが、それを言うような雰囲気ではなくて口を噤む。結希に後頭部を向けた幸茶羽は、振り返る素振りを一切見せずに膝を抱えて丸まっていた。
「さ……」
瞬間に陰陽師の力が騒ぐ。二人がいる客間に姿を現したのは、生まれた時から共に生きてきたスザクだった。
「結希様!」
「スザク!」
何故か膝の上に乗ってきた幸茶羽には目もくれず、駆け出したスザクは結希に抱きつく。
「うわぁぁぁあん! なんでこんなところにいるんでございますかぁあぁあ!」
そして、その涙の意味を知った。
「あ゛っ?!」
恐ろしいくらいに汚い声が出る。号泣しているスザクは鼻水を垂らしており、それだけで何があったのか薄々とだが察してしまった。
「ぐっ、ぐるしっ! 離せバカ! 愚か者!」
巻き込まれるような形で一緒に抱き締められていた幸茶羽は、必死に身を捩ってスザクから逃れる。そこでようやく、スザクは幸茶羽の姿を見た。
「あ゛っ?!」
今まで聞いたことがないほどに汚らしい声を上げて、震える指が幸茶羽を差す。幸茶羽は、そんなスザクの指をなんとも言えない表情で見つめていた。
「さっ、さっ、さっ、幸茶羽様ぁ?!」
「落ち着けスザク!」
「ちょちょちょちょちょちょちょっ、まっ、まさかここは──」
「その〝まさか〟だとしたらどうするんですか?」
瞬間に姿を現したのは、スザクと瓜二つの容姿を持つククリだった。
ククリは絶句したスザクを眺め、スザクとまったく同じ目を細める。二人の容姿は瓜二つだが、性格はまったく違うのだとこの一瞬で思い知らされた。
「何も言えないんですね」
だが、ククリは頬を膨らます。そういう子供っぽいところはスザクにもある要素だった。
「従います」
そう返したスザクの表情は、甘えるように結希に抱きついていたにも関わらず、信念のある大人びた表情だった。迷いのない、どこまでも真っ直ぐな表情だった。
「そんなのは当たり前です。私たちは陰陽師様に仕える式神なんですから」
ククリは鼻を鳴らして姿を消す。だが、監視していることが確定した以上油断することはできなかった。
「結希様」
「しばらくの間、頼む」
「承知いたしました」
「向こうで何かあったか?」
「あったも何も、皆様が結希様のことを心配しておりますよ。大きな騒ぎにはなっていませんが、陰陽師様の新年会が終わったらどうなるか……。麻露様方はご自分のご家族と議論している最中ですので、まだ気づいてはいないようですけどね」
「わかった。上手く誤魔化して、何かあったらすぐに来てくれ」
「承知いたしました。……結希様、どうか、ご無事で」
「……ありがとう」
スザクも姿を消す。残された幸茶羽は、唇を真一文字に結んで結希の隣に腰を下ろした。
「幸茶羽が心配するようなことは何もないよ」
誤解を与えないように改めて言う。幸茶羽は何も言わずに隣にいたが、その顔はやはり不安そうだった。
「大丈夫。けど、いつまでもここにいるわけにはいかないからちょっと出るな」
「ならささも行く」
少し前までだったらあり得ない光景だったが、本当に幸茶羽がついてくる。いや、一回だけついて来た日があったが、あれは紫苑がいたからで──こうして揃って歩くのは多分初めてだった。
「……外ってどっち?」
廊下を歩き、この家が意外と広いことに気づく。歩く度に床が軋むほど老朽化が進んでいるが、古いからこその広さがこの家にはあった。
「こっち」
一ヶ月ほどここで暮らしていた幸茶羽に連れられて玄関から外に出ると、広大な野原が視界に入る。そこで、ダウンと短パン姿の多翼が一人で遊んでいた。
「あっ! 結希に〜ちゃん! ささね〜ちゃん!」
それが彼にとっての当たり前なのだろうか。まったく寂しそうな様子を見せずに飛び跳ねる多翼は、駆けてきて若干積もった雪を指差した。
「ねぇねぇ! 雪だるま作ろ!」
「えっ」
そんなつもりで外に出たわけではなかったが、まだ妖怪が出て来ない昼時だ。時間があるとは思ったが、妖怪が出ていない今だからこそ百鬼夜行の対策をしないといけない。
迷い、そして戸惑い、多翼はそんな結希の反応を見て──笑ったまま手を下ろした。
「遊べないなら別にいーや!」
その諦めの早さに驚いた。
「いいよ」
「えっ?! ほんとに?!」
「ほんとに」
「やった〜! 結希に〜ちゃんありがと〜!」
手袋をつけていないからか真っ赤になった両手を上げて、多翼はすぐに雪がある方へと駆け出していく。
元気な子だ。月夜とはまた違った子供っぽさを持っている。春と紫苑が相手にできなかったのもわからなくはないほどに、多翼は活発な小学生だった。
「結希に〜ちゃんはおっきいの作って! ささね〜ちゃんはお顔ね!」
何故か幸茶羽も作ることになっていたが、隣に立つ幸茶羽は拒まない。見下ろすと、幸茶羽は足元に落ちていた枝を拾っていた。
「幸茶羽……」
「なんだ下僕」
「……いや、なんでもない」
「なんでもない? ふんっ、変な下僕だな」
やはり幸茶羽だ。一瞬月夜のように見えたのはきっと何かの間違いだろう──そう思うほどに、棘の抜けた幸茶羽の表情は月夜が時々見せる表情にそっくりだった。
「結希に〜ちゃん! おっきいの作ってね!」
既に多翼の膝ほどの大きさになっている雪だるまの頭を叩き、多翼はまた駆け出していく。じっとしていられないのだろう、初めて会った時から多翼はずっと走っていた。
「……作るか」
歩き出し、積もっている雪を掻き集める。早くしないと雪をすべて奪われて頭の方が大きくなってしまいそうだった。
「ささは冷たいの嫌だから下僕がやれ」
宣言通り下僕扱いしてくる幸茶羽を連れて走っていると、体が芯から温まっていく。それを最初から実行していた多翼を呼んで、巨大な頭を胴に乗せた。
「すご~い! 結希に〜ちゃん力持ち! すご〜い!」
過度に喜ぶ多翼には悪いが、幸茶羽が飾りつけをしている間に傍らへと寄る。
「春と紫苑は?」
尋ねると、「え〜、わかんない」と返された。
「二人は遊んでくれなかったの?」
「ん〜ん。春に〜ちゃんは外で遊ぶのがだいっ嫌いで、紫苑に〜ちゃんはゲームの方が好きだから」
「真菊や美歩は?」
「真菊ね〜ちゃんはお家のことしてくれるからあんまり遊んでくれなくて、美歩ね〜ちゃんは勉強ばっかりしてたよ」
「モモは?」
「モモはねぇ、あんまり遊ぶの好きじゃないんだって」
「多翼は? 遊ぶの好き?」
「もちろん大好き!」
また驚く。多翼が想像以上になんでもかんでも話すから、希望を抱く。
「──この世界の理って知ってる?」
声を潜めて尋ねると、多翼は元から開けていた口をぽかんと開いて首を傾げた。
「ことわり? ことわりって何〜?」
「……いや、なんでもない」
多翼は何も知らされていないのだろうか。それとも、聞き方が悪かったのだろうか。
「多翼はさ、人間と妖怪どっちが好き?」
「どっちも!」
「なんで?」
「え〜? なんでってなんで?」
雅臣に育てられたからか、純粋にそう言っているように見えた。
「どっちを選べって言われたら、どっちを選ぶ?」
あまりにも純粋だったから、なんでもかんでも聞いてしまう。誰も答えてくれないようなことを、多翼なら答えてくれると──子供なら答えてくれると思った結希のそういう部分は多分汚い大人だった。
「どっちも!」
そんな多翼が眩しくて目を細めてしまいそうだった。
「なんでどっちもなんだよ」
笑い、戻ってきた幸茶羽と目が合う。
「なんで? なんで〝どっちも〟じゃだめなの?」
そして、二人揃って表情が固まった。決して不快ではない、それでも筆舌し難い感情がじんわりと心に広がっていく。
「僕はね〜、みんないっしょがいい!」
それを、いつからか自分たちは忘れていた。
「パパと〜、真菊ね〜ちゃんと〜、春に〜ちゃんと〜、紫苑に〜ちゃんと〜、美歩ね〜ちゃんと〜、僕と〜、モモと〜、結希に〜ちゃんと〜、つきね〜ちゃんと〜、ささね〜ちゃんと〜」
指を一本一本曲げていく。両手の指全部が曲がる。
「ククリと〜、カグラと〜、ツクモと〜、タマモも! み〜んないっしょ!」
足りなくなったから指を開いた。永遠に数えられるやり方で数えて笑った多翼は、その名の通り天使のようだった。
「あ〜! こんなとこにいた〜!」
そんな多翼と負けず劣らずの明るさで駆けつけてきた月夜は、雪だるまを視界に入れて「あぁ〜!」と叫ぶ。
「なんでつきも誘ってくれなかったの〜?!」
地団駄を踏んだ彼女は、いつもの月夜だった。
「え〜! ごめ〜ん!」
いつも一人で遊んでいた多翼は本当に申し訳なさそうな顔を見せ、「え〜と、え〜と」と辺りを見回す。
だが、雪だるまに使えそうな雪はもうどこにもなかった。
「あっ、そうだ! つきね〜ちゃん、羽子板しよ〜!」
「羽子板?! する〜!」
「羽子板しない」
「えぇ〜?! なんでぇ真菊ね〜ちゃん!」
振り返ると、玄関から真菊が顔を出していた。何かを悟られたのだろうか。ククリが告げ口をしたのだろうか──
「ご飯よ」
──だが、真菊は、顎をしゃくっただけでそれ以外は何も言わなかった。
「……ご、ご飯?」
「おせちじゃなくて雑煮だけどね。月夜、嫌いな食べ物はある?」
「ううん、ないよ!」
「そう。なら良かった」
わかっていたが結希には何も聞いてこない。「野菜全般」と答えるわけにもいかずに大人しく真菊について行くと、どの部屋よりも大きな居間に通される。
その中央に置いてあったちゃぶ台を、雅臣と春、そしてモモが囲んでいた。
「全員揃ったね。じゃあ」
そう言って雅臣が座布団の下から取り出したのはポチ袋で、後ろにいた多翼が「やった〜!」と叫ぶ。
そのポチ袋の意味を、月夜と幸茶羽はもちろん結希だって知っていた。
「はい。お年玉」
芦屋家の子供たちだけではなく、月夜と幸茶羽にも配る雅臣は一体何がしたいのだろう。
目の前に差し出されたポチ袋を、結希はどうしても受け取るのに躊躇した。
「どうぞ。結希」
「……なんで」
多分他意はないのだろう。それでも「なんで」と聞いてしまう。
そのポチ袋に、一体どういう意味を込めたのかと。
「え? なんでってなんで?」
多翼とまったく同じことを言って、本当に不思議そうな顔をする雅臣の顔をぶん殴りたくなる。だが、そう思っているのは結希だけだった。
全員が両手で受け取ったのに自分だけは片手で受け取って、結城家から貰っていたものよりも薄いことに気づく。
それどころか入っていないのではないか──直後にポチ袋全体に触れた。
「…………」
この大きさとこの形は、間違いなく五百円玉一枚だけで。母子家庭だった自分の家よりも貧しい生活を送っている父親を見上げ、それでも心は満たされているのであろう笑顔を確認し、ポチ袋を握り潰してズボンのポケットに押し込んだ。




