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百鬼戦乱舞  作者: 朝日菜
第十章 佳月の幸福
209/331

幕間 『闇夜を背負う』

 生まれた時から死にたいと思っていたわけではない。


 生きることは楽しかった。愛してくれたから幸福だった。けれど、ずっと影がつき纏う。自分の中にある最初の記憶があの百鬼夜行だったから、その影が永遠に離れない。

 それよりも前のことを何も知らなかったから、ささは本当に真璃絵まりえとの思い出が一つもなかった。ただ、ずっとニコニコと笑っている──そんな人だったのはうっすらとだけど覚えていた。



 


月夜つきよ! 幸茶羽ささはッ!」


 保育園から地下へと避難し、周りの子たちが親と一緒に去って長い時間が経った頃、今にも泣きそうな愛果あいかの声が聞こえてきた。後ろには既に泣いている椿つばきがいて、心春こはるだけいなくて。困ってる先生から姉さんとささを引き取ろうと頑張る愛果の必死そうな顔が今でも頭から離れなかった。


「だから! ウチがお姉ちゃんなの! 親はいないからウチが引き取るの!」


「そ、そうじゃなくてね、違うの。一番上のお姉さんはどこかな?」


「今はいないの! 早く二人を返してよ!」


「じゃあ、知ってる大人の人は? 貴方たちが姉妹なのはわかるけれど、貴方たちだけだと危ないから……誰かいないかな?」


 首を横に振った愛果は、無力だった。椿が声を上げて泣きじゃくるから、姉さんもささも泣いてしまった。


「どうしよう……。登録されている番号ってお姉さんのだっけ?」


「うん、けど駄目。さっきからかけてるけど全然繋がんない」


「ご両親ってあの人たちでしょ? 他の《十八名家じゅうはちめいか》から連絡取れないかな?」


「スズシロちゃんのがあるからやってみるけど……白院はくいん家かぁ」


 瞬間、体が宙に浮いた感覚がした。愛果が先生を突き飛ばしたのだ。


「きゃっ?!」


「いっ……た! 愛果ちゃん?! ちょ待ちなさい!」


「椿走って! 早く! 走って!」


「ッ?!」


 姉さんとささは愛果に抱き抱えられていて、椿が必死にささたちの後を追いかけてくるのが見えて。

 地下なのに仮設住宅のような家がたくさん建っているから、それを上手く使って先生たちを撒いた愛果は姉さんとささを抱き締めた。


「あいねぇ、しろねぇは……?」


「いない」


「なんで……?」


「戦ってるから」


 姉さんの質問に愛果が答える。


「はるねぇは……?」


「お姉ちゃんたちが探してくれてる」


「…………お姉ちゃんたちは、だいじょうぶなの?」


「大丈夫。大丈夫だから。……三人のことは、ウチが、守るから」


 けれど、あの時の愛果と同い年になった今だからわかる。大丈夫なんて嘘だ。大丈夫なことなんて何もなかったんだ。

 ささたちは愛果が言葉通り守ってくれたからなんともなかったけれど、別の日に行った真っ白な病室で見た景色は、守られていたからこそ余計に衝撃的だった。


 ちょっと前まで笑っていた姉さんたちが、全員、ベッドの上で意識を失っている。


 半妖はんようだからと後回しにされたのか、命に別状はないと判断されたその瞬間からそのまま放置されていて、拭われなかった血が、破けた服が、捻じ曲がった手足が、塞がっていない傷が、剥き出しの骨が、全員にあった。その全員が並んでいる景色が、ささが一番覚えている景色だった。


 忘れたくても忘れられない。


 そんな姉さんたちを着替えさせて、血まで拭った愛果の背中も。別の病室にいた心春に付き添っていた椿のことも。手伝いたいと思ったのに、何もできなかった自分たちのことも、忘れられない。


 物心ついた時から自分たちが戦う宿命にあることを知った。あんな大怪我を負っても死なない化け物なのだと知った。

 自分が座敷童子ざしきわらしだということを知って、座敷童子を見たら幸せになれるってことを絵本で知って、姉さんたちを幸せにしなければならないのだと知った。


 けれど、姉さんとささはいつまで経っても座敷童子になれなかった。


 愛果は百鬼夜行よりも前から半妖の姿になれていたらしいけれど、なれただけで力はまだなかったからささたちの傍にいてくれた。

 多分、愛果も戦いに出て、椿だけが残されたら、姉さんとささは地獄を見ていたんだと思う。《十八名家じゅうはちめいか》だけ真っ先に地下から出ることができたけれど、愛果は出ようとしなかった。だから、ささたちが見たのは姉さんたちだけで済んでいた。


 愛果は不良になったから誰よりも強くなったとか言ってたけれど、あの時誰よりも強かったのは愛果だった。

 姉さんたちが目覚めるまで頑張ってくれていたのも、ささはちゃんと覚えてるから。力を得て守ってくれるようになった椿の背中も、小さくなったのに強くなった心春の背中も、みんなから守られているのにささの一歩前に出て守ってくれた姉さんの背中も、覚えているから。


 だから、どうして生まれてきた順番でこうも違うのだろうと泣きたくなった。


 姉さんに対しては特にそう思っていた。姉さんの方がちょっと早く生まれてきただけなのに、変にお姉ちゃんぶるからささも負けないようにお姉ちゃんぶった。

 そうしたら、姉さんがお姉ちゃんぶるのを止めた。急に末っ子になったから、ささは末っ子に戻れなかった。


 なら、姉さんのことはささが守る。今までずっと姉さんたちに守ってもらったように、姉さんを守る。


 決意した瞬間に半妖の姿にはなれたけれど、愛果と同じようになかなか力が出ることはなかった。回復系だと熾夏しいかが言うから手当り次第にやってみたけれど、ダメだった。


「次はつきの番! 百妖ひゃくおう月夜、十一歳です!」


「十一歳……って、小六?!」


 それからちょっとして、前からシロが言っていた奴が家に来た。あいつはそう言って驚いて、姉さんとささをじっと見てきた。

 こっちを見るな。ささはお前なんか大っ嫌いだ。知らない奴がこの家に住むなんて絶対嫌だ、お前は家族じゃないんだから。あの日、あの病室にいなかったお前を、家族だなんて思わない。


「うん! でね、こっちはささちゃん! つきの双子の妹だよ!」


 姉さんがささと繋いだ手を上げる。すごく恥ずかしかったし、そんな姿を見られたから「よろしく」って言って笑ったあいつを無視した。


「よろしく、ささちゃん」


「その名で呼ぶな! 貴様、馴れ馴れしいぞ!」


 あいつを睨み、「ささの名前は幸茶羽だ!」と叫ぶ。こいつは家族じゃない。家族の下僕だ。だから下僕の脛を頑張って蹴った。


「うぐッ!?」


 そしたら下僕が膝をついた。姉さんが下僕の脛を触って「痛いの痛いの飛んでけ〜!」って言ったけれど、下僕は、痛いって言った。

 それが、上手く言えないけど痛かった。いつまで経っても、姉さんとささは座敷童子になれなかった。





『なるほどな』


 下僕が呼んだアリアといぬいという奴が、姉さんとささがどうして座敷童子ざしきわらしになれないのかを調べてくれた時にこう言った。


『お前らは〝二人で一人の半妖はんよう〟なんだよ』


『二人で……』


『……一人の、半妖?』


『そうだ。お前らは一卵性だからな、元々一人の人間なんだよ。だからバラバラでやろうとすると使えない』


『じゃあ、どうすればいいの?』


『さぁな。そこは自分たちの方がよくわかってんじゃねぇの』


『…………わかんないから聞いてるんだろ』


『気持ちはわかるけど、自分の力のことだからね。それだけはどうしても他人が口出しすることはできない。けど大丈夫だよ、み〜んなそうだから』


 そんなこと言われたら何も言い返せなかった。


 姉さんが力を使えないのは、お腹の中にいた時にささが姉さんと離れ離れになっちゃったせい。お腹の中で死なずに生まれてきちゃったせい。


 息ができなくなるくらい、泣きたくなるような事実だった。

 先に生まれたのか後に生まれたのかの違いだけど、単純な人間性や才能だけを見ても、生きてほしいのは姉さんの方だった。姉さんは末っ子ぶるけれど、やっぱりささの姉さんだった。


結希ゆうきから連絡があった。襲撃場所は陽陰おういん駅らしい」


「なるほど。じゃあ、行きましょうか」


「あぁ。ヒナギク、真璃絵まりえたちを任せたぞ」


「さっさと行け。副会長が……あいつが待っているんだろ?」


 下僕と熾夏しいかだけがいない家の中で、ヒナギクが姉さんたちの背中を押す。その顔は不満そうだったけれど、総大将なんだから前線に出るなとシロに言われた瞬間から下僕のことを姉さんたちに任せていた。

 姉さんとささは当然のように留守番と言われていたけれど、いつの間にか、姉さんが一歩前に出ていた。


「つきも行く」


 その背中が姉さんぶっていた頃の姉さんと重なった。


「駄目だ。守れる保証がない」


「それでも行く! 絶対行くから!」


「駄目だ」


「やだやだやだやだ! 置いてかないで! お願いシロねぇ!」


 駄々をこねる姉さんは、どうしようもないくらい子供っぽかった。ささがお姉ちゃんぶったあの日からそんな態度を取るようになった姉さんは、ささのせいで大人になれないのだとたった今気づいてしまった。

 今日もまた姉さんたちに守られるのだと──下僕にも守られるのだと思ったら、また泣きそうになってしまった。


「駄目だとさっきから言っているだろう。今日は阿狐頼あぎつねよりの吉日なんだぞ? 危険なんだ」


「だからだよ! じゃないとつき、ずっと力が使えないままな気がするから! だから連れてってよ!」


「ッ?!」


「そうは言ってもな……」


 シロが困りだした。けれど、それよりも姉さんが力が使えないって焦っていることの方が衝撃的だった。


「一理あるんじゃないの? シロ姉。いつまでも甘やかす方がダメだと思う」


 姉さんに助け舟を出したのはささじゃなくて愛果で、また愛果に守ってもらったんだと思って、納得し始めた姉さんたちを姉さんが必死に説得する。


 ささはずっと黙ったままだった。ささなんかこの家に存在してないんじゃないかって思うくらい、ささは何も言えなかった。


 幸せそうに見えない姉さんを見るのが苦しくて、ささはいらない子だったんだと思って、泣くのを必死に我慢した。

 姉さんたちについて行って線路に下りると、すぐに下僕が現れて、妖怪も来て、姉さんたちと下僕の背中に体を押されて、いつの間にか家族全員に囲まれて、いつもよりも怖い妖怪から守ってもらった。


 一番近くにあった下僕の背中が、姉さんたちのとは全然違って目が離せなかった。そして、下僕と姉さんたちが何も言わずに背中を預け合って姉さんとささを守ろうとしてくれた事実が泣きたくなるくらい嬉しかった。


 下僕は、家族。大事な、家族。


 口が裂けてもそんなことは言えないけれど、ようやくそれを認められた。気が緩んだ一瞬でみんながささたちから離れていって、その隙をついた妖怪に怯えた。


「きゃ……」


「あっ……」


 悲鳴にもならないような声が出てきて、怖いという感情が体中を駆け巡って、勝手に怪我が治るのを眠ったまま待っていた姉さんたちが脳裏を過ぎる。


「ッ! りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん!」


 そしたら、結界が姉さんとささを包み込んだ。


月夜つきよちゃん! 幸茶羽ささはちゃん! ごめん! 大丈夫?!」


 いてもいなくても変わらないささの名前を呼んでくれた。


『その名で呼ぶな! 貴様、馴れ馴れしいぞ!』


 あの時何も考えずに吐いた言葉を律儀に守ったまま、なんの価値もないささの名前を呼んでくれた。

 下僕は、あいつは……兄さんは、すぐに遠くに行っちゃったけど、結界はずっと破られなかった。


 そんな結界に、守られていた。けれど、下僕は入院した。


 姉さんたちも一応診てもらうことになって、姉さんとささは付き添ったけれど、どうしても下僕の病室に行きたくて姉さんと一緒に下僕の病室に忍び込んだ。

 眠る下僕を扉の前で見ていると、どうしてもあの時の姉さんたちと重なってしまって怖かった。それでも後悔だけはしたくないから、下僕の元へと二人で歩いた。


「……寝てるね、お兄ちゃん」


 初めて会う前から下僕のことを〝お兄ちゃん〟と呼んでいた姉さんは、しゃがんで下僕の顔を見つめる。

 ささは正面に立って「うん」って言うことしかできなかった。


「ささちゃんはさ、お兄ちゃんのこと好き?」


「えっ」


「つきは好きだよ。お兄ちゃん、お姉ちゃんのこと笑顔にしてくれるから。優しいし、守ってくれるし、大人の人だから」


「それって……」


 言おうとしたけれど、やめる。聞きたくない。なんでそう思ったのかはわからないけど。


「けど、そのせいで怪我しちゃうのは……嫌だよ」


「……あ」


「お兄ちゃん、いっぱい怪我してる。このままじゃ、いつか死んじゃうかもしれない。そんなのは嫌だよ」


「ささだって嫌だ!」


 言うつもりはなかったのに言ってしまった。なんで言ったのかはわからないけど。


「うん。だから、強くなりたい。今度はつきがお兄ちゃんを守ってあげたい」


 姉さんが何かを言う度に苦しくなった。なんで苦しくなったんだろう。姉さんの言葉で苦しくなったことなんて今まで一度もなかったのに。


(……あ、わかった)


 気づかなきゃ良かった。一瞬そう思ったけれど、姉さんの為に何かができるなら気づけて良かったと思ってしまう。


 ──ささが姉さんの願いを邪魔してるんだ。


 姉さんが力を使えないのは、ささのせい。姉さんが幸せになれないのも、ささのせい。


 ささが死んだら、ささの力は姉さんのものになるのかな。そうだったらいいな。じゃあ、死んじゃおうかな。


「下僕」


 それからちょっと経って、捕まえた紫苑しおんのとこに行こうとする下僕に誰もいない廊下で声をかけた。


「何? 幸茶羽ちゃん」


 振り向いて本当に不思議そうな顔をする下僕は、ささの気持ちになんにも気づいていなかった。それが嫌で、それで良くて、ぐちゃぐちゃした気持ちになって、誰かに抱き締めてほしいって思う。


「ささも行く」


 いや、誰かじゃない。姉さんたちに抱き締められるのは多分違う。誰かって思うけど、誰でもいいわけじゃない。


「行くって……どこに行くかわかって言ってる?」


 そう言って後ろに下がる下僕の服の裾を掴んだ。


「わかってる! わかってるから会いたいんだ!」


 絶対に離したくない。強く握ったから下僕が困ったような顔をする。

 それを見てすごく傷ついた自分がいた。なんで傷ついたのかわからなかった。


「……本気?」


「本気だ!」


 傷ついたけど離したくない。


「……大丈夫か?」


 本当に心配そうにささの顔を覗き込んだ下僕の顔が近くて驚いた。


「だっ、大丈夫だ!」


 何も考えずに言ったけど、ささは大丈夫って言葉が信じられないことを知っている。だから多分大丈夫じゃなかった。


「……わかった。じゃあ行こう」


 下僕も多分気づいてる。けれど何も言わなかった。そういうところが大人の人だなって思った。

 その後で会った紫苑は全然大人じゃなくて。色々言われたけどささの意思は変わらなくて。家に家族じゃない人間が増えていくのが嫌で、家族じゃない人間を受け入れている姉さんたちが嫌で、下僕に心を許している姉さんたちを見るのも嫌になった頃──


「なっ、なんでささが! あの人との思い出なんてほとんどないのに! ささにとっては他人なのに!」


 ──ささは、言ってはいけないことを言った。





 芦屋あしや家の人たちは、すごく優しかった。みんな紫苑しおんみたいな人たちだと思っていたから、分けてもらったご飯を見た時棘が抜けたような感覚がした。


「嫌いな食べ物はある?」


「……な、ない」


 顔に火傷跡がある真菊まぎくは「そう」って言って頷いて、足元に置いていた炊飯器の上にしゃもじを置く。


「いただきます」


「いただきま〜す」


 声が真菊に続いていった。言えってシロがしつこく言っていたから、ちゃぶ台を囲むみんなと一緒にそう言えた。

 正座は辛かったけど、ご飯は美味しかった。


「……ここに来た理由、そろそろ教えてもらっていいかな」


はる、食事中よ」


「けど姉さん、俺は充分待ったよ」


「無理に聞く必要はないわ」


 どうしてそんなに優しいんだろうって思うくらい、真菊は優しかった。

 悪い奴なはずなのに優しくて、戸惑って、下僕に抱いた感情とちょっと似ている気がして箸が止まる。


「……ささは、悪い子だから」


 それを、多翼たいきもモモも、この家のおじさんも聞いていた。


「……そっちからしたらこっちが悪いのかもしれないけど、こっちからしたらそっちが悪よ」


「……そんなことない。姉さんたちも、あいつも、すごく優しいから」


「あいつって、あの男?」


「そう」


「なら、あいつこそ悪そのものよ。あいつは六年前に百鬼夜行を止めた。悪い奴なのよ」


「えっ……。知ってたの? 真菊」


「知ってるわよ、父さん。あいつが父さんの息子だってことも私たち全員知ってるから」


「そうだったんだ……。そっか、知ってたのか」


 理解することに時間がかかった。真菊は今、なんて言った?


 お椀と箸を持つことさえしたくなくて、ちゃぶ台に置く。そうだ。そっちの方が納得できる。


 あれほどの大怪我を負った姉さんたちに百鬼夜行を止める力が残ってたなんて思えない。姉さんたちをずっと支えてくれていた下僕が止めたって言ってくれた方が、納得できる。


「──ッ」


 膝の上に涙が落ちた。泣きそうだった日は幾つかあったけれど、本当に泣いたのは今日が初めてだったかもしれない。


「ささね〜ちゃん泣いてるの?!」


 ずっと黙っていた多翼が身を乗り出して驚く。モモも持っていた箸を落としていた。


「泣いて……な……」


 嘘だ。止まらない。下僕のことを考えると涙が出てきて止まらない。

 なんでだろう。なんで姉さんたちよりも下僕のことを考えるんだろう。なんでこんなに苦しいんだろう。


 一番苦しかったのは下僕だ。


 六年前はささよりも一個下だった下僕だ。


 そんな下僕が可哀想だって思ったのかもしれない。涙は全然止まらなかった。


「──馳せ参じたまえ、カグラ!」


 その事実を漏らした真菊が吠える。瞬間に下僕がカグラに切られた。

 真っ赤な血を信じられないくらいに撒き散らした下僕を見た時、なんでかささも痛かった。


「お兄ちゃんッ!」


「真菊ッ!」


 思わず手が出た。殴ったのに痛がらなかった真菊の顔が怖かった。あんなに優しくしてくれたのに、真菊は下僕に対してだけ冷たくて──嫌だった。


「ささちゃん! 来て!」


「っ」


 まさか。そう思ったけれど、姉さんは本気でやろうとしている。


「お兄ちゃん! 大丈夫?! お兄ちゃんッ!」


 無理だって思ったけれど、足が勝手に動き出した。



「──……結希ゆうき!」



 思わず出てきた掠れた声は、ずっと飲み込んでいた名前を呼んだ。


「ね、姉さん……! ど、どうすれば……?! どうすればいいの?!」


「落ち着いてささちゃんっ! つきたちは、〝二人で一人〟でしょ?!」


「でもっ、今まで二人でやろうとしたのに一回も成功できなかったじゃん! そんなの無理! できないよ!」


「できる! いい? ささちゃん! 絶対今成功させるの! このままだとお兄ちゃん死んじゃうんだよ?!」


 その言葉があまりにも眩しくて、ささは影になってしまう。

 きっと、ささが死にかけても同じことを言ってくれるんだろう。そんな姉さんと〝二人で一人〟だなんて。そういうのを〝おこがましい〟って言うんだって知ってるけれど、下僕を助けたくて、二つに引き裂かれそうになる。


 どうすればいいの。神様がいるなら今すぐ助けて。ささの命が終わってもいいから、下僕を、助けて。


月夜つきよちゃん! 幸茶羽ささはちゃん! 手を繋いで!」


 聞いた瞬間に手を伸ばした。繋いだ姉さんの手は温かくて、あの日の姉さんたちと同じようにボロボロになった、姉さんたちよりも弱い下僕の右肩に左手を置く。


 ──死なないで。生きて。お願いだから。


 それだけしか考えられなかった。黄金色の光がささの左手と姉さんの右手に灯されて下僕を包み込んだ時、知らない感情がささの心に流れ込んでくる。

 それは多分、姉さんのものだった。その感情につける名前をささは知らなかったけれど、気がついたらささは笑っていた。


「生まれてこなきゃ良かったじゃなくてさ、生まれてきて良かったって思いたいよな」


 そんな下僕が、他でもないささに言った。そう言える下僕の強さをまた一つ知ってしまった。


「別に」


 けれど、ささの気持ちは変わらない。

 生まれてこなきゃ良かったって思ってないと、姉さんを幸せにできないから。ささは、欲張っちゃうから。


「いやほら、考え方を変えたらさ、二分の一じゃなくて二倍になるだろ?」


「二倍……?」


「二人で一人ってのはそりゃそうだけど、二人で力を合わせたら一人分よりも大きな力が生まれる的な」


「……何言ってんだ下僕は」


「ご、ごめん」


「折れるな」


 もっと聞いていたかったのに。不満だけど、姉さんの感情を知った瞬間から笑ってしまうことが増えていた。

 ささの中に姉さんがいるのだろうか。下僕の前だと姉さんに言えなかったことも話してしまう。ずっと飲み込んでいたことなのに、下僕はささの話を言葉通り聞いてくれた。


 遠かった距離が縮まっていく。あの家に帰ったら、ささも姉さんたちと一緒なって下僕と話すことができるのだろうか。


 そんな未来を描けたのは一瞬だった。


「下僕、何を……」


「俺は二人と一緒に帰れないと思うから、今のうちに言っとこうと思って」


「……なんで?」


「大丈夫、裏切ったとかじゃない」


「そういうことを言ってるんじゃない!」


「大丈夫。本当に大丈夫だから」


「大丈夫って……貴様の言う大丈夫ほど信用のないものはないぞ!」


「えっ、マジで?」


 ささはそうじゃなかったけれど、下僕は自分の大丈夫が本当に大丈夫だと思っているらしい。


「ささは、貴様も一緒じゃないと嫌だ!」


 離れたくなくて抱き締めた。あの時は裾を握るだけで精一杯だったけれど、姉さんが心に住み着いているからかなんでもできた。


 このままもっと下僕と一緒にいると、姉さんみたいにわがままになりそう。姉さんみたいに、好きって言いそう。


「幸茶羽」


 また名前を呼んでくれた。それが擽ったくてやめてほしいって一瞬思ったけれど、やっぱり嬉しいが勝っていた。


「ごめん」


 そして、怒りよりも悲しいが勝っていた。


「……やだ」


「ごめんな」


 ささから離れる下僕は本当に申し訳なさそうで、ささよりも大きいのに縮こまる下僕の傍にいたいと思って、ひらめく。


「下僕!」


 すると、下僕がびくっと両肩を上げて驚いた。


「下僕はささの下僕なんだから、下僕がここに残るならささも残る!」


「えっ?!」


「わかったら返事!」


「返事も何も下僕ってそういう……ただの呼び名じゃなかったのか?!」


「当たり前だ!」


「えぇ……今さらそんなこと言われても……」


「今さらじゃない!」


「今さらだよ」


 ずっと傍にいてほしいから離さない。下僕の膝の上に座って気づく。


(今、ずっと傍にいてほしいって思った?)


 ちょっと前まで死にたいって思ってたのに、いつの間にか生きたいって思ってる。無意識だったから体が固まって、振り返ると、下僕と目が合った。


 下僕は生きてる。ささと姉さんが下僕を助けた。ささが死ななくても助けられたけれど、心には何故か姉さんがいる。これが〝二人で一人〟だと言うのなら、ささはきっと、いつか消えてしまうのだろう。


 月明かりはまだ見えない。真っ暗な闇の世界をささは一人で歩いていく。

 そんな宿命を背負っている。ずっと傍にいてほしいと思ったのは、多分、ささの気持ちじゃなくて姉さんの気持ちだ。


 これが恋だと言うのなら、姉さんは本当に下僕のことが好きなんだな。


「どうしたんだよ」


「なんでもないよ」


 だからまた、口を閉ざして飲み込んだ。

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