十 『大丈夫』
「どうした? ……幸茶羽」
幸茶羽と呼べと言われたからそう呼んだ。幸茶羽は恥ずかしそうに顔を赤らめており、唇を何度も何度も開閉させて、そのまま片足で立ち続けている。
月夜とほとんど同じ瞳が閉められた襖に向けられた。ずっと閉められていた窓にも視線を向け、ぎゅっときつく唇を噛み締める。
「聞くよ。幸茶羽の話なら、なんでも」
義弟の春には言いたいことがあるなら言ってもいいよと言った。だから、義妹の幸茶羽には聞くよと言う。
多分、ずっと何かを話したかったのだろう。それを月夜には告げていて、だから月夜は部屋を出て。だが、あまり話す機会がなかったせいか、蹴って注意を引きつけた幸茶羽は切り出すことに時間を要した。誰もいないことを確認する時間もかかって、ようやく声を出す。
「……本当に、無事なんだな」
それを確認する為でもあったのだろう。幸茶羽に蹴られた部分も、殴られた部分も、まったく痛くなかった。
「治ったよ。全部」
アリアに治してもらうことを拒み続けて、今、ようやく治った傷。それは一切痛むことなく、どこにあったのかさえ忘れてしまうほどだ。
幸茶羽は、じっと、そんな結希の微笑みを見つめていた。
「…………良かった」
随分と長い間沈黙して、やっと出てきた言葉は素直なもので。痛みが消えなかった初対面のあの日、涙を流しながら逃げ出した幸茶羽がようやく救われたような気がした。また新しく流れてきた涙は、あの頃のものとは正反対のものであるとわかっていた。
「さっき姉さんと話したんだ」
「うん」
「言いたいこと、全部は言えなかったけど……」
「うん」
わかる。父親にも、母親にも、結希は言いたいことをすべて言えていないから。
「……けど、話せて良かった。だから、ささは……帰ろうと思う」
瞳に映った幸茶羽は、ずっと不機嫌そうな幸茶羽ではなかった。刺々しさが落ちた、月夜に似た穏やかな表情で──まだ一抹の不安を残した小学生には到底できそうにない表情だった。
「姉さんたちは、多分許してくれるよな」
「許すよ。だから早く元気な姿を見せてやれって」
「それが嫌なんだ。わかるだろ、下僕なら。あの人たちはすっごくお人好しなんだ。馬鹿なんだ。だから、簡単に許されるのが……すっごくやなんだ」
「…………」
自分のことを罰してほしいと思っている時点で充分な罰を受けている気がするが、そう言ったところで幸茶羽は納得しないだろう。
まだ小学生の子供がしたことを必要以上に咎めるような人たちはどこにもいないとも思うが、幸茶羽はきっと子供扱いされることを嫌うのだろう。
「あの人たちさ」
一人一人の顔を思い浮かべて思う。
「麻露さんから本当の家族じゃないって言われた時、めちゃくちゃ麻露さんのこと責めたんだよ」
あの日のことは忘れたくても忘れられないが、夢であったかのようにも感じる。
「今でも許してないって口では言ってるけど、今朝仁さんから家族になって幸せだったかって聞かれた時、満面の笑みで答えてさ。幸茶羽のことは簡単に許すんだろうけど、許さないって思った時はちゃんと責めるから」
そう思ったのは、離れ離れになっても変わらなかった彼女たちの笑顔を見たからだった。真っ直ぐに前を見つめて進んでいく彼女たちの後ろ姿を見たからだった。
「だから大丈夫……いや、何が大丈夫なのかはわかんないけど、あの人たちはちゃんと罰を与えることができるから。そこだけは信じていいと思う」
「……下僕は?」
「俺? 俺は……何もしないけど」
「なんで。ささは……下僕のことが嫌い。初めて会った時から、大っ嫌い。なのに、下僕は全然怒んない。なんで」
「別に怒ることじゃないし。それくらい、幸茶羽にとって家族が大事だったってことだろ? それはわかるからさ」
「……ささはわかんない。自分のことなのに、何も、わかんない」
「それもわかる」
「何言ってんだ下僕は」
困惑された。だが、自分の気持ちがわからないと言う幸茶羽の気持ちがわかるのは本心だった。
大人になれば何かがわかるのかもしれないが、まだ子供の時間を生きている結希と幸茶羽はそういうところで繋がっている。子供扱いは結希だって嫌だが、幸茶羽のことを少しでもわかることができるのは、自分がまだ子供だからなのだろうと思った。
「まぁ、いつかわかるから」
あと数年経って、今よりもほんの少し大人になって、今を振り返ったら、きっと。瞬間幸茶羽の雰囲気が変わった。
今までは生きているような音がしていたが、急にその鼓動を止めたのだ。その変化があまりにも冷たくて、幸茶羽から視線を外していた結希は幸茶羽に視線を戻すことを恐れた。
「ささは……」
その声も、今までの比にならないくらい低かった。
「……ささは、ずっと、死にたかった」
そのいつかを幸茶羽が望んでいなかったことを、知らなかった。
「……え?」
そう言うことしかできなかった。
「だって、ずっと、ささのせいだってわかってたから」
そう言った幸茶羽が今にも泣きそうな声をしていた。
「姉さんが力を使えないのも、姉さんが大人になれないのも、姉さんが幸せになれないのも、全部全部ささのせいなんだもん」
吐き出した幸茶羽がついに涙を流したのを、結希は彼女の嗚咽で悟った。
そんなことをさっきも言っていたことに気づいて、どうして幸茶羽はそんなことを言うのだろうと思って、答えが出なくて、拳を握り締める。
「だから、ずっと、死にたかった」
軽率に死ぬなとは言えなかった。それは幸茶羽もわかっているから死にたかったという過去形になっているのだろう。
だが、過去形になっていても、その言葉は自分自身と結希のことを刺していた。
「生きていることが、すっごく、辛かった」
何一つ着飾っていない言葉が刺した場所を再び刺す。だから本音なのだと思う。
子供は自分の気持ちを正確に伝えることができない。知っている言葉だけでは自分の気持ちを表現することができないからだ。
それでも、持っているすべての言葉を使って伝えようとしている。それが今の幸茶羽だった。
「月夜は絶対にそう思ってなさそうだけどな」
「だとしても、事実だから」
「事実っていうか、幸茶羽がそう思ってるだけだろ?」
「そんなことない。だって、ささたちは〝二人で一人の半妖〟だから。ささが生まれてきたせいで姉さんの力が半分になったなら、ささは、この世界に生まれたくなかった」
幸茶羽は今、とても悲しいことを言っている。だが、〝二人で一人〟が事実である以上それは確かに否定できなかった。
「それでなんで幸茶羽が犠牲になるんだよ」
「なんでって、ささが妹だから……」
「だから春にあんなこと言ったのか」
「うっ、うるさい! 別に間違ったことは言ってないだろ!?」
確かに間違っていないのかもしれないが、だからといってその考え方になってしまうのは物凄く悲しい。
上手く言えないが、幸茶羽は自分が末っ子だからと自分を犠牲にしてしまうような子供だった。自分が長女だからと自分を犠牲にしてしまう麻露のように、この義姉妹が義姉妹であり続ける為には誰かが犠牲になってしまうのだと直感した。
「俺は、幸茶羽が犠牲になるのは嫌だ。麻露さんにも、依檻さんにも、真璃絵さんにも、歌七星さんにも、鈴歌さんにも、朱亜姉にも、熾夏さんにも、和夏さんにも、愛果にも、亜紅里にも、椿ちゃんにも、心春にも、月夜にも。誰にも犠牲になってほしくない」
「……っ」
だから、麻露の判断はそういう意味では間違ってなかったのだろう。
「みんなもそう思ってるよ」
そう思っていたから、みんなはあの時笑っていたのだろう。
「ささは、姉さんの……姉さんたちの妹で本当の本当に幸せだった」
ずっと真後ろに立っていた幸茶羽がしゃがむ。目線よりも下に行った幸茶羽の瞳は伏せられて、旋毛だけがよく見えた。
「けど、やっぱり、生まれてこなきゃ良かったって、思う。そうでなくちゃ……困る」
薄々気づいてはいたが、やはりそうだった。
幸茶羽はずっと、いや、多分、幸茶羽だけでなく月夜までもが自分を演じていたのだろう。
隣にいる姉の月夜を立てる為に、憎らしい女王様であり続けた幸茶羽と──そんな幸茶羽に応える為に、愛らしいお姫様であり続けた月夜。
今までの二人の言動を見ていたら、この結論が一番しっくり来るのだ。
そうであることを結希は見抜けず、熾夏だけが知っていた一つの真実。それを否定することも、結希は絶対にしたくなかった。
「生まれてこなきゃ良かったじゃなくてさ、生まれてきて良かったって思いたいよな」
「別に」
「いやほら、考え方を変えたらさ、二分の一じゃなくて二倍になるだろ?」
「二倍……?」
「二人で一人ってのはそりゃそうだけど、二人で力を合わせたら一人分よりも大きな力が生まれる的な」
「……何言ってんだ下僕は」
「ご、ごめん」
「折れるな」
そう言って顔を上げた幸茶羽はおかしそうに笑っていた。そんな幸茶羽の顔を見たことがなくて、息が止まるほどに驚いた。
「本当は、〝死にたかった〟んじゃなくて〝死にたい〟だったんだ。けど、死にたいって言ったら、姉さんも下僕も止めるだろ?」
「そりゃ止める」
即答し、今の幸茶羽が本当にそう思っているのかと疑う。
「ずっと、死にたいって思ってたんだ。家を出た時も、本当は死ぬつもりでここに来た。けど、あいつらは……ささのこと殺そうとしなかった。あいつらは、ささのことを家に入れて、少ないご飯を分けてくれた。死ぬつもりだったのに生かしてくれた」
彼女の穏やかな表情は、結希のことを安堵させた。
「今でも死にたいって気持ちは変わってないけど、死んだらいけないとも思う。生きることはできないけど、死なないように……頑張る。百鬼夜行が来ても」
「幸茶羽」
「ん?」
「月夜と幸茶羽は、絶対誰よりも強い半妖になるよ」
「はぁ……?」
「だって、二人で一人だから。二人は、一人じゃないからさ」
「……そんなこと言われても困る」
「陰陽師の俺が保証するから」
不可解そうな顔をされた。だが、本心なのだから撤回はしない。伝えられることは、伝えられるうちに伝えたい。
月夜と幸茶羽がこの家を出てからも二人で一人の半妖であれるように、結希は言葉を探してそれを残す。自分はきっと、二人と共に帰ることはできないから。
「だから頑張れ」
自分がいなくても戦えるように、幸茶羽に自分の言葉を伝える。
幸茶羽は、何かを悟ったのか月夜とほとんど同じ瞳を見開いた。
「下僕、何を……」
「俺は二人と一緒に帰れないと思うから、今のうちに言っとこうと思って」
「……なんで?」
「大丈夫、裏切ったとかじゃない」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
「大丈夫。本当に大丈夫だから」
「大丈夫って……貴様の言う大丈夫ほど信用のないものはないぞ!」
「えっ、マジで?」
だが、ククリに聞かれている以上下手なことは言いたくない。それが余計に幸茶羽の不安を煽ったのか、急に幸茶羽に抱き締められた。
「ささは、貴様も一緒じゃないと嫌だ!」
包み込まれる。幸茶羽の顔が自分の頭の上にあって、正面に胸元があるから幸茶羽の匂いにも包み込まれる。幸茶羽の匂いは、墨のような、そんな落ち着く匂いだった。




